Chapter3 距離が近いんだよ!!
「いっくんはやくー!」
時折吹く風が葉を揺らすざわめきに紛れて、遠くから玲南が呼ぶ声が聞こえる。
ドリぷりの世界に転生してから一ヶ月ほどが経った六月末、俺たちは月例会のために学園の裏にある山を訪れていた。
あれから、いくつか分かったことがある。一つ目に、ヒロインたちには裏の顔があるらしいということ。今のところ分かっているのは麻白と神楽の二人だけなので全員だという確証はないが、二人は学園の外では俺のことを嫌いなことを隠さない。ツンデレお嬢様だと思っていた麻白は重度のオタクだったし、上品系義妹だと思っていた神楽は口が悪すぎるヤンキーだった。でも、俺は俺のことを嫌いな方が正常だと思う。だって、俺が転生する前の主人公は下ネタしか言わないクソ野郎なんだから。オタクに優しいギャルだっていないのに、下ネタクソ男に優しいツンデレ幼馴染がいてたまるか。だから、俺は玲南と琴葉先輩も俺のことを嫌いなはずだと思っている。ゲームの中で俺が見ていたのは、ヒロインたちの猫を被った姿だったのだと思う。二つ目に、麻白と神楽はお互いにその「裏の顔」を知っているということ。家が隣同士なので、麻白と神楽は学園に入学する前からの知り合いだった。その長年の付き合いの中で互いにボロが出たらしい。オタクとヤンキーなんて水と油だと思っていたが、二人は案外馬が合うようで、時折神楽の部屋に訪れては俺の愚痴を言い合っている。結構聞こえてるぞ。
俺はヒロインたちの裏の顔を知って、それまでの主人公の行いがどれほど卑劣だったのかを痛感した。そして、もう二度と彼女たちに不快な思いをさせないことを心に誓った。前の主人公の言動は俺の責任ではないが、俺もゲームで(仕方なくではあったが)下ネタの選択肢を選んでいたのだから。これからは、誠実な友人としてヒロインたちに接していこう。
――そう決めたのはいいのだが。俺はピンチに直面し続けていた。
「いっくん? ほーらー。はーやーくー」
玲南は俺の腕を掴んで進んでいく。俺は玲南に引っ張られながら、先に進んでいた三人と合流した。
ほら、まただ――距離が近いんだよ!!!
彼女ができたことなど一度もない俺は、腕を組まれただけでもマラソンの後と同じくらいの脈拍数になってしまう。というかこれは異性の友人との適切な距離感なのか? 玲南にはパーソナルスペースという概念が存在していないのか?
「ぼーっとしてる? 大丈夫? いっくん」
「お兄様、最近心ここにあらずなことが多いですわ。神楽も心配です。体調が悪いのならおっしゃってくださいね」
「そうよ~。無理しちゃだめよ」
麻白以外の三人がこちらの様子を伺う。麻白の方に視線をやると一瞬目が合ったあと、ふいと逸らされた。玲南が麻白の肩に手をのせる。
「もー、麻白ちゃんも心配なんでしょ! ほんっと素直じゃないなぁ」
「は、はぁ!? そんなわけないでしょう。体調管理も実力の内よ」
「心配してくれてるのか? ありがとうな」
声をかけてみたものの、麻白は「違うわよ」と言いながらスタスタと歩いて行ってしまった。
「緑~!って感じでめっちゃ気持ちいいね! 前来たときは寒かったもんなぁ」
深呼吸する玲南を横目に、神楽は立ったりしゃがんだりをくりかえしながら唸っている。構図を探しているのだろうか。
「神楽ちゃんは、やっぱめちゃくちゃこだわるね~」
のほほんとしている玲南とせわしなく動く神楽は対照的だ。俺はそれが意外だった。あのヤンキーが、猫を被っているとはいえここまで写真にこだわっているなんて。
「まぁ、神楽ちゃんは一年生の憧れの的だもんね。隙は見せられない、ってカンジなのかな? でもさ、堅苦しく考えないで、もっと気楽に楽しんでほしいよねぇ」
「そうだな。……言われてみれば、部屋にも写真の本が置いてあったような気がする」
「……え、いっくん、神楽ちゃんの部屋に入ったの? いくら義妹だからって、年頃の女の子の部屋に勝手に入るのは見過ごせないなぁー」
玲南は冗談っぽく言っているが、俺には分かる。目が笑っていない。というか、なんで勝手に入った前提なんだよ。
「母さんに言われて起こしにいっただけだし、すぐ出たから心配してるようなことはないぞ」
正確に言えば出たのではなく追い出されたのだが、それはまぁいいだろう。
「心配してるなんて言ってないよ~」
「顔に出てた」
「まぁまぁ。ほら! それよりさ、いっくんも早く写真撮らなきゃ! 帰る時間になっちゃうよ」
露骨に話題を逸らされた。神楽を心配しているということは、やはり、俺は玲南にも嫌われているのだろう。
「それは玲南もだろ」
「私はいつもフィーリングで撮ってるから時間かからないの知ってるでしょ! 何撮るかはもう決まったの?」
