10:初めての授業
天翔専門学校の朝は、凛とした静けさとともに始まった。まだ春の肌寒さが残る校舎の中、生徒たちは指定された教室へと向かって歩を進める。長く磨かれた木の床を踏む音が、どこか神聖な雰囲気を帯びていた。
鷹宮あかねもその一人だった。親元を離れて初めての寮生活に足を踏み入れ、澪という信じられないほど美しいルームメイトに圧倒されつつも、こうして新しい一歩を踏み出していた。
「……これが、夢にまで見た場所」
制服のジャケットの裾を指先で整えながら、あかねは深く息を吸った。緊張と興奮が混じり合う心の鼓動は早く、まるでこの世界に足を踏み入れた実感を、ようやく胸の内で噛みしめているかのようだった。
教室の扉を開けると、すでに半数ほどの生徒が着席していた。
舞台の匂いが微かに染み込んだ、新しい教室の空気。
白く塗られた壁、使い込まれた木製の床、舞台稽古用の鏡張りの壁面が、その場所がただの学校ではないことを静かに物語っている。
夢と憧れを胸に抱いた若き少女たちが、初めて舞台の世界への一歩を踏み出す場。
皆、誰もがまっすぐに整った姿勢で、顔にはどこか決意の色が見え隠れしている。春の朝の光が窓から差し込み、その緊張感をさらに引き締めていた。
「あかり、こっち」
小さく手を挙げて呼びかけてくれたのは、綾小路澪だった。あかねはその隣に腰を下ろし、教室の全景をそっと見渡す。
(あれが紫堂エリカ……)
前列の中央に座る一人の少女に目を奪われた。短く整った黒髪、誰よりも背筋の伸びた姿勢、鋭く前を見据える瞳。その凛とした佇まいは、まさに「男役」の理想像そのものだった。
(あの人は……自分とは全然違う。ああいう人がスターになるんだろうな)
自然と肩がこわばるあかねに、隣の澪が小声で囁いた。
「緊張してる? でも大丈夫。私も少しだけ、怖いよ」
その声に救われた気がした。綾小路澪の落ち着いた物腰は、まるで舞台の上からこちらを見下ろしてくるような威厳さえある。だが実際には、人一倍繊細な心を持っているのだと、あかねにはわかる気がした。
しばらくして、ドアが静かに開いた。誰もが息を呑む気配を感じ、空気が一瞬止まる。
現れたのは、黒のパンツスーツに身を包んだ女性。すらりと伸びた足と、鍛え抜かれた背筋、そして微笑みにも似た無表情を携えたその女性に、教室全体が吸い寄せられた。
「……如月玲奈だ」
澪がささやくように告げた。天翔歌劇団・元トップ男役。劇団史に名を刻んだ伝説の存在。その人が、いま目の前に立っていた。
「皆さん、今日から二年間、あなたたちを舞台に立たせるために、私たち講師がいます。この二年間で、あなたたちは舞台に必要なことすべてを身につけます。逃げ道はありません。選んだのはあなたたち自身ですから」
玲奈の声は低く、けれど空気を震わせるような力があった。誰一人として、その声に対して軽口を挟むような者はいない。教室はただ、静まり返るだけだった。
「まずは、天翔歌劇団の歴史と、この舞台がどれだけ厳しくも輝かしいものかを、知ってもらいます」
そうして、プロジェクターに投影されたのは、百年以上にわたる歌劇団の歴史、舞台の変遷、そして時代を築いたトップスターたちの記録だった。映像のなかには、あかねが小学生の頃にテレビで見て憧れた、あのスターの姿も映し出されていた。
(わたしも、あそこに……)
そう心に誓ったとき、玲奈がふいに言った。
「天翔専門学校では、入学してからの二年間で“男役”か“娘役”かが決まります。これは、本人の希望だけでなく、身長や雰囲気、表現力によっても判断されます」
教室内に、静かなどよめきが走った。
「ちなみに、今年の新入生で一番背が高いのは……鷹宮あかねさん、ですね。あなたは男役」
不意に名前を呼ばれ、あかねはびくりと体を震わせた。
「はいっ!」
真っ赤になって立ち上がると、玲奈は一瞥だけして、うなずいた。
「いい返事です。続いて、紫堂エリカさん。あなたも男役として期待しています。すでに基礎は十分ですね」
エリカが静かに頷く。その姿には、誰もが納得するだけの「スター性」があった。
「そして綾小路澪さん。あなたは身長的に男役。ただし、その美貌は娘役向きでもある。判断が難しいですが、まずは男役として始めましょう」
澪は少しだけ目を伏せ、黙って頷いた。苦悩がその横顔に滲んでいたが、あかねには何も言えなかった。
玲奈はその後、一人一人に目を向けて、役割を指示していった。
「一ノ瀬ゆらさん、娘役。声も動きも、娘役としての品性があります。結城さらさんも同様に娘役。あなたには聡明さがあります」
ゆらはふわりと笑みを浮かべ、さらは小さく頷いた。どちらも、すでに娘役としての風格を備えていた。
こうして、天翔専門学校の最初の授業が始まった。
それは、夢への第一歩であると同時に、過酷な現実の始まりでもあった。