18話 思わぬ出どころの王典石
一夜明け空が白み始めた頃、聖堂を目指す勇者一行は多くの街の人たちに見送られながら山道を上がっていった。
人々の集いはゴスティンが言い広めたわけではなかったのだが、噂というのは時として驚くほど速く広く人々を伝播していくものだ。
街から直に続く断崖連峰の登山道から始まり、鉄板を打ち付けて舗装した道を登っていけば支脈である槍ヶ骨岳の登山道入り口に着く。
道のりが険しさを増したのはここからだ。脈絡なく降る石の雨、レバンとアリンは街で仕入れた大盾を構え、いなし反らし手を痺れさせながら徐々にきつくなる勾配を登っていく。
「……槍ヶ骨岳に入った途端……キツイな」
レバンが息を切らし始めながらも歩みは止めず言った。
「そう、ね……。森とは違うけれど、山も中々ね……」
縦列隊形を取る先頭レバンの後ろはアリンだ。
昨晩に小雨でも降ったのか、山道は絶妙に滑りやすい状態に仕上がっており、服のあちこちは泥汚れで擦れている。舗装も途切れ、今では心もとない細い獣道があるのみだ。
「山は乗り始めが一番キツイ、今が踏ん張り時なんだ。しばらくすると体が慣れてくるからもうちょっと辛抱だよ」
レバンが後ろ二人に声をかける。アリンは頷き、シーナは「は~い」と、足取りと同じように返事も軽やかだった。
風を扱えるエメラシーナは実のところ自分で登っておらず、ほんの少し地面から足が離れ、地表を滑るように移動しているので疲労など微塵もないのだった。
登るにつれ足場は細くなり、木々の生え方は疎らとなった。
森林限界を迎え、背の高い木が失せてからは降りかかる石を凌ぐにも難易度が増す。木の影に身を隠せばわざわざ盾で防ぐ必要もなかったが、ここから先は必ずかわすか受けるかしなくてはならない。未舗装の登山は足だけでなく手も使う。
いつもより荷の多い背嚢が肩に食い込み、体力を奪い、腕の力をじわじわと吸い取っていく。加えて時折、盾を振り回さなければ体中に痣が出来るはめになる。
そろそろひと休憩入れようか、とレバンが考えていた時、ひときわ細い足場に着いた。一足分にも満たない足の置き場、岩壁に身を押し付け、カニが横に這う真似をして進むしかない場所だ。
「これ……正規の登山道じゃないな。クソ……どこかで間違えてる」
神官から聞いた道順は紙にまとめ何度も読み返しながら登ってきたが、こんな一歩間違えば死に直結するところを通るとは書かれていない。
「これを行くのは危なすぎるわね……。迂回路も無さそうだし、少し戻る?」
シーナが二人に待ったをかける。
「風を読んでみたんだけど、ここを渡ってもいけるみたいだよ? むしろかなり近道になるみたい。戻って回り道するより行ってみない? あたしならもし落っこちても風を操って助けられると思うし」
レバンが唸りながら悩む。一か八か進んでみるか、安全に遠回りするか。山に慣れた者ならば危険は冒さず来た道を戻るのが鉄則だが、一同は体力に自信があり揃いもそろって面倒は嫌いな性質だ。
それに万一があってもシーナが言う通り風で何とかなるかも、という保険もある。
とはいえそうは言ってもこの高さだ。崖下から吹き上げてくる風も、風を巻き込んで鳴る音も、下を覗くのもためらう死が迫る高さの前では決断を鈍らせた。
ルヴィオードは置いておくとして、アリンもシーナも自分に決めさせるのだな、とそんなことがぼんやり頭をよぎった時だった。
進路をどう取るかに意識を割かれたレバンは空からやってくる石の襲来に一瞬だけ遅れを取る。左手に構えていた盾が間に合わない、痛みを予期して体が力んだ時だ、アリンが手を伸ばしてレバンの体を強引に引き寄せる。
石の雨は誰にも当たらず土と岩の上へ転がり崖を真っ逆さまに落ちていったが、無理に動いたアリンが反動のまま前につんのめる。一歩、二歩、三歩といったが勢いは止まらず、そうする間に崖は迫り、やがて……。
と、間一髪、アリンがした事を今度はレバンがやってみせる。崖の間際で、だ。
結果は分かり切っていたことだ。
つんのめることも、たたらを踏むことも許されないような崖の間際、死の間際で他人を力任せに引き寄せればどうなるか、分からないレバンでは無かっただろう。アリンに代わって、それが彼女の負担にならないように、せめて少しでも後悔しないようにすれ違いざまに言った。
「助かったよ、ありがとう」
咄嗟ではそれしか口が回らなかった。後はもう落ちていくだけ。どこかに足を踏ん張るだとか、体幹を使って耐えるような余地すらなく、アリンが落ちないよう自分が代わるだけで精一杯だった。
猛烈な落下速度と、視界の端で流れていく岩肌が恐ろしい。自由落下がもたらす浮遊感がこれほどまでに心を不安にさせるとは思わなかった。ただ、落ちていく。自らが一切を干渉できないこの時間、ただただ抗えず落ち続けるだけの時間は、そう長くなかった。
ガクン、と。
予告なく体が止まったのは終点の地面についたからではない。地面はまだ先にある。レバンは自分に何が起きたか分からず、ただ呼吸を荒く繰り返すしか出来ない。
じわじわと自分がどうやら助かったことが飲み込め、遅れてやってきた足への違和感へ目をやれば、何やら黒々としたものが巻き付いている。その黒い物を辿れば崖の上にいるアリンの手へと繋がっていた。
