黒い過ち
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それから。
私は今の夫に出会い、結婚して、翠と千春に出会えた。
「親になる」ことの責任も覚悟も、その頃の私には持てているはずもなかった。
だから―、あの子たちが、私を親にしてくれたようなものだった。
「ねえねえお母さんっ!見て見て!」
「おぉー!上手にできたねぇ……何描いたの?」
「お母さんとお父さんっ!お姉ちゃんが一緒に描いてくれたのっ!」
そう言って無邪気に笑う千春と翠が、愛おしくて。
何よりも大切で。
誰よりも幸せでいて欲しくて―
そんな気持ちが私の中で溢れ出てくるたび、どうしようもなく、―守りたい。って思ってしまう。
ちゃんと抱えて、大切にしていればよかったその感情を、私は抱えすぎてしまったのだろうか―?
あの子たちを苦しめるほうへ進んでいることに気付きながら、それを無視し続けた私は、憶病なのだろうか―?
人は――忘却する生き物だ。
苦しかった過去も、過ちも。今手の中にある「日常」が、決してあたりまえではないことだって、分かっていた―はずなのに。
そんな大事なことを、忘れてしまう。
日常に出来た小さな綻びに、苛立って。大切で大切で仕方なかったものでさえ、一つずつ、ゆっくりと、忘れていく。一粒ずつ―失っていく。
「千春のため」なんて言葉で自分を肯定して、親として間違ったことをしていることに気付きながら、知らないふりをし続けた。
自分はあいつらとは違う、って。あんな、最低な親ではない、って。
勝手に思い込んで、自分の真っ黒な過ちを、真っ白な紙で覆い隠した。
「お母さんのやってることは、全然千春のためになってないよ!」
初めて、白かったはずの紙に、黒いシミが入り込んできた時―
「そんなことはない」って必死に自分に言い聞かせた。「千春のためだから」って。「千春のためになってるんだ」って。
一生懸命にシミを白く塗って、また隠そうとした。
「千春を、自分の生きたいように生きさせてあげて!」
「うるさいっ!翠は何も分かってない!私は千春のためにやってるの!千春のためになってるの!千春だって、きっとそれを望んでる!邪魔しないでよ!翠は何も出来ないくせに!お金ばっかりかけて、生きてる価値もない癖に!」
「お母さんのやってることは……、間違ってるよ…?」
「うるさい!親に口応えするんじゃないの!…あんたなんか……っ!あんたなんて―早く死ねばいいのに!」
まるで、フライパンを頬に押さえつけられたみたいに、頬がカッと熱くなった。
怒りと憎しみが腹の底から湧き上がってきて、どうしようもなく抑えられなくなる。
気付けば―家を飛び出して、翠の病室に忍び込み、点滴に知らない薬品を混入させていた。
威かすだけ、やってやろう、って………
案の定。素人の私じゃ、翠を威かすことも、病状を悪化させることすらも出来なかった。
「やるだけ無駄だったか…」と諦めかけていた私に、ある看護師の女が近づいてきた。
「どうかされたんですか?何か、お困りのことでも?」
その女は、「少し威かしてやりたい」と溢す私の話を満足そうに聞き入れ、
「私が、協力しますよ。何しろ、看護師ですから。医療分野は任せてください!」
と、少女のような笑みを見せた。
その一週間後。私は看護師との計画通り、翠の病室に忍び込み、受け取った薬を点滴に混入させた。
初めて自分の過ちに気付いた時には――、もう、取り返しのつかないことになっていた。
まだ少しだけだったはずのシミは、いつの間にかどんどん白い紙を黒で染め変えていき、やがて白かった原型もないほど、真っ黒に塗りつぶされていた。
「夏乃翠さんが、今日の朝。息を引き取られました。」
「え――」
威かすだけ、のはずだった。
翠が、「自分が間違ってた」って言ってくれさえすれば、それでよかった。私は間違ってなかったんだ、って。千春のためになってたんだ、って思えれば、それで、良かった。
でも――
忘れていた過去を思い出した時。私は、自分があの時の両親と同じことをしていることに気付いた。
自分のやったことを、何度も何度も思い返し、「自分は人を殺した。実の娘を。翠を、殺したんだ」って、何度も何度も責め立てた。
悔やんで悔やんで悔やんで悔やんで…。
自己嫌悪と後悔で心はどんどん荒んでいき、「自分は死ななければならない人間なんだ」と思い込むようになった。
それから、翠のお葬式の夜を境に―毎晩。
翠の夢を見るようになった。
入院服姿で、目が白く純血した翠が、毎日私を責め立てる。
「お母さんが私を殺したんでしょ!?千春も殺してよぉ!!私を殺った時みたいにさ!二回も殺ってるんだから、お手の者でしょ?ああ、今度はグサって包丁で腹を刺してよ!そしたら私、お母さんのこと許してあげるぅ!お願いっ!私、一人で寂しいのよぉ!」
だんだん、夢の中だけでなく、昼間や普通に過ごしている時にも、翠の声が聞こえるようになった。
「なんで早く殺らないの?早く殺してよぉ!お母さん、私を殺したこと反省してないのぉ?早く千春を殺さないと、私お母さんのこと、許さないよぉ?」
私の心はだんだんと、壊れていった。
夢に出てくる「翠」に支配されたように、千春を殺すことだけを考えるようになっていき、「私は千春を殺さないといけないんだ」と、まるで使命のように思うようになった。
いつのまにか、周りの景色を見ることも、大切なものを思い返すことも―、しなくなっていた。
真っ黒な画用紙はもう、ゴミ箱に捨てる前のように、びりびりに破けていた。




