傷み
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「じゃあね、千春ちゃん!また遊ぼうねっ!」
家路につくという遥ちゃんを見送るため、玄関に出た。
「はい。本当に今日は、ありがとうございました。」
「ううん!こちらこそ、千春ちゃんと久しぶりに会えて、すっごく楽しかった!ありがとうっ!…またねぇー!ばいばぁーい!」
手を振りながら遠くに消えて行く遥ちゃんに、私も手を振り返した。
「さようならぁー!」
遥ちゃんの姿が見えなくなると、家に帰ってコップを片付け、病院に向かうため荷物をまとめた。
そして荷物を持って家を出ると、鍵を閉め、自転車の後ろ車輪のスタンドを上げた。
サドルに腰を乗せる前にふと腕時計を見ると、お昼の3時を過ぎたくらいだった。
薄井との約束は3時半くらいだったから、着いたらぴったりだろう。
「ミーンミーン……ジリジリジリ…」
陽の傾き始めた昼と夕方の狭間は、暑さと夜の静けさを混ぜ込んだみたいだった。
蝉の鳴き声と青く透き通った群青の空を見ていると、自然と、夏だな、と思った。じりじりと照り付ける日差しに、「暑い」と感じてはいるのに、なんだか淋しさを感じるのは、なぜだろうか?
生温くはっきりしない夏の風が、肌を撫でるように私のすぐ傍を駆け抜けた。
その風に乗って、自転車の車輪の回転数を上げる。
私だけなのかもしれないけど、夏は、何故か淋しさを感じる。
冬や秋よりも、夏に。
一般的な感覚で言ったらおかしいのかもしれないし、そんな風に感じない人のほうが、きっと多いと思う。でも―
カラフルでおしゃれな箱の中に、何も入っていないみたいな。表面上には陽気にふるまっていても、心の内にはどこか物淋しさがあるような、そんな、感覚。
冬や秋の淋しさとは違う、心だけどこかに取り残されてるみたいな、「淋しさ」。
何故そう感じるのか分からないけど、私は、夏が終わってしまうのも、夏が始まるのも、嫌いだ。
「ウィーン…」
自動ドアを潜った瞬間、ひんやりと冷たい空気が入り込んできた。
「こんにちは。」
「あら、千春ちゃん!」
「ソフィ」似の看護師長さんがナースステーションに立っていた。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「あ、はい。薄井先生は、いらっしゃいますか?」
なんだか、ここに来たらいつもこの会話をしてるな、と思っていると、後ろから「千春ちゃん!」と私を呼ぶ声がした。
「あ、薄井先生。今日は早いですね。」
「ああ、うん。それより千春ちゃん。早く行こう。」
「え、あ、はい…。」
いつもだったら私が「早く行こう」とマイペースな薄井を促すのに、今日は感じが違う気がする。
何かあったのだろうか―?
薄井に付いて部屋に入ると、灰色のパソコンの後ろに座る、宮本さんの姿が目に入った。
「あ、宮本さん。こんにちは。」
「千春ちゃん!よく来たね。こっち来て。見せたいものがあるの…。」
宮本さんに呼ばれて近くに座り、パソコンの画面を覗き込んだ。
そこには、真っ暗な夜の廊下と、お姉ちゃんの病室の前のドアが映っていた。
「カチッ」
宮本さんがエンターキーを押すと、止まっていた映像が動き始める。
少し見ていると、誰かが蛍光緑のランプに照らされて歩いてきて、お姉ちゃんの部屋のドアを開け、入って行く。
シルエットだけのその誰かが入った後、3分くらい経つと、部屋の明かりが唐突に点いた。すると、また暗闇の先から、懐中電灯を持った誰かが近づいてくる。看護師の服を着ているし、宮本さんと似た髪型をしているから、宮本さんだろうか?
