100:それぞれの春休み2
談話室の片隅で、紅茶のカップを手にした水城ひまりは、他の仲間たちの会話に笑みを見せながらも、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
(“You’ve got passion, girl. But passion alone won’t pay the rent on Broadway.”)
ニューヨーク、ブロードウェイの小さなスタジオ。あの汗と熱気に包まれた稽古場の一角で、年配のコーチが自分に向かって言ったその言葉が、いまだに胸の奥で鈍く響いていた。
確かに褒め言葉ではなかった。でもそれは、何よりも真実だった。
「情熱だけじゃ、舞台には立てないのよ」
ブロードウェイで活躍するためには、完璧な発音、確かな技術、そして何よりも観客の心を動かす実力が必要だと、その人は言った。
その場にいた他の若者たちの中には、すでに舞台経験のある子たちもいて、自分よりもずっと自由に身体を使い、心を開いて歌っていた。
「でも、あんたは目を逸らさなかった。怖がらずに前に出てきた。それは素晴らしいことよ。負けるな、続けなさい」
あの最後の一言が、今もひまりの背中をそっと押していた。
「……ふふ」
ひまりはふと小さく笑った。カップを持つ指先に、少しだけ力がこもる。
「なんか思い出し笑い?」と隣の結城さらが聞くと、ひまりは首を振った。
「ううん、ちょっと思い出しただけ。春休みに言われた言葉」
「ニューヨークで?」
さらが目を丸くする。
「うん。“情熱だけじゃブロードウェイには立てない”って言われたの。厳しいけど、確かだなって思って」
「……深いわね」
さらは、ひまりの瞳がわずかに揺れるのを見て、それ以上は聞かなかった。
ブロードウェイの空気は、ただの観光ではなかった。
自分の足りなさを直視させられた経験。それを笑顔で語れるようになるには、少しの勇気が必要だった。
でも、ひまりは今、その一歩を踏み出し始めている。
紅茶の湯気の向こうに、遠く広がるあの街の風を感じながら。
***
談話室での楽しいひとときがひと段落し、颯真は一人、寮の廊下を歩いていた。
春休みに実家へ戻っていたとはいえ、心はずっとこの場所――天翔歌劇団専門学校にあった。親元でのぬくもりも、友人たちとの距離も、少しだけ懐かしく感じながら、それでもやはり、この場所が今の自分の「居場所」だと強く思う。
颯真は自分の部屋を通り過ぎ、静かなロッカールームに足を踏み入れた。
壁沿いに並んだ個人ロッカーのひとつに手をかけ、鍵を回す。金属の扉が軋む音を立てて開く。冬の名残を残すレッスンウェア、バレエシューズ、使い込んだボーカルスコア……一つひとつの物に指を触れながら、颯真はこの一年を自然と思い返していた。
(私、本当に変わったな……)
奥に詰められていた黒の男役用ブーツを手に取り、そっと床に置く。春休み中も、実家で舞台のトレーニングを欠かさなかった。地元のダンス教室でレッスンを受けたり、かつてお世話になった声楽の先生を訪ねたり――。
そのなかで、舞台に立つ「橘颯真」としての自覚が芽生えてきたのを感じていた。
(去年の今ごろの私は、ただ男役を目指すって、がむしゃらに練習してただけだった。けど今は違う。どんな男役で、どんな物語を、どう観客に届けるか――それを考えながら動けるようになった)
手帳の隙間から、ふと一枚の写真が落ちた。文化祭の打ち上げで、あかり・澪・ゆら・エリカたちと一緒に撮った一枚。屈託のない笑顔に囲まれた自分の顔は、どこか柔らかく、それでいて凛としたものになっていた。
(あかりは……どんどん前へ進んでる。エリカはずっと先にいて、でも背中を見せ続けてくれる。澪は、何があっても仲間を見捨てない――私も、その一員でいたい)
もう一度、鏡の前に立つ。春休み前と変わらない制服姿、でも少しだけ立ち姿が違う。視線はまっすぐ、背筋は自然に伸び、ロッカールームに射し込む午後の光の中で、その瞳はまっすぐ未来を見据えていた。
(舞台に立ちたい。役として生きたい。誰かの心に届く存在になりたい)
静かにロッカーの扉を閉じ、鍵をかけると、颯真は深く一礼するように頭を下げた。
(また、新しい一年が始まる)
その足取りは、確かで力強く。颯真は新しい自分を胸に、再び仲間のもとへと歩き出した。
***
談話室での賑やかな団欒をあとにし、部屋に戻った結城さらは、窓際のカーテンをそっと引いた。磨き込まれたガラス越しに、ほのかに淡く輝く夜桜が目に映る。
──咲いてたんだ……。
敷地の奥にある大きな桜の木。入学式の頃にはまだ蕾だったそれが、春休みの間に見事な花を咲かせていた。寮の明かりが、優しくその花弁を照らし出している。
さらは窓を少しだけ開けた。外の空気が肌を撫で、桜の香りがふわりと部屋の中に入り込んでくる。あの日、ウィーンで観た舞台──劇場いっぱいに響く歌声、舞台に命を吹き込む情熱、そしてあの夢のような時間──すべてが今、この夜桜と共に、胸の奥で再び色を帯びる。
「……私も、あの場所に立ちたい」
