朝の散歩と僕の決意
☆★☆ ナイが僕を頼った ☆★☆
___ガチャッ___
まだ真っ暗な夜明け前の早朝。
ドアから物音が聞こえたような気がした。
___ガチャッガチャッ___
___ガチャガチャガチャッ___
「キューーーン……」
気のせいなんかじゃない。
ナイだ!
ナイの悲しそうな鳴き声に、僕の眠気は一気に吹き飛んだ。
「珍しいな、どうしたんだ?」
部屋のドアを開けた僕は、しゃがんでナイに視線を合わせた。
「キューキュー……」
つぶらな瞳で何かを訴えているナイ。
ナイは何度も僕の方を振り返りながら階段の方へと歩いた。
歩くたびに『チャッチャッチャッ」と音がして可愛い。
どうやらナイは1階に降りたいのだが自力では降りられず、妹の澪は起きてくれなかった、と言う事らしい。
「しょうがないなぁ」
と、口では言ってみたが、実は嬉しい。
僕を頼ってくれた。やばいくらいニヤケる。
優しく抱いて階段を降りると、ナイは僕からも降りたがったのでそっと降ろしてやった。
するとナイは真っ直ぐにトイレの方へ向かい、ペットシートに排泄した。
「賢いな……」
そう思うと同時に、少しだけ妹に呆れた。
澪は未だに朝は弱いらしい。
☆★☆ 二度寝を諦めるなら ☆★☆
「まだ4時半か~」
すっきりした表情のナイと一緒に居間に入った僕は、時計を見て微妙な気持ちになった。
二度寝するのはちょっと怖いし、なによりもナイの目がパッチリしている。
ここで僕が今もう一度寝に行けば、ナイは淋しくはないだろうか。
「朝の散歩にでも行くか?」
声に出して言ってしまってから後悔した。ナイは『散歩』という言葉を覚えてしまっているのだ。
『チャチャチャチャチャッ』と足音を響かせながら、ナイは玄関からリードを銜えて戻って来た。
「……やっちまったなぁ、もう行くしかないか」
やれやれ、なんて思いながらも僕は、着替えのために2階へと戻る。
ナイは『あれっ?散歩に行くんじゃないの?』と言わんばかりの不思議表情で僕についてくる。
ナイが付いて来られそうな速度で、ゆっくりと階段を登って、僕は部屋でジャージに着替えた。
必死で僕に付いてきているナイは、まだリードを口から落とさない。可愛い。そんなに散歩が好きか。
そして玄関までは行った僕とナイだったが…… 僕は困った。
「そう言えばスニーカーがボロボロなんだった……」
昨日のお留守番でボロボロにされたスニーカーの形をなんとか整えてみて
「まあ、最後の花道をナイとの散歩で飾ってやろう」
と、僕はボロスニーカーを履くことにした。
かなり履き心地に違和感はあるが、歩きにくいと言う程では無いし、こんな早朝だ、誰にも会わないだろうしボロボロでも構わないだろう。
「いくぞ、ナイ」
口調は強めでも音量は小さめに。
僕とナイは、そっと玄関を開けて、こっそりと家を出るのだった。
☆★☆ 朝の散歩 ☆★☆
5月1日の朝、4時45分の空はまだ薄暗い。
空と大地の境目が白く、空そのものは赤黒くて綺麗な朝焼けだ。
冷えた空気もどこか澄んでいるような気がして、なかなかに清々しい。
ナイの散歩コースは僕も一緒に考えたから、完全に把握している。
ナイにとってはいつものコースでも、僕とは初めて歩く。
途中『山忠犬王』の前を通ったら犬舎の方でも、もう犬たちがほとんど起きていて、フェンス越しに僕たちをガン見していて面白かった。
「犬って結構、朝早いんだな」
そこからは一緒に走って一気に土手へと向かった。
土手に上がる階段では、やはり不器用に登るナイに癒されたし、土手伝いに上流へと走れば河原が原っぱになる。
「ナイ、降りるぞ」
土手から河原への急な坂を慎重に降りた僕たちは、春の草花がいっぱいの原っぱに立った。
「ナイ、明るくなってきたね」
朝日に照らされて西の山がクッキリ見える。
ナイは景色なんかには興味が無いようで、地面や草花の匂いを懸命に嗅いでいる。
どうやら探索をしているようだ。
そう思った僕は、ナイの首輪からリードを外した。
実はこれ、条例違反だけど見逃してね。
誰にともなく心の中で謝罪して、僕はナイとはしゃいだ。
ナイは僕から逃げたりしない。そう信じてる。
☆★☆ 心配した ☆★☆
犬用のオモチャどころかスマホすらも持たずに朝の散歩をした僕とナイだったが、そんな事に気が付かないくらい楽しかった。
朝日が眩しくて、涼しいのに暑くなって、身疲れてるのにスッキリして、重かった心も軽くなった。
最終的には僕も全力疾走して「ナイには負けないぞ」と、力の差を見せつけてやった。
『ハッハッハッハッ』と息を切らしたナイ。
『ゼーゼーゼーゼー』と息を切らした僕。
仰向けに倒れて青い空を見上げる僕と、僕を覗き込んで、顔に熱い息を吐きかけてくるナイ。
一体今、何時なんだろう? スマホすら持って来ていなかった事に、今さらながら気が付いた。
「ナイ、そろそろ帰るぞ」
時間が分からない事でちょっぴり不安になりながらも、帰りはゆっくりと歩いた。
家に着いて、またこっそりと玄関のドアを開けた僕たちを待っていたのは、泣きそうな表情の澪だった。
「ナイっ! 探したッ!」
開口一番、妹の澪は大声で叫んだ。
「どこ行ってたのよぅ~もー…… 心配したんだから~」
あぁ、悪い事をしたな…… と僕は反省した。
朝に弱い澪を起こさないようにと、気を遣ったのが逆に仇になった。
「澪、ごめん。実は今朝」
僕は、今朝の顛末を妹の澪に話す事にした。
まだナイの足も拭いていないのに、澪はナイを抱きしめて家に入れる。
そんな澪に、ナイは大人しく抱かれていた。
僕は、
ナイが4時半に僕を起こしに来てトイレに連れて行った事。
二度寝したらナイが寂しがるだろうと僕が思った事。
つい『散歩』と言う言葉を呟いたら、ナイがリードを銜えてきた事。
僕もつい、ナイと散歩をしてみたくなった事などをなるべく冷静に伝えた。
「おにいのばかー」
そうだよな、ナイの飼い主は澪だ。勝手に連れ出したのは良くなかったな。
「澪、その、ごめんな…… 今度からは書置きくらいはしてから行くよ」
「いい、全然いい。無事だったからもういい。私、朝は弱いから、もし朝の散歩も必要なら、おにいを頼る。おにいに任せる」
「もしかして澪、コーギーの散歩は夕方の一回だけじゃ足りないって事、知ってたのか?」
「知らないよぅ、知らなかったよぅ…… でも、ナイのこんな表情見たら分かる。楽しかったんでしょ? それに、おにいの表情だって、前と比べたら凄く良くなったし、だから良い。明日からはもう心配なんかしないよぅ、でも今日は怖かったーーー」
そう言ってナイを強く抱きしめる澪。
そしてそれを徐々に嫌がって降りたがるナイの様子を見て、『こいつ本当に嫌われるんじゃないか』と僕は本気で心配するのであった。
☆★☆ 昨夜考えた+α ☆★☆
さっきの散歩は、仔犬にとっては割と激しい運動だったと思う。
だから食事の時間は1時間半程度の休憩を挟んでからにしたい。
そう家族に話した。もちろんこれもネットで調べた知識だ。
食後の運動も、食前の運動も、犬の消化器官にとっては良いものではない。消化に悪いだとか胃捻転が起こりやすいだとかと言う記事を昨日読んだ。だから
ナイのご飯は7時半頃にあげる事にした。
散歩から帰ったのが6時頃だったから。
そして今6時半。家族みんなが揃ったから、僕は昨日ネットで調べて考えた事を家族に話す。
「仔犬に留守番を覚えてもらうためには『ケージ』はどうしても必要みたいだった。それに『噛むための硬いオモチャ』『柔らかいオモチャ』『犬用のロープ』そして『家族の匂いが付いた何か』があればかなり落ち着いて過ごせるみたいなんだ」
今すぐに用意できるものは少ない。だから
「昨日ボロボロにされたソファーを逆向きで居間の隅に設置してさ、ケージに似た空間を作る」
実際に僕はソファーを壁向きに移動させた。ちなみに、実はケージには似てなどいない。
でも『秘密基地』っぽい空間にはなったと思う。
「そこにオモチャ…… って今はボールしかないけど、他にも板にされちゃったスリッパの残骸とかロープ代わりにリードを置いてみる」
昨日考えた事とは少し変わったけれど、ナイはリードも好きだろうと思う。もしボロボロにされたらまた買えばいい。忠臣さんのお店はすぐの近所だ。今度は僕がお金を払う。絶対に。
「その上で、僕は今日まで使っていたタオルケットをナイにあげる。澪も何か自分が使っていた物をナイにプレゼントしてくれたら助かるかな」
「あっ、じゃあパジャマ。さっきまで着てたパジャマならどう?」
「良いと思う。父さんと母さんは何かある?」
僕が両親に話を振ったら、両親はそろって驚いていた。そして父は
「春斗…… お前って本当によく考える性格なんだな」
とても嬉しそうに僕に笑顔を向ける父。
「よし、お前がそこまで本気で考えているなら、わたしだってもう半端な事はしないよ」
父がやる気を出してくれるみたいなので、僕はつい父に期待してしまった。
「母さん、わたしが昨日脱いだパンツはもう洗濯してしまったかね?」
前言撤回だ! 父さんには何も期待できなかったーーーッ!