街道沿いで野営をした時、アリンが見せてくれた影の力、その黒い靄が足に絡みつきロープのようにレバンの体を繋ぎ止めたということだ。
レバンは引き上げられ、血の気がひいた真っ白な顔のまま数歩だけ歩き、岩屑だらけの固い地面にどかりと横になった。
「……死んだと思った。ありがとう……本当に」
レバンとアリンの状態から、少し休憩を挟むことに誰からの異論もなかった。
少し戻ったところに程よい岩棚があったので屋根替わりにして野営地に決める。ここなら石の雨も防ぎやすい。
背嚢を下ろして石の上に腰をおろせば、思い出したかのようにレバンは身震いを始める。そう長くはない時間だったが、しばらくじっと目をつぶって身心の高ぶりを鎮めることに集中せざるを得ない。この時に限り彼を気にする余裕がある者は居なかった。
アリンは影の力を使ったことをずっと考え込んでいるらしい。あの夜、レバンにだけ話したことだが、彼女は自身に宿る得体の知れない影の力を極力使いたくないのだそうだ。
理由は本人が「分からない」と言っていたが、レバンの印象では本当のことを言っていないような気がした。「分からない」よりも「上手く話せない」といった方がしっくりきた。
シーナもシーナで考え込んでいる。エメラシーナが知る影の能力、その特徴がセレンデールの物と瓜二つで、アリンはまず間違いなくセレンデールなのだろう。その彼女の筋書きで何がどうなって能力を開示するに至ったのか、エメラシーナの頭では納得できる予想にすらたどり着けなかった。
ルヴィオードは何も考えてなどいなかった。どれくらい考えて居ないのかと言えば、
「そういやよお、何で山なんて登るんだよ?」
あんまりな質問に三名が我に返った。コイツここまで来て何を言ってやがるんだ、と。
まずはレバンが「え?」とだけ返した。意味が分からなさ過ぎてそれしか言えなかったのだ。
「え、じゃなくてよ」
「本気で言っているのかしら?」とはアリンの声だ。
シーナはイライラした様子を隠さず「山から石が降るから様子を見に行くんでしょ」と言う。
「いや、それは知ってるわ! その前のこと言ってんだよ。石が降るっつうのは街に着いてから分かったことだろうがよ。なんでそもそもこの山登って聖堂行く話になったのかって聞いてんだよ」
そんなこと分かり切っている。レバンが「王典石だよ、聖堂にあるっていうから」と言ってもルヴィオードは何のことか分かっていなかった。
「王典石ってなんだよ?」
そこでようやく嚙み合っていないことへ気付いた。ルヴィオードはそもそも王典石の存在すらしらなかったのだ。レバンが頭を抱えながら説明する。
槍ヶ骨岳の聖堂にある虚空の金剛石と呼ばれるダイアモンドを手に入れ、清廉の蒼玉、有明の紅玉、深淵の翠玉と合わせれば人界と魔界を隔てる結界を破れる。ちなみに深淵の翠玉は騎王国の国宝であり偶然にもアリンが持ち出したため既に入手しているのだ。
と、説明すればシーナが唐突に叫び出した。
「そっおおおッ……! そそ、それ、あっ……ぐっうッ!」
それ、あたしの、と言いかけて思い留まる。エメラシーナが魔王城でサファローラと話していていたエメラルドとは騎王国にあった深淵の翠玉だったのだ。
大陸全土を魔族の支配下におくと画策していた頃、大昔にエメラシーナが城主を務め建設させた城が何百年も経て人の手に渡り王家はそのエメラルドを守り続けていた、ということだ。
くわっと目を見開きエメラルドを見つめ停止してしまったシーナ。レバンとアリンが様子を聞く前に更なる爆弾が投下される。
「へ~。王典石って言われてんのか、このルビー」
この、とは? 信じられぬ思いでルヴィオードの指さす聖剣の柄、その柄頭にはめられた赤い石を見る。
「この剣に俺が宿って聖炎剣になった時によ、なんか宝石とかでもありゃ格好がつくかと思ってな、くっつけといたんだよ、有明の紅玉」
レバンとアリンが驚きと歓喜を混ぜた獣の鳴き声ような叫び声を上げて終いにはむせた。行方の知れない探し求めた宝石がまさか、もうすでに入手しているとは思わなかった。
「おっま、おまえ! ルヴィオード! はやく言えよ⁉ 何なんだお前! 僕、今まで話してなかったか? けっこう話してたような気がするんだけど⁉」
「いや分かんねえ、俺、実はけっこー鞘ん中で寝てる事とかあるからな」
「あた、そそ、それ、あっあっあたっし……」
「ねえ、レバン。シーナが驚きすぎてちょっとおかしくなってるわよ?」
アリンが心配したが、それはまた違う方向の驚きなのでどうしようもなかった。
驚愕に騒いだものの結局のところ得をしたのは間違いがない。労せずして二つ目の王典石を手にしたのだ。
レバンは感情の行き場が分からずルヴィオードに対して妙に当たりが強かったが、火を起こしてスープを作り、街で買った干し肉を少し炙って口に放り込めば徐々に平静さを取り戻していった。
崖から落ちたのが噓かのように回復し、一休みして腹も膨れれば体力はほとんど戻ってきているような気がしていた。休憩中は石が降ってこなかったことも間が良かった。
例の一足分しか足場のない道は迂回し、少し遠回りとなったが着々と険しい山を登り続けた。
いつしか山の緑は遥かに眼下、土と岩の茶色も白に覆い隠されている。
雪を掻きながら進み続けた先、ついに山の尾根まで辿り着いたのだった。