101:宝生聖子と御影家(過去)
春休み最後の日の夜、講師棟の自室で宝生聖子はぼんやりと過去の記憶を辿っていた。
一昨日の講師室での話題――新しい講師のこと、その中で理事長の御影洋子の名前が出たことが、胸の奥にくすぶる何かを呼び覚ましていた。
***
天翔歌劇団・本部棟。
劇場の隣に建つその建物の最上階、重厚なドアの先に広がる会議室は、普段生徒が立ち入ることのない静寂に包まれていた。
会議室の奥には、重厚な木目のテーブル。壁には過去のトップスターの写真が並ぶ。
その一角に、男役三番手として人気を博していた宝生聖子が、少し緊張した面持ちで座っていた。
部屋には劇団幹部数名、そしてプロデューサー陣が揃っていた。
「宝生さん、突然呼び出してすまなかったね」
中央に座った演出部長が柔らかい口調で切り出す。だがその視線の奥には、何か計算めいた色があった。
「いえ。何かありましたか?」
聖子の声は低く静かだが、どこか距離を取るような硬さがあった。
「実はね……君にスポンサーを名乗りたいという方がいらしてね。まだトップにもなっていない、三番手の劇団生にスポンサーがつくなんて異例中の異例だよ」
「スポンサー……ですか?」
「そう。御影グループの社長、御影竜二氏。財界では有名な方だ。舞台もよく観ておられる」
聖子はまばたきを一つ、ゆっくりと繰り返した。
「申し訳ありませんが……スポンサーなんて、面倒なだけです。そういう関係は求めていません。どうか、先方には丁重にお断りください」
その言葉に、場の空気が一瞬で変わる。
演出部長が口を引き結び、隣にいた劇団本部の幹部が重い声で言った。
「それはできない。今の劇団の経営状況を考えればなおさらだ」
「……と言いますと?」
「チケットの売り上げも、グッズの売り上げも、もう運営努力だけじゃどうにもならん。君のように人気のある人間に、支援を申し出てくれる方がいるのなら、それを活かさない手はない」
聖子は黙ったまま、目線をテーブルに落とす。
「君は、確かに恵まれている。歌も、芝居も、人気もある。だが――」
劇団の制作統括が低い声で続ける。
「君の組の他の子たちは?若手の娘役たちは、舞台に立つ時間も短く、収入も少ない。彼女たちが練習に集中できるようにするには、支援が要る。スポンサーがつけば、彼女たちにも予算が回せる」
その言葉に、聖子の瞳がかすかに揺れた。
(……自分一人が潔癖でいても、組の仲間たちが苦しむのなら)
聖子は、長い沈黙の末に小さく息を吐いた。
「……わかりました。会って、ご挨拶くらいなら。食事の席でも結構です」
幹部たちは安堵の表情を浮かべた。
幹部たちは口々に言う。
「君はまだ三番手だから、君がトップなり退団するまでの十年以上、ずっとスポンサーになり続けてもらい、この劇団を支えてもらいますからね」
「これもトップになるための、一つの関門なのだよ」
聖子はその言葉に返事をせず、ただ静かに席を立った。
(私が望んでいた舞台は、こんなふうに作られていたのか……)
心の奥に微かな違和感を覚えながらも、聖子はその扉を、静かに閉じた。
それが、後に運命を大きく変える出会いの、始まりだった。
***
春の夜風が街に柔らかく吹き抜けるころ、宝生聖子は指定された高級料亭の門前に立っていた。
のれんをくぐるその瞬間も、心の奥ではなおも拒否感がくすぶっていた。
(どうして……こんなことをしなければならないの?)
男役三番手にまで上り詰めたとはいえ、劇団の意向には逆らえない立場だ。
そしてなにより、「組のみんなのために」と上層部に言われた言葉が、今でも胸に棘のように引っかかっている。
「いらっしゃいませ、宝生様。こちらへどうぞ」
仲居に案内され、静まり返った店内の奥へと歩く。足元には畳の上に深紅の絨毯が敷かれ、その感触がいつもの舞台の板の上とは違う、妙な重みを伴って足裏を伝ってきた。
通されたのは、静寂に包まれた一番奥の個室だった。
障子を開けると、重厚な木製のテーブルが部屋の中央に据えられており、その周囲には上質な布張りの椅子が静かに並べられていた。
室内の照明はやや暗めで、天井の和紙灯りが、空気の揺らぎすら映し出すほど繊細な影を落としていた。
(……緊張する空間)
一人で席につき、数分が過ぎたころ――
「失礼いたします」
仲居が静かに襖を開ける。
そしてその後ろから、六十歳前後に見える堂々たる体躯の男性が姿を現した。その背後には、涼しげな表情を浮かべた三十代後半ほどの女性と、五十代の男性がついている。
「宝生聖子さんですね。よく来てくれました」
男性――御影竜二はにこやかに微笑みながら、手を差し伸べてきた。
黒のスーツに身を包んだその姿からは、舞台とはまるで異なる世界の「成功者」の気配がにじんでいた。
聖子は深々と頭を下げる。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていいんですよ。今日はただの顔合わせですから」