「父さんのは却下ぁー!」
「な、何故だ春斗ッ!?」
「澪に聞けッ!」
「私に振らないで! お父さんのは要らないッ!」
悲しそうにうなだれている父だがもう無視だ、放置だ。
「母さんはなんかある?」
「えーとそうねぇ……」
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母には特に考えは無いのだろうが、そこに気付くまでの時間が問題だ。
時間だけが過ぎていく。
「あの、母さん?」
「なあに?」
「やっぱいいや、それよりも朝ごはんにしない?」
「え~~~~~? お母さんも何かナイの役に立ちたいわ~~~」
やばい、なんとか話の流れを変えなくては。
「えーと、母さんにはナイのお留守番よりも、朝ごはんでいつもお世話になってますから…… アーオナカスイタナー」
しまった、後半部が棒読みになってしまったッ!?
「あらあら、そうそう、ごはんも大切よね~~~」
だが、のんびり屋の母さんには十分通じた。
それにもう、のんびりはしていられない時間だ。
☆★☆ 行ってきますじゃなくて ☆★☆
「あれ? ナイが随分大人しいね?」
既に疑似ゲージで丸くなっているナイに気付いた澪。
「あ~、今朝は僕もちょっとだけはしゃいじゃったからなー」
今朝の家族のご飯中も、ナイはソファーから出てこなかった。
そして父、母、と家を出てからの7時半。
「ナイ、ごはんだよー」
僕たちはナイにドッグフードを与える。パッケージの裏に書かれている適正量よりも少しだけ多くしてみた。
眠ってはいなかったのだろう。すぐに食卓にやってきて食べ始めた。
ご飯後もナイはすぐに疑似ゲージに収まって、丸くなってしまった。
朝の散歩で疲れさせてしまったんだろうか?
そんなナイに、僕が僕のタオルケットをそっと掛けて、澪が澪のパジャマを小さく畳んで、ナイの顔の下に枕代わりのように置いた。
やがてやって来た7時50分。
僕らが家を出ようとした時、既にナイは完全に熟睡していた。
「朝の散歩って、いいのかもな」
僕の呟きに
「今度私も早起きしてみようかな」
妹の澪も呟き返してくれた。
今日の挨拶は『行ってきます』では無かった。
「「おやすみ、また後でね」」
そう囁いて、僕と妹は家を出た。
施錠した時『ガチャ』となった音が意外に大きくて少し嫌な気持ちになったけれど、今日はナイの鳴き声は聞こえなかった。
昨日のような罪悪感を感じる事も無く、僕たちは家を出る事が出来た。
帰った時に家の中がどうなっているのかは、まだ全然想像もつかない。
けれども、昨日よりは大丈夫のような気がした。
無言で家から道路に出た僕たち兄妹は
「またな」
「うん、またね」
そう言って反対方向に別れた。
☆★☆ ナイ ☆★☆
進学校に入学できたから、学校で『猿共』と顔を合わせる事はもう二度と無い。
誤解も解けた今、家でももう『気まずい』思いをする必要も無い。
全ては妹の澪が、僕に話しかける勇気を貰う為、そして仲直りするきっかけ作りに利用する為にと『ナイ』を飼った事から始まった。
そして妹の目論見は見事に当たって、僕は家族みんなと、また向き合うことが出来るようになった。
僕だけが助けられている訳にはいかない。
澪にはナイを飼った事を後悔させない。
ナイには家で飼われた事で不幸にさせない。
僕は、澪にも、ナイにも返しきれないほどの恩を受けた。
この恩はいつか必ず返す。
例え何年かかろうとも、必ずだ。
そう決意した。
しかし、そんな僕が今、ニヤニヤと不気味な笑顔をしていたなどとは、思ってもいなかった。