9話 風を纏う少女
「あなたは、誰? 助けてくれたの?」
アリンが警戒を滲ませながらも希望を口にする。
返ってきた言葉は顔つきに似合う浮世離れした、ある種の透明感を持った声音だった。
「わたしは、シーナ。えっと……うまく言えないけど、助けようって思ったのは本当だよ」
シーナと、少女は自らの名前だけを明かしたが、得られることはそれっきりだった。どうしたものかとアリンが頭をひねる。
シーナという謎の少女、彼女の素性も気になったが、まずはレバンを休ませることが先決か。今の状態で不知森に入るのは危険が大きいように思うが、それを決めるのにも先に聞くことがある。
「あの……ルヴィオードはどうなったの? その、シーナが倒してくれたのかしら?」
「倒し切れてはいない、かな。力を弱めただけ、すぐには復活してこないと思うけど」
「復活……。どれくらいの時間で力を取り戻すか分からないかしら? まずはこの人を休ませたいの……」
アリンに抱かれるレバンはいつの間にか気を失っていた。全身の打撲、骨はいくつも折れているだろう。過度な痛みによって全身が発熱しており、触れているだけのアリンでも異常な体温の高さを感じるほどだ。はやく休めそうな場所と簡易的な処置を施さなければ一命に関わるかも知れない。
「大丈夫、レバンはシーナが治すから」
言うが早いか、シーナが草の上に寝ているレバンに覆いかぶさった。なぜシーナがレバンの名を知っているのか、そんなごく当然の疑問も次の行動によって遥か遠くに置き去られる。
シーナがレバンへ唇を重ねたからだ。
反射的に止めさせようとするアリンであったが、おかしなことに体が微動だにしない。耳元で鳴る音から察するに不思議な風の術を使ってアリンの動きを制限しているらしかった。
シーナがレバンへ更に顔を突き出した。唇どころか舌がねじ込まれているように見える。
アリンは体が動かせないのでそれを見ていることしか出来ないが、嫌でも見せられているのでレバンの様子はよく分かった。
見るからに具合の悪そうな赤黒かった顔色が、腫れが引いてきているのだ。二度と開くことがないかも知れないと思ったレバンの瞼がゆっくりと開かれ、そして驚愕に見開かれる。
数秒は自分に何が起きているのか理解するのに費やし、それからシーナの肩を掴んで強引に引き離す。
「なんっ何だ⁉ いや誰なんだ!」
「……まだ途中だよ。そのままじっと……口を開けといてほしい」
不満げにむっとした顔を見せ、シーナはその細腕から想像のつかない力でレバンを押さえつけキスを再開する。くぐもった叫び声が何度も続いたが、相手はそれを意に介さず舌を入れる作業を延々と繰り返すのだった。
「ふぅ……。こんなものかな。レバンは大食いだね。こんなに吸われると思わなかったよ。ちょっと疲れたな……」
どこ吹く風、キスもとい処置を終えたシーナが無表情の中にもどこか満足気な顔をしてレバンから離れた。
「アリン! 誰なんだコイツは⁉ 何が起きたのか説明してくれ!」
いつの間にか体に自由が戻ったアリンが少し苛立ち混じりに「知らない」と突き放した。
アリンとてシーナのあれが治癒の力を持つ不可思議な芸当だというのは分かったが、そうは言っても絵面がどうも受け付けない。
それにキスされて物の見事に体が治ってしまっているレバンに対しても妙に腹立たしさがこみ上げてくる。
「森に移動しない? レバンもまだ全快したわけじゃないしアリンも疲れたでしょ? シーナがいれば、不知森に入っても安全だよ?」
この少女をどこまで信じていいかは疑問があったが、こうしてレバンを救い、ルヴィオードを撤退させたのも事実だ。ひとまず味方する存在と捉えても問題はないはずだ。二人は論ずるよりも流れに乗って森へと移動することに頷いたのだった。
森の淵、少し歩けばすぐ草原へ戻れる位置に休息所を作り、荷物を広げる。草を集め重ねて革張りの布で束ねた簡易的なベッドをこさえ、地面を少し掘ってかまども用意した。
粉で溶いただけの簡単なスープでも胃に何かが入ればホッとする。燻製肉をかまどで炙り直しながらようやくシーナの素性を聞く。
「シーナ、君は何なんだ? どうして僕を助けてくれたの?」
「分からない……。レバンを見た時に、体が急に……頭の中で、レバンがレバンだよって事が分かったの。それで、助けなくちゃっておもったんだけど……。あたしもこんなの初めてでよく分かってないんだ」