誰に向けた言葉でもない。ただ、夜空に溶けるように呟いた。桜の花びらが、夜風にそっと揺れて応える。
さらは、少しだけ目を閉じた。そして再び開くと、静かに窓に手をかける。明日からまた、あの舞台を目指す日々が始まる。悔しさも、不安も、憧れも、すべて抱いて前に進む。
窓を閉め、さらはベッドに戻った。だが、しばらくの間、彼女の心は窓の向こうに咲く夜桜とともにあった。
その桜は、まるで彼女の夢を静かに見守るかのように、そっと、そこに咲いていた。
窓を閉めたあとも、さらの瞳はなかなか夜の静けさに慣れなかった。
──忘れられないな、あの舞台の光。
思い出すのは、春休みの中盤に訪れたウィーン。歴史あるオペラ座の前に立ったとき、自分がほんの一粒の存在になったような錯覚を覚えた。壮麗な建築、厚みのある赤い絨毯、黄金色の装飾に包まれた空間。すべてが、夢の中に入り込んだようだった。
その夜、さらが観たのは、有名なミュージカル『エリザベート』だった。
──皇后エリザベートを演じていたあの女優さん。まるで本当に、生きていた。
第一声から、観客席が静まり返った。たった一人の存在が、あれほどまでに空間を支配できるのかと、ただただ圧倒された。息を飲むほどの存在感、張り詰めた静寂に凛と響く歌声、そして細やかな感情を宿した仕草や目線。さらは、そのすべてに心を奪われた。
そのとき、自分の中で何かが確かに変わった。
「私、まだ全然足りてない。……舞台って、こんなにも命を懸けて創られてる」
観劇の後、ホテルに戻ったさらは、初めて悔しさで涙を流した。自分の芝居や歌が、まだ“演技”の枠を出ていないことを思い知らされたのだ。観客の心を震わせるには、技術だけではなく、心の深いところに届く「なにか」が必要だと痛感した。
──私も、ああいう舞台を創りたい。あの光の中で、生きたい。
その夜以降、さらは滞在中のわずかな時間を使って、現地のワークショップにも参加した。言葉は完全には通じなくても、表現するということに国境はなかった。演出家から「君の目には物語がある」と言われたとき、彼女は初めて、自分の中に舞台人としての核のようなものが宿っているのかもしれないと思った。
──そして今、ここに帰ってきた。
夜桜の香りが、ほんのり部屋の隅に残っている。自分の中に宿ったウィーンの光と静寂が、優しく混ざっていくようだった。
「……私の舞台は、まだ始まったばかりだもんね」
そう呟いて、さらはベッドに体を横たえた。
夢の中でもう一度、あの劇場の空気を吸えることを願いながら。
***
寮の消灯時間が過ぎ、談話室の明かりも落ちて、廊下に満ちるのは足音一つない静寂だけ。
二段ベッドの下段。布団に入ったルームメイトの寝息が静かに響く中、ゆらは枕元の小さなスタンドライトだけを頼りに、布団の中からそっと身を起こした。寝間着の袖を直しながら、足元に置いていたトートバッグを手繰り寄せる。
中から取り出したのは、革張りのこげ茶色の手帳。金の箔押しで「2025」と書かれたその表紙を、ゆらは親しげに撫でると、ペンを取り、ページを開いた。
さらさらと、万年筆のインクが紙の上を走る。
「4月5日(晴れ) 春休み 最終日」
みんな、戻ってきた。
久しぶりの談話室はにぎやかだった。
颯真は相変わらず背筋がまっすぐで、声もよく通る。
さらとひまりは、海外の話で盛り上がっていた。
私も負けないように、帰省中の外部レッスンで学んだことを話したけど、心の中では、みんなの言葉に少しだけ圧倒されていた。
あかりと澪は、以前よりずっと息が合っていて、
ふたりで目を合わせて笑う姿が、どこか眩しかった。
でも、私は私。
春休みも、東京で声楽と演技のレッスンを受けて、地道に磨いてきた。
先生には「芯が強くなった」と言ってもらえた。
それだけでも、少し自信になる。
だけど、やっぱり舞台の上では、まだまだ怖さがある。
舞台に立つとき、観客全員が私を見ている、
その重さをどこかで意識してしまう。
私が私らしくいるためには、どうすればいいのか。
「ジュリエット」は、たしかに一歩踏み出せた役だったけれど、あの役は、私のすべてだったのだろうか?
颯真は、私を褒めてくれた。演技も歌も。
でも「だからこそ、もっと先を見たい」と言っていた。
あの言葉が、ずっと胸の奥に残っている。
私は、これからどうなっていくんだろう。
この道を歩き続けて、私はどんな女優になれるだろう?
天翔の舞台で輝いていた、あの人みたいに──「すべてを愛される娘役」に、私はなれる?
なりたい。
私は、なりたい。
そのためには、怖くても、舞台の上で自分をさらけ出す勇気が必要だ。
春休みが終わる。
また、走り続ける日々が始まる。
仲間とぶつかりながらも、高め合って、
いつか、本当に「私の役」を見つけたい。
ペンを置いた指が、小さく震えていた。
インクのにじんだページをそっと閉じると、ゆらは自分の胸に手を置いた。
眠る前の静けさの中で、
一つ、深く呼吸をして、
ゆっくりと布団に身を沈める。
目を閉じても、心の奥では、舞台のライトの残像が瞬いていた。
いつかあの光の中で、本当の自分を見つけられるように。