102:宝生聖子と御影家(過去)2
稽古を終えたばかりの聖子は、劇団本部からほど近いカフェに足を運んでいた。御影洋子から「少しだけお話がしたい」と連絡を受けたのは前夜のこと。断ろうかとも思ったが、あの場で断る理由も見つからず、結局こうして会うことにした。
午後三時。カフェの一角、控えめな装飾のソファ席に洋子は既にいた。
「来てくれてありがとう。稽古、お疲れ様」
「……いえ。時間、いただいて恐縮です」
聖子は落ち着いた声で答え、対面に腰を下ろす。洋子はいつものように上品なスーツ姿。香り立つ紅茶を前に、落ち着いた笑みを浮かべている。
「このお店、私が学生の頃からよく通っていたの。人も少ないし、落ち着くのよね」
彼女は、どこか懐かしむように店内を見渡しながら言った。
「あなたみたいな人が、まだ劇団にいるなんて。正直、ちょっと奇跡みたいって思ってる」
「奇跡……ですか?」
「ええ。今の時代、みんな外見ばかり追いがちでしょ?でも、あなたは違う。声も、芝居も、空気の支配力も……あなたは観る者の記憶に、傷みのように残る。だから忘れられないのよ」
洋子の瞳が、テーブル越しにまっすぐ聖子を見据える。その視線に、思わず手元のカップに目を落とした。
「……恐縮です。まだ、足りないところだらけで」
「謙虚ね。でも、私はあなたの孤独に惹かれてるの」
「……孤独、ですか」
「ええ。あなたの芝居には、他人と交わらない何かがある。でも、それが妙に切実で……思わず、触れたくなる。ねえ、あなたはいつも、心の奥で誰とも繋がっていないの?」
聖子は答えに詰まった。曖昧な笑みを浮かべながら視線をそらす。
洋子はそれ以上詰め寄らず、代わりにバッグから小さな箱を取り出してテーブルに置いた。
「これ、よかったら受け取って」
「……?」
「ただの香水。私のブランドの試作品。あなたの舞台を観て、インスピレーションが湧いたから。名前は……《Reverie》。微睡みって意味」
聖子は箱を手に取った。繊細なデザイン。薄いグレーに淡いラベンダーのラインが走っている。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、こんな……」
「気にしないで。私は、ただあなたに……もっと自由でいてほしいの。劇団の役割だとか、スポンサーとの関係とか、そういう立場をいったん全部置いて……ただ、あなた自身として会えたら、嬉しい」
洋子の声は柔らかかったが、そこに秘められた熱は以前よりもずっと濃く、重かった。
(これは……もう、境界線を試してきてる)
聖子は思った。あの夜の食事会の延長ではない。これは明確な個人としての接触。そしてその眼差しの奥にあるのは――支配か、それとも憧れか。もしくは、もっと複雑な感情か。
「ありがとうございます。香水、大事にします」
そう言って微笑みながらも、聖子の中では一つの線が引かれた。これ以上踏み込ませれば、自分の立ち位置が揺らぐ――そんな直感的な危機感。
「じゃあ、また。無理に返事はいらない。ただ、あなたと話す時間は……私にとって、とても貴重なの」
洋子は立ち上がり、優雅に頭を下げて店を出ていった。聖子は、その背中を見送りながら、小さく息をついた。
(私にとって舞台以外の場所での感情なんて、意味がないはずだったのに)
ポケットの中の名刺が、微かに熱を持っている気がした。
***
風組の新公演『白き焔』のチラシが劇場前に貼り出された翌日。朝十時、チケット販売サイトはアクセスが殺到し、五分と経たずに全席が「×」の表示に変わった。
その日の午後には、劇団内のあちこちから歓声が上がっていた。
「即完売だって!」
「え、本当?すごい!」
「前公演のDVDも、もう在庫がほとんどないらしいよ」
「このままいったら今回のグッズは全部売り切れるかも」
公演メンバーである風組の若手たちも、みな一様に顔を輝かせていた。下級生の娘役たちは、公演用のカラーカタログを手に「このポスター、額に入れて飾りたい!」とはしゃぎ、男役の若手たちはリーダーである聖子を遠巻きに見ながら、誇らしげに胸を張っていた。
舞台袖でその様子を見ていた宝生聖子は、手に持った脚本をふと見下ろした。
(……こんなにも、みんなが喜んでる)
スポンサーがついたから――それは否定できない。確かに、御影竜二の後ろ盾ができてから、周囲の目は変わった。チケット販売、グッズ、メディア取材……あらゆる数字が跳ね上がり、まるで魔法のように劇団の態度さえも柔らかくなっていった。
その日、劇団幹部に呼び出された聖子は、応接室のソファに座りながら、重たい空気の中にいた。
「君には感謝しているよ、宝生さん。本当に良くやってくれている」
初老の幹部が柔らかく口元をほころばせる。隣に座る別の幹部が言葉を継いだ。
「風組は今、劇団の希望の星だ。このまま御影さんとの関係を良好に保ってほしい。くれぐれも……怒らせたりしないようにね」
(やっぱり……こういうことになる)
聖子は無言のまま頷いた。かつて「スポンサーは必要ない」と言った自分は、もういなかった。
(でも……この状況が、あの子たちの未来を拓くなら)
舞台の上で真剣に稽古に励む組子たちの顔が思い浮かぶ。彼女たちの純粋な瞳、夢を信じるまっすぐな姿勢。それを守るためなら、多少のわずらわしさは耐えてみせる――そんな覚悟すら、今の聖子にはあった。
そしてその夜。
寮の自室に戻った聖子のスマートフォンが、静かに震えた。
画面には一通のメッセージが表示されていた。
「お久しぶりです。近いうちに、ゆっくりお話ししませんか?二人きりで。――御影洋子」
文面には、次の週末に銀座のフレンチレストランでランチを、とだけ添えられていた。
一度だけ会ったあの日のことを思い出す。
静かに笑みを浮かべながら、ぴたりと距離を詰めてきた女――御影洋子。何を考えているのか読めない目の奥に、妙な熱を孕えた視線があった。
(……なぜ、わざわざ私と二人で?)
既に親の竜二がスポンサーとして名を連ねているのに、娘である洋子がこうして接触してくる意味とは?
聖子は胸の奥に、言い知れぬざらつきを覚えていた。
***
銀座の中心に佇む白亜の建物。その最上階にあるフレンチレストラン「L’étoile Blanche」は、予約困難な完全紹介制の名店だった。静謐な照明と壁一面のワインセラー、そして奥には東京湾を一望できる大きな窓。店内は、金と黒を基調にしたシックな空間に、まばゆいほどの静けさが満ちていた。
「ようこそ、宝生さん」
その一角で、御影洋子は既にテーブルに座っていた。艶やかな黒髪をふんわりと巻き、淡いブルーのワンピースにパールのネックレスが光る。まるで夜会にでも出るかのような装いだった。
「お忙しい中、ありがとう。今日は本当にうれしいわ」
「いえ……こちらこそ、お誘いありがとうございます」
聖子は柔らかく微笑んで見せながらも、心の中では距離を保つように自制していた。彼女はシンプルな白のブラウスにベージュのスカートという、きちんとしたながら控えめな装いを選んでいた。まるで、線引きをするように。
ウェイターがメニューを差し出したが、洋子は聖子の分まで迷わず注文を決めた。
「シェフにお願いして、特別なコースにしてあるの。ここは父の知り合いがオーナーで、融通が利くの」
(……なるほど。父の名前は、ここでも通用するのね)
前菜のキャビアとウニのカナッペが運ばれるまでの間、洋子は軽い調子で話題を振った。舞台のこと、劇団のこと、これまでの苦労――。
「……でもね、私が惹かれたのは、あなたの舞台の上での表情。ひとつひとつの動きに、覚悟がある」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは、励みになります」
「ふふ。私、本当にあなたのことが好きなの。女として、憧れてる。……だけどそれだけじゃないのよね」
唐突に、洋子の声のトーンが変わった。ワインを一口含んだその唇が、ゆっくりと意味深にほころぶ。
「ねえ、宝生さん。あなた、自分では気づいてないのかもしれないけど……男に媚びないあの視線、姿勢、存在感。すごく、危険よ」
「……危険、ですか?」
「ええ。見る者の心を虜にする。女にも、男にも。まるで、吸い込まれそうになるの」
洋子は、テーブル越しに片肘をつき、真っすぐに聖子を見つめた。静かなその瞳には、どこか獲物を狙う猛禽類のような光が宿っていた。
「私はね……一目であなたを欲しいと思った。父があなたを気に入ったのも、わかる。あの人は権力が好きだけど、女に関しては本能で動くところがあるの。だから、危ないと思ったの。放っておけない。私のほうが、先に触れていたかった」
「……御影さん」
「洋子、でいいわ。ねえ、お願い。今度の週末、うちの別荘に来てくれない?箱根の山奥なの。ちょっとしたパーティもあるけど……あなたとは、誰もいない夜の時間を過ごしたい」
食器の音も消えたような静けさの中で、洋子の誘いは甘く、しかしどこか切迫していた。
(これは……好きの感情だけじゃない)
聖子の胸に冷たい警鐘が鳴る。洋子の視線には、理性では制御できない何かが滲んでいた。支配したい、手に入れたい――それは単なる恋慕ではなく、所有欲に近いものだった。
「申し訳ありません、次の週末は……稽古と衣装合わせが詰まっていて。どうしても動けないのです」
聖子は静かに断りの言葉を口にした。
すると洋子の顔から一瞬だけ、笑みが消えた。
「……そう。残念ね。でも……また誘うわ。何度でも」
その微笑みは、表面だけが柔らかく、その奥に冷たい鋼のような執着があった。
(これは、軽い火遊びじゃ済まない)
そんな直感が、聖子の胸を強く打った。
そして、聖子が帰宅した夜。
スマホの通知に気づき、ふと画面を見ると、SNSの公式アカウントに大量のフォロワーが一気に増えていた。
何かが、動き始めている。
それが思い通りに進むものなのか、それとも制御できない流れなのか。
聖子にはまだ、判断がつかなかった。