様子を見るに嘘は言っていないように思えた。色素の薄い瞳からは感情を読みにくいということもあるが、分かりにくさを引いたとしてもシーナが持つ穢れの無い空気からは嘘の気配を感じられない。
レバンとアリンで思いつくままの質問攻めをするが、風使いの少女から得られた答えは気ままな風そのものだった。「よく分からない」「覚えてない」「たぶん」「そうかも」と、ふわふわとした物しか返ってこない。
分かったことと言えば、「そう、あたしはここの森に住んでるよ。森の人たちが育ててくれたんだ。でも、その前のことは覚えてない」
不知森に住み森を守り続けている一族、とアリンがレバンと話していた内容を思い出して呟く。
「本当に実在したのね、禁足地に住んでいる守り手の一族がいるなんて……兵から聞いても信じられなかったけど、本当だったんだわ!」
アリンが声を大きくする。森の一族がいるということは、それすなわち聖剣の話も信憑を増すからだ。レバンとしても鼻息荒くシーナに聞いた。
「なあシーナ! もしかして、君を育ててくれた人たちって聖剣を守っているっていう一族だったりしない?」
「聖剣? かどうかは分からないけど、森の真ん中に聖域って言われてる場所はあるよ? 長とか、偉い人たちしか入っちゃダメなんだけど」
それだ! と二人が声を揃えて思わず立ち上がる。
レバンはさっきまでの死にかけが噓なくらい気力が充実してくるのを感じていた。
森に秘された聖なる剣、禁足地の更に奥、守り人たちが聖域と奉る特別な地。勇者を待つ聖剣があるというのならこれ以上の場所はない。
「頼むシーナ! 森の人たちと話をしたいんだけど、案内とかってして貰えないかな?」
「いいよ。あたしも、レバンは森に来るべきだったと思ってる」
レバンとアリンが手を叩き合って喜ぶ。窮地と好機は、時として裏表のように交互に現れるものだが、もしかするとこの出会いは聖剣のもたらす導きなのかも知れない。
「剣は分からないけど、レバンは森に来てもっと回復したほうがいいよ。まだ元気じゃないでしょ? ね?」
沸き立つ二人だったが、今のシーナが言った「ね」のタイミングで自分の唇を舐める所作に、先ほどの治癒の風景が鮮明に思い出され、何とも妙な空気が流れだすのだった。
「あの、シーナ……回復ってその、さっきの……ああいや、やっぱいいや」
レバンの背後で小枝がパキッと折れる音が鳴った。先ほどの治癒行為について色々な意味で詳しく聞きたい、それは勿論やましい感情がないとは言えないが……。
「アリン……その、あんまり怒るなよ、なあ」
「はぁ? 怒ってないわよ」
「……小枝を踏んでたじゃん」
「小枝を踏むと怒っていたことになるのなら、森を歩く人はみんな怒っていることになるわよ」
「……俺だって別に好きでああなってたわけじゃないの分かるだろ? 不可抗力ってやつだろ? 防ぎようがないだろ? それにこうやってシーナのキ、キスで復活して――」
「何も思うところがないのであればどうしてそんなに言い訳がましいのかしら、何だか却って不埒な空気が漂ってきて不快だわ。それにキスを言い淀むところも言いようのない気持ちの悪さを感じてしまうわね」
「もう、うるっさいな! 不埒って言うならアリンこそ城で僕にチンコ見せろって迫ってきただろうが! 金貨までチラつかせてさあ! 変態王族! お転婆の痴女姫!」
こらえ性のないレバンがしつこさに耐えかねてキレた。反撃は思わぬ角度だったようでアリンも一気に顔を赤くしていた。
「チンっ……止めてくれる⁉ そんな過去のこと持ち出してきて!」
「アリンだってチンコで言い淀んでんじゃないかよ! それに過去っていうなら僕のことだってもう過去のことだろ!」
切った張ったのような言葉の押収、双方共に売られたものは買い叩く種類の人間なので歯止めがない。諍いを止めたのは今回の騒動の主だった。
アリンが言った「あなたと居ると本当に疲れるわ!」という言葉を鵜呑みにしたのか「アリンも疲れてたんだね」と、急にポツンとした不思議に通る声が割って入った。そして割って入ったのは言葉だけではなく物理的にもだった。
レバンにしたようにアリンのくちびる目掛けシーナが飛びつく。一瞬は呆気にとられたアリンも抵抗しようともがいたが、レバンの腕力で振り解けないシーナの不思議な力の前に彼女が術を持つわけもなく。
めちゃくちゃにされるアリンの姿は、何とも妙に背徳的だな、と却って冷静に事態を観察し始めるレバンだった。
もごもごと声にならない悲鳴を上げ続けている横で「前途多難だな」と諦観の台詞が森の中に消えるのだった。