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桑の実  作者: やきぶたたまこめし
14/28


       ✾


 一度、お姉ちゃんに嘘を()いたことがある。

 思わず吐いた「嘘」は、取り返しのつかないほど(ふく)れ上がって、やがて心の奥底で、(がん)細胞(さいぼう)みたいに大きくなって、私を(むしば)んだ。

 私はその「嘘」を、お姉ちゃんの命が奪われるその日まで、隠し通してしまった—―

 


 小学1年生の頃。

 たまたま見つけたポスターの貼り紙を見た母が、私をピアノ教室に通うように(うなが)した。

 最初は本当になんとなくで、習い始めたのも、母の勧めで仕方なく、って感じだった。豪華なフランス料理の端に添えられた、彩のためのフルーツや野菜みたいに、ただの「寄り道」みたいな。そんな、感覚。


 でも―

 小柄で優しそうな先生が弾くピアノの演奏を、生まれて初めて聞いたとき。私はその音色に釘付けになった。

 まるで星の粒が水面に落ちるみたいに軽くて繊細な音色と、右手と左手で違う旋律が綺麗に重なり合う音。

 何もかもが、信じられないくらい綺麗で、繊細で。

 初めて、心が躍ったのが分かった。心臓の音が邪魔なくらい、この音を聞いていたくて、胸が高鳴って。

 私が本気でピアノに向き合うのに、そう時間はかからなかった。

 最初のうちは初めてのことに戸惑って、地道な練習に「めんどくさいな」と思う時もあった。でも、そのたびに先生や一緒に習っている友達に励まされて、私はどんどんピアノに打ち込むようになっていった。

 毎日、何時間も家の不調せいなピアノで練習して、週に何回もピアノ教室に通って。自分の演奏を録音して、悪いところにペンで何度も丸を書いて。そこを、何度も何度も、繰り返し練習して。勉強して、ピアノを弾いて、学校に行って、ピアノを弾いて、勉強して。

 しんどいことも多かったけど、ピアノを弾いているのは楽しかった。無心でいられて、嫌なことを全て忘れさせてくれる。ピアノを弾いていない時間も、ふとすると指が動いてしまうくらい、ピアノが本当に大好きだった。

 やがて私は、コンクールで、3位に入賞した。

 ある時お姉ちゃんに、「千春は将来。ピアニストにでもなるのかなぁ~?」と言われた。

 まだ小学生だった私に「将来」なんてものがはっきりと決められるわけでもなかったけど、そんな未来を勝手に想像していた自分がいた。


 でも—―

 私はどんどんピアノに追われて、勉強を疎かにするようになった。ピアノを弾いて、学校に行って、ピアノを弾いて、弾いて、弾いて―

 自分の中でも、将来ピアノで生きていけるのなら、勉強なんてしなくてもいいだろう、なんて、甘い考えがあったのかも知れない。

 勉強をする時間も、ピアノに押されて、いつの間にかしないようになっていく。

 ピアノ、ピアノ、ピアノ―

 しんどいのか、大変なのかも、よくわからなかった。

 ただひたすらに、楽しかったから。

 自分もあんな風に、もっと自由に、弾きたかったから。

 

 母は、私を私立の偏差値の高い中学に入学させたかった。

 頭のいい中学に入って、エスカレーターで、大学まで行って…

 母は、そんな学歴に恵まれた人生を歩めなかった人だから、「中学で私立の学校に入るのよ。そしたら高校や大学で受験しなくていいんだから。それが一番、千春が幸せになれるんだから」とよく言われた。

 母なりに、私の幸せを考えてくれているんだ、ということは分かった。だから自分でも、母の期待に応えたい、とは思っていた、つもりだった。

 

 「ピアノは小学校でやめなさい」

 

 ある日突然、そう言われた。

 流石に私も、反論した。

 ピアノが弾けないなんて、そんなの、嫌だ。

 これまで私が、どれだけ頑張ってきたと思ってる。

 ピアノが大好きで、大好きで、真剣に向き合って、頑張ってきたのに。


 「ピアノで生きてくなんて、絶対に許さないからね。ピアノなんて習ってたら、勉強が疎かになっていく。あんたは中学受験するの。ピアノをするなんて、絶対に認めないから」


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、やめたくない。やめたら、弾けない。もっともっともっと、弾きたいのに。上手くなりたいのに。


 「嫌だ。やめたくない。やめない」



 「そんなの絶対に、認めないから」


 弾きたい。もっと弾きたい。

 弾けなくなったら、私