何を撮るか、ねぇ。正直、俺は写真には全く詳しくない。転生前の俺のフォトライブラリはゲームのスクショばっかだったし。それに加えて、俺には芸術的センスが全くないので、どの写真も同じに見えてしまう。構図の良し悪しくらいは勉強すればなんとかなるかもしれないが、「写真から伝わってくるもの」的なやつが何も感じ取れないのだ。花の写真を見ても、花だなぁ、赤いなぁ、くらいしか感想が出てこない。生命力が! とか、孤独を表現! とか、そういうことは全く分からない。植物の写真撮ってどうするんだとさえ思う。
「玲南は、いつもどんな風に被写体を決めてるんだ?」
「え~、どうだろ。ホントに勘なんだよねぇ。あ、今だ! って、ほらさ、ビビッとくるときあるでしょ? ……え、ない? そっか、う~ん、難しいなぁ。私は役に立てないかも」
「いや、ありがとう。ちょっと他にも聞いてくるよ」
※※※
一旦玲南と別れた俺は、麻白を探しに山道を進んでいた。もう十五分くらいは歩いた気がする。どこまで進んだんだ、アイツ。
しばらく歩いていると、枯れ葉の擦れる乾いた音が聞こえてきた。徐々に人影が露になる。息を切らせながら近づくと、麻白がぎょっとした顔でこちらを見た。
「い、郁斗氏? なんでここにいんの」
どうやら今はオフモードらしい。大きく息を吸って呼吸を整える。
「いや、俺、正直写真とかよく分かんないから。教えてもらいたいなと思って」
「はぁ?」
麻白はカメラを構えていた手を下ろして、怪訝な目でこちらを見つめている。
「麻白は、いつもどうやって被写体を選ぶんだ?」
「……どうやってもなにも、好きなものを撮ってるだけですが。郁斗氏だってそうでしょ?」
「それはそうだけど……」
「えー、なんて言うんだろ。あ、ほら、推しを撮るときは一番輝いてる瞬間を撮りたいでしょ? 天ちゃんが輝いて見えるときがシャッターチャンスじゃん。もはや発光してるんじゃないかってくらい。あ、天ちゃんはいつでも輝いてますが。それを撮りたい。みんなも一緒なんじゃないかな。知らんけど」
最後の一言で全てを台無しにした麻白は、それでも心なしかいつもより生き生きとして見える。「お嬢様」を演じているときでは見られない顔だ。
「ありがとう。麻白のおかげで、撮りたいもの、見つかったかもしれない」
「それはスバラシイことで。あとはどうぞご勝手に」
「麻白を撮らせてくれないか」
俺が言うと、一瞬硬直したあと、麻白は顔を顰めた。
「……はぁ? 嫌ですが? 最近マシになってきたと思ったら…… 勘弁してほしいっすわ。てか、そもそも何で私なんだよってカンジだし。今の文脈そんな流れじゃなかったけど」
「輝いて見えるときがシャッターチャンスって言ったから……」
麻白は、「意味わからん」「てかキモい」と繰り返しながら腕を擦っている。いやそんなに?
「天ちゃんのキーホルダー。麻白が十個買って出なかったやつ」
「何してんの、早く撮るんでしょ」
麻白はせっせと髪を整えている。変わり身早いな。こんなときのために天ちゃんのグッズを買っておいて正解だった。
「ポーズの指定とかある? てか、どんな構図で撮るの」
「あー、全然決めてなかった。でも、ラフな感じでいいよ。堅苦しくないのがいい。……それから、天ちゃんの話しててくれ」
「は? え、なんで? まぁいいけど…… この前の天ちゃんバナーイベ、めちゃめちゃ調子よかったんすわ。いつもは二百万点までギリ届かないんだけど、今回なんと前日に超えたんだよね。新記録更新。まぁこれも天ちゃんへの愛ゆえなのかなって。それとさ――」
天ちゃんトークに軽く相槌を打ちながら、カメラのピントを合わせる。
「でさ、その時の天ちゃんマジ可愛くて! ガチで天使がお迎えに来たと思いましたわ」
――あ。今だ。
ボタンの上に置いた人差し指に力を込める。麻白の声に紛れて、シャッター音が微かに聞こえた。撮れた写真を確認する。
「……すげぇ上手く撮れた」
「え、今撮ったの? なんでそんな変なタイミングで」
カメラの液晶画面を二人でのぞき込む。緑を背景に、力を抜いて笑う麻白の姿が映っていた。何百という葉っぱも、何十年も生きてきた木々すらも、この写真の中では麻白を引き立たせる役に徹している。そうか、これが「輝いている瞬間」の威力なのか。
「郁斗氏にしてはよく撮れてるじゃん」
オタクでもツンデレなのかよ。心の中でツッコミながら、感心する麻白を見つめる。
「なんで学校ではオタク隠してるのかは聞かないけどさ。麻白は、天ちゃんの話してるときが一番きらきらしてるよ」
麻白は、俺の言葉に一瞬目を見開いたあと、すぐに目を伏せた。木々の間からこぼれる陽射しに、睫毛の影が伸びる。再び俺を見上げた麻白の瞳には、喜びと困惑の入り混じった色が浮かんでいた。