いい加減にしとけゴミサイトが
みなさんこんばんは。
お前らみたいなゴミはすぐに死になさい。
なぜならお前らはゴミだからです。
ゴミのくせに恥知らずに生きてるんじゃない。
ゴミは死になさい。確かにゴミも死なないほうがいいという意見もあるかもしれない。
でもゴミは死んだほうがいいわけだよね。
だってゴミなんだから。確かにゴミは生きている。人に腐敗臭をまき散らしながら生きている。
頭のおかしい障碍者として生きている。
さて、どうすればこの障碍者を世界から放逐できる?
答えは決まっています。ゴミはゴミ箱に行ってください。
今すぐに死になさい。はやく死ねゴミが。
いいですか。ゴミ。お前はゴミだ。今すぐに足を滑らせてトラックの後ろのタイヤに頭を巻き込まれなさい。
今すぐに足を滑らせて死になさい。
いいですか。ゴミくずはいますぐに死になさい。ゴミを今すぐに殺しなさい。
やる気がないならいますぐになんとかしなさい。
釈迦は悟りました。
この世において大切なのは四諦である。
苦諦 集諦 滅諦 道諦
くたい じったい めったい どうたい
この世に生まれるのはは苦であり、死ぬのも苦であり、老いるのも苦であり、病気にあるのも苦であり、ゴミみたいなゴミクズと出会うのも苦であり、愛するものと別居するのも苦であり、執着があるのが苦であり、苦である。執着を持つことも苦である。さて、
無視していました。
四つ目の苦、それが道諦です。
この道諦は八正道ともいい、苦を捨て去るために行うべき行動を示しています。
他の三つが悟りについての認識であるのと比較して、
道諦だけは実践について語っています。
八正道とは何か。
仏教の基本的な八種の実践法。 正見(四諦の道理を正しく見ること)、正思惟(正しく考えること)、正語(正しく語ること)、正業(正しい行ないをすること)、正命(正しい生活をすること)、正精進(正しい努力をすること)、正念(正見を得る目的を念じ忘れないこと)、正定(正しく清浄な禅定に入ること)の称。
正しく見る。
正しく考える。
正しく語る。
正しく行う。
正しく生きる。
正しく努める。
正しく念ずる。
正しく定める。
釈迦は原人の世界に、秩序を与えたのだろうか。
釈迦の言葉について僕はとても評価する言葉がある。
有愛(バヴァタンハー, 存在への渇愛)
無有愛(ヴィバヴァタンハー, 存在しないことへの渇愛)
存在への渇愛。
存在しないことへの渇愛。
これらの渇愛をやめろ。考えても仕方のないことを考えるな。
以下、初転法輪より
比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。出家者はそれに近づいてはならない。何が二つの極端なのか。
一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。
二つめは、自分に苦難を味わわせることは、苦痛であり、無意味で無益である。
比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのである。
それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、定、涅槃に至る道である。
比丘たちよ、苦の真理とは以下である。
すなわち、出生は苦である、老は苦である、病は苦である、死は苦である、
怨憎するものに会うことは苦である、愛するものと別居するのは苦である、求めて得られないのは苦である。
要するに一切は苦である。
比丘たちよ、苦の集起についての真理とは以下である。
繰り返す再生をもたらし、喜び(ナンディ)と貪を伴って随所に歓喜する渇愛である。
つまりは、欲愛(カーマタンハー、感官によって得られる刺激・快楽への渇愛)、有愛(バヴァタンハー, 存在への渇愛)、無有愛(ヴィバヴァタンハー, 存在しないことへの渇愛)。
比丘たちよ、苦を滅する真理とは以下である。
渇愛から限りなく離れ、滅し、捨て去り、放棄し、執着しないことである。
苦諦 - 迷いのこの世は一切が苦である真実。
集諦 - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
滅諦 - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。