「幸せ」
その次の日。
放課後、いつものようにお姉ちゃんに会いに行った。
いつもは軽いはずの足取りが、酷く重かったのを憶えている。
「ガラガラガラ…」
俯きがちに病室の中に入ると、お姉ちゃんがいつもと変わらない声で、「千春!」と言った。
「また来たんだぁ~!」
楽しそうに笑うお姉ちゃんの顔を、真っすぐに見つめることが出来なかった。
「どしたの?千春。なんか元気ないじゃん。」
お姉ちゃんは、知ってるのかな?
最近は、患者や家族にも病状を説明しなきゃならない、ってどこかで聞いたことがあるから―やっぱり知ってるのかな?
でも知ってるなら、なんでそんなに楽しそうに笑えるんだろ…。
もっと、悲しんだらいいのに。
苦しそうにすればいいのに。
なんで、私には、弱みを見せようとしてくれないんだろ―
「………昨日…。お母さんとお父さんから、お姉ちゃんの病気のこと、聞いた。」
「え――」
お姉ちゃんの顔が強張る。
「なんで…?ゴホンッゴホンッ……千春には、話さないでって言ったのに…!ゼーゼー…ゴホンッゴホンッゴホンッ…!」
お姉ちゃんが苦しそうに咳き込み始めて、慌てて背中をさする。
「大丈夫…?」
「う、うん…ゴホンッ…ゴホンッ!」
改めて姉の弱った姿を見ると、やっぱり昨日のことは嘘じゃなかったんだ、と思い、胸の奥が、小さな針に刺されたみたいにツンと痛んだ。
「…酸素マスク、する?」
「…ううん。大分落ち着いてきたから、大丈夫…。」
姉が胸を抑えて、「ふぅー…」と息を吐いた。
「もう、大丈夫…?」
「うん。ちょっと咳き込んだだけだから。」
このごろの姉は、病状がすごく悪化していて、発作が頻繁に起こっていたみたい。
「ごめんね、話の途中だったのに…。」
姉が申し訳なさそうに言った。
「ううん。そんなの、どうでもいいよ。」
「……どうでも、良くないでしょ?」
「え―?」
「…ごめんね。…千春にまで心配や迷惑かけて。本当は、お母さんとお父さんに、千春には言わないで。って言ってたんだけど……」
「なんで?」
姉の声を、遮って言った。
「なんで、お姉ちゃんは私に、いつも大事な事言ってくれないの?…まだ小さいから?まだ心が成長してないから、受け入れられないと思うから?」
「ちがっ!」
「そんなに、私って、頼りない?そんなに…!」
「違うから。千春を信用してないわけじゃない。ただ……―」
「ただ…?」
「……千春に、『なんで私が病気じゃなかったんだろ?』とか、思ってほしくなかったの…。」
姉が、そう言って小さく俯いた。
「思うよ。」
「え……?」
「そりゃ思うよ。だって…っ!お姉ちゃんは、一番生きてていい人なのに。一番幸せになっていい人なのに…!なんでお姉ちゃんなの?って、なるよ。なんで私じゃないの?って思うよ。」
自己犠牲とか、そういうんじゃない。
私だって、出来るなら生きてたいし、長生きしたいとも思ってる。
ただ―私より先に、お姉ちゃんに死んで欲しくない、って思うの。
私が死んで、お姉ちゃんが生きてるなら、そっちの方がいい。
そのせいで、お姉ちゃんが苦しむかもしれない―って、分かってるけど。
どうしても。
自分ならよかったのに、って思ってしまう。
「それでも…」
姉が、はっきり私の目を見ながら言った。
「それでも、私は、私でよかった、って思ってるよ。もしこの病気に私がなったおかげで、千春が病気にならずに済んだのなら、自分が病気になったことが、少し誇らしく思えるくらい。」
姉の笑顔が、胸の奥に刺さった針を、また少し、深くする。
「なんでよ…?嫌だよ…。なんで、お姉ちゃんなの?なんでこの世界にたくさん人がいる中の、お姉ちゃんなの?…ほかの人だったら、よかったのに。私ならよかったのに。なんでそんなに重たい荷物を、お姉ちゃんに背負わせるの―?」
本当に、理不尽だ。
いま世界では、火星に行くだのなんだの騒いでいるのに、こんなに近くにいるお姉ちゃんでさえ、誰も助けられない。
こんなに、近くにいるのに。
手を少し伸ばせば、すぐに届くはずなのに。
この手を、誰も救い上げられない。
火星に行く前に。芸能人がスクープを起こしたとか、選挙だとか、騒ぎ立てる前に。
誰か―お姉ちゃんを助けてよ。
誰か、お姉ちゃんの背負ってる荷物を、代わりに持ってあげてよ。
そのために私は、なんでもするから。
「ごめんね、千春。でも、私。本当に今のままでも、十分幸せだから。千春がいて、お母さんやお父さんがいて、遥や宮本さんがいて、私を支えてくれる人たちが、たくさんいる。それだけでもう、人生やりきったな~って感じ…っ!」
嘘だ。
そんなの、嘘だ。
本当はもっと、たくさんしたいことあったでしょ?
こんな狭い箱の中じゃなく、もっと、広くて綺麗な世界を、見てみたかったんでしょ?
窓からの景色じゃなく、季節や風景を、肌で感じて見たかったんでしょ?
学校に行ったり、友達と遊んだり、ショッピングモールに行ったり、大好きなアニメのコスプレをしてみたり、お祭りに行ったり、病室からじゃなく、肉眼で一番近くで花火を見たり。
普通に手に入れられるものを、普通に手に入れて見たかったんでしょ?
なんで、全部。諦めちゃうの?
なんで、お姉ちゃんだけ。諦めなくちゃならないの?
一番。幸せになっていい人なのに。
一番―幸せになって欲しい人なのに。
ほんの少しでいい。
世界中で、普通の日常を退屈に過ごしてる人の時間を、お姉ちゃんに頂戴。
普通に手に入れられる「幸せ」を、お姉ちゃんに、少しだけ分けてあげてよ。
米粒くらい、小さく、ほんの僅かでいいから。
ほんの、少しずつでいいから―
「なんで……なの……?なんで…私じゃないの―?なんで………」
声が、震えた。
目を開けてられなくなって、息も、鼓動も、早くなる。
頬に、生温く冷たい何かが流れて、真っ白な床の上に、「ポツン」と落ちる。
「誰か……助けてよ。……お姉ちゃんを…助けてよ…―」
背中に、酷く冷たいお姉ちゃんの手が触れて、顔を上げる。
「ありがとう…。千春。」
姉が、悲しそうに微笑む。涙がまた一粒、氷のように冷たい床の上に落ちる。
「私ね。千春が生きる意味なの。千春やみんなが居てくれるから、生きよう、って思える。どんなに苦しくても、病気と闘おう、って思える。……だからさ、千春。『自分だったら』なんて悲しいこと、言わないでよ…。……私は、千春がいるから生きてられるんだから。」
姉の笑顔が、涙に埋もれて、消えて行く。
「千春が、私の分まで幸せになってよ。」