そう言って、竜二は聖子に着席を促した。
竜二の隣には、上品な和装をした女性が腰を下ろす。
目元は涼しげで、口元にはほとんど笑みが浮かんでいない。
視線はまっすぐ聖子に向けられているのに、どこか遠くを見るような眼差しだった。
「こちらは私の娘です。御影洋子。君の舞台を何度も観に行っていてね、大のお気に入りなんです」
洋子は少しだけ会釈し、「はじめまして」とだけ口にした。
挨拶を交わす間も、洋子の表情はほとんど動かない。
竜二は続けて言う。
「あの男は私の秘書です。気にしないでください。こういう席にはああいう人間が一人必要なんでね」
ちらりと障子の向こう、小部屋へと姿を消した五十代ほどの男性の背を思い出す。
灰色のスーツ姿に、無表情で仕事だけをこなすような空気。確かに気にしなくていい存在かもしれないが、なぜかその無言が聖子の神経を逆撫でした。
空気が、少しずつ、重くなる。
それでも、舞台の上でどんな役でも演じきってきた聖子は、顔には出さずに微笑んだ。
(……役を演じるように、今日のこの時間も乗り越える)
どこか遠く、劇場の明かりを想像しながら、宝生聖子は、黙って杯に注がれたお茶に口をつけた。
***
聖子の前に、品よく盛り付けられた先付けの皿が運ばれる。湯葉と春野菜の和え物。目の前で仲居が丁寧にお茶を注ぎながらも、室内にはどこか張り詰めた空気があった。
「どうですか、舞台の世界は。順調そうですね」
竜二が話しかけてきた。目は笑っていたが、その奥にある底知れぬ野心が、聖子にはどうしても気になった。
「はい。おかげさまで」
聖子は短く答えた。表情には出さないよう努めていたが、内心はすでにこの場に対して距離を取ろうとしていた。
そんな聖子の態度に気づいてか、竜二は横に座る娘をちらりと見た。
「洋子はね、君の舞台を初日からずっと観ているんだ。なあ、洋子」
洋子はゆっくりと顔をあげた。その目はじっと聖子を捉えて離さない。
「ええ……あなたの、あの『沈黙』の場面。声を使わずにすべてを表現したあの芝居。あれは……すごく、印象に残ってる」
彼女の声音は低く落ち着いていたが、そこには確かに熱があった。
「舞台の上では、誰よりも男らしくて……でも時々、ふっと見せる目の奥の揺らぎが、女の私には……たまらなかったわ」
その言葉に、聖子の眉がわずかに動いた。
「ありがとうございます」と礼を言いつつも、心には警戒が芽生えていた。
この女性――御影洋子の視線は、ただのファンのそれではなかった。舞台人としてではなく、人間・宝生聖子に何かを重ねて見ているような、妙な熱を帯びたまなざしだった。
竜二が笑いながら口を開いた。
「洋子は昔から、欲しいものは必ず手に入れてきたんですよ。経営の才もあるし、何より目が利く。そういう女が、君に惹かれている。これは……悪い話じゃないでしょう?」
聖子はにこやかに箸を動かしながらも、胸の奥で何かがひやりと凍るような感覚を覚えていた。
「恐縮です。でも私はまだ、ようやく舞台の中心に立たせてもらえるようになったばかりで。今は、舞台のことだけで手一杯です」
「それはそれで結構。だがね、聖子さん――」
竜二は箸を置き、テーブルに肘をついて身を乗り出す。その瞬間、彼の瞳に宿る光が、冷たい鋼のようなものに変わった。
「芸の世界というのは、才能だけで勝ち残れるものではない。客席を埋める金、裏方を支える金、宣伝する力……すべてが君たちの芸を作っている。それを忘れてはいけない」
沈黙が落ちる。部屋の奥から、小部屋に控える秘書の気配がかすかにした。
「私はね、天翔歌劇団にもっと世界を見せたいと思っているんだ。地方じゃない、世界だよ。ブロードウェイにもパリにも勝る舞台を、日本に。そう思っている」
聖子はその言葉に驚きを隠せなかった。たしかに、劇団内でも噂される御影グループの支援の存在。しかし、ここまで壮大な野望を語る男が、今自分の目の前にいるとは。
「……それはすごいお考えですね」
「その第一歩が、君だ。君がトップに立ち、団員をまとめ、そしてブランドになること。それができれば――天翔は、日本の芸能の頂点になる」
竜二の言葉に、洋子はじっと聖子の横顔を見つめ続けていた。無言のまま、しかしそのまなざしは期待というより欲望に近いものを帯びている。
(これは……ただのスポンサーじゃない)
聖子の中で、危険信号が鳴っていた。
しかし同時に――あのとき上層部に言われた言葉が、胸の奥でこだまする。
(君の組の子たちはどうだ?君が背負っているのは、自分だけじゃないんだ)
聖子は、箸をそっと置いた。
「……ありがたいお言葉、光栄に思います」
言いながら、彼女の瞳は決して揺れていなかった。そのまなざしは、竜二の目をまっすぐに射抜くように見つめ返していた。
(私が誰と食事をしても、何を背負わされても。私の舞台だけは、私が守る)
それが、宝生聖子の決意だった。