宮本さんらしき人が立ち止まって、少しお姉ちゃんの部屋のほうを見つめると、また画面の外へと消えて行く。
そして、それから5分くらい経つと誰かが部屋から出て行き、真っ暗な廊下の先へ消えて行った。
「これは…、翠ちゃんが死ぬ前の日の夜の映像。懐中電灯を持ってるのは、私。」
宮本さんが、悲しい声色で言った。
「ごめんね。この時私が、翠ちゃんの部屋のドアを開けてたら……。殺したかもしれない人の顔を、見れてたら―…」
俯く宮本さんのほうを向いて、首を振った。
「いいんです、宮本さんのせいじゃない。」
「映像だけじゃやっぱり、顔までは分からないよね……」
画面に近づいてみても、拡大してみても、犯人の顔まではよく見えない。服装も、周りの電気が消えていて本当に真っ暗だから、はっきりわからないし…。
この映像から分かるのは、宮本さんの証言が正しかった、っていうことぐらいだ。
「あっ、でも。もう一個あるの。次は、翠ちゃんが死んだ日の夜の映像。」
そう言って、宮本さんがパソコンを操作して、もう一つ映像を見せてくれた。
そこにはさっきと同じ画角の、廊下と部屋の前の扉が映っている。
そこにまた、昨日と同じシルエットの人物がやってきて、お姉ちゃんの部屋へと近づいていく。その人物が部屋へ入ると、部屋の明かりが点くこともなく、5分くらいして出てきた。そして、さっきと同じ方向へと消えて行く。
「…これって………」
「……そう…。多分、この人が翠ちゃんを殺した。この人が、映像の通りに翠ちゃんの部屋に入って、殺して、この通りに出てきた。」
伸びすぎた爪が食い込んで、血が出るくらい―両手を握り締めていた。
怒りと憎しみで、おかしくなりそうだった。
こいつが、この時に、お姉ちゃんの命を奪い取って、今も平然と息をしている。
平然と、生きていていい命のはずがないのにっ—―
こいつが死ねばよかったのに。
身勝手にお姉ちゃんの命を奪い取って、まだ生きられたはずのお姉ちゃんの心を、精神を、身体を、全てを、踏みにじった。
あんなに楽しそうに、笑ってたのに。
きっと、私に見せてなかっただけで、もっともっと苦しい部分だってたくさんあって、「死にたい」って思うくらい辛いことだってあって、それでも必死に闘って、向き合って、生きててくれたのに。
なんでそれを―簡単に奪い取れるの?
優しくて、強くて、気が利かなくて、ズボラで、いつも誰かのことを一番に考えてて、自分のことなんて二の次で、正義感が強くて、勉強が嫌いで、笑顔が太陽みたいに眩しくて。
なんで私から、お姉ちゃんを—―
「千春ちゃん。」
宮本さんの声で、我に返った。
「大丈夫、大丈夫だから。」
優しい声が耳に届いた後、身体がふんわりと温かさに包まれた。
「許せないよね。悔しくて悔しくて、仕方ないよね。ごめんね、こんなの見せて。」
鼻の奥が、ツンと痛くなった。
瞼の裏が熱くて、胸が苦しくて、息がうまく出来ない。
「ごめんね、辛い思いさせて…。」
訳もなく目から涙が溢れてきて、どうしようもなくお姉ちゃんに会いたくなった。
宮本さんの温かさが胸に沁みて、ありがたい、って思うのに。
ここにいるのが、お姉ちゃんなら良かったのに―なんてことを、思ってしまう。
そんな奇跡みたいなこと、起こらないって分かってるのに…。
「千春ちゃん…。ごめんね…。」
子供みたいだ、って思った。
お姉ちゃんが生きてた頃は、こんなに「会いたい」なんて思わなくて。ただなんとなくお姉ちゃんに会いに行って、楽しくて、また明日も行こう、って思って…。
それの繰り返しだった。
失って初めて気付くなんて、どうして私はこんなにも。幼くて醜いのだろうか?
「千春ちゃん。一度、お茶を飲んで落ち着こう。」
薄井がそう言って、私と宮本さんの前にお茶を出してくれる。
「は、はい…。」
コップを手に取って麦茶を飲む。
外で鳴く蝉の声が、うるさいくらい部屋まで鳴り響いてきた。
「すみません。薄井先生。宮本さん。本当に、迷惑をかけてばかりですね…。」
また、宮本さんや薄井に助けてもらってしまった。
怒りに感情を任せてはいけない、って分かっているはずなのに。耐えきれないくらい大きな「憎しみ」が湧き上がって、沸騰したみたいに頭が回らなくなって。火の止め方が分からなくなる。
「…いいんだよ。」
「そうよ。仕方ないもの…。」
薄井と宮本さんの優しい表情に、冷水の触れた熱いお湯みたいに、心が少しずつ落ち着いていった。
胸の奥に、小さく傷みが、残っていた。




