覚悟
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小学3年生の、ある夜。
トイレに行きたくなって目を覚ました私は、リビングの明かりが点いていることに気付いた。
温かいオレンジ色の明かりが漏れた扉に、なんとなく近づいた時―
「翠が、いつ死ぬか分からない、なんて……」
母の声だった。
父の声はしなかったけど、母は誰かと話しているようだったから、きっと父だ、と直感的に思った。
「ドサッ!」
持っているぬいぐるみが、手から擦り落ちた。
「誰?」
扉の向こうから誰かが近づいてくる音が聞こえて、身体を強張らせる。
「ガチャ…」
「千春…。」
父の、少し驚いたような声が聞こえて、顔を上げた。
「お、父さん………さっきの……」
小学3年生というのは、知るには早すぎて、知らないには遅すぎるような、微妙な年齢だった。
まだまだ発展途上な心は、理解はできても、受け入れるのは難しい。
「千春。入りなさい。」
父に促されてリビングに入ると、ティッシュを持って涙を拭く母の横に、腰を下ろした。
座ったままの私と母に、父が温かいお茶を持って来て、机の上に置いた。
「ありがと」
私が不愛想に言うと、母も続いて「お父さん、ありがとう」と言った。
「ああ。」
父が私と母の向かいの席の椅子を引き、静かに腰を下ろした。
ダイニングテーブルに一つだけ残った席が、酷く寂しく感じた。
「………それで、千春。聞く覚悟は、あるのか?」
「覚悟」なんて、いるのかな―?
お姉ちゃんのことを聞くのに、覚悟なんてものが、必要かな…?
「覚悟、なんて、ないよ。…でもね。お姉ちゃんのことを知りたいと思うのに、覚悟なんて必要なのかな…?私はお姉ちゃんの妹で、お姉ちゃんは私のお姉ちゃんなの。お姉ちゃんのことを知りたいから知る。それじゃ、だめなの?」
いつになく、父の目をはっきりと見つめた。
思春期と反抗期で、父には少し当たりが強くなってしまって、ちゃんと話したことも、最近では一緒にご飯を食べたことも、あまりない気がする。
だから、父の目をこんなに真っすぐと見つめるのは、本当に久しぶりの感覚だった。
「………」
父は少し考えこむと、決心したように腕を組み、顔を上げた。
「………分かった。」
「お父さんっ!?」
母が、父を止めるように声を上げた。
「母さん。いつかは、千春にも話さなきゃならなかったんだ。このまま何も話さない方が、無理があるよ。」
「っ……!」
母は、父の言葉になんとか了承したようで、私のほうを向いた。
「…千春。今日、お父さんたちは、病院に行って、先生に話を聞いてきた。…そこで、翠が、いつ死ぬか分からない。と言われた。」
「それって…?」
「いつ死んでも、おかしくない、ってことだ。」
「え――」
どういう、こと…?
「今この瞬間に死んでもおかしくないし、明日の朝死んでる可能性だってあるってことだ。翠は、成人まで生きられるかも、明日生きているかも、分からないんだよ。」
「うそ……」
なんとなく、想像はできていた。
母の声を聞いた時から、嫌な予感は止まなくて。それでもどこかで、「違う。そんなはずない」って必死に言い聞かせてた。
だから、言葉にして言われると、思っていたよりも、深く心に突き刺さる。
「そんな……」
お姉ちゃんの病気のことは、知っていた。
前になんとなくお母さんから聞いたことがあったし、私が物心ついた時から、お姉ちゃんはずっと入院生活を送っていたから、容易に想像することはできた。
「翠はな。肺の病気なんだ。大まかに言えば、心臓から肺に血液を送るための血管の圧力が、異常に上がってしまう病気。」
「薬……とか、手術とか、移植とか。しても無理なの?」
私は、父に食い気味になって聞いた。
「ああ…。残念ながら、原因も治療法も分かっていないんだ…。」
「そんな……」
目の前が、真っ暗になったみたいだった。
今まで、光に満ちていたわけでも、雨が降っていたわけでもない平凡な景色が、急に天気が変わるみたいに、曇りがかっていく。
「お父さんも、よく調べたわけじゃないから、詳しくは分からないんだけどな。その病気は、本当になった例が少ないみたいで…………」
父の声が、耳を霞めて、どこかに消えて行く。
音の出ないイヤホンをしてるみたいに、上手く聞き取れなくて、理解ができない。
「前に、母さんから聞いたかもしれないけど、その病気は、遺伝性らしいんだ。母さんの妹―千春の叔母さんも、おんなじ病気でな…………」
「遺伝性」という言葉に、心が蝕まれたように痛くなった。
自分も、なる可能性があったんだ。
なのに、私ではなく、お姉ちゃんになった。
私だったらよかったのに―と、思う。
「千春。今は、信じられないし、受け入れられないのは、しかたない。…ゆっくりでいい。ちゃんと受け入れられるようになるまで、お父さんとお母さんが傍にいるから。」
「…うん……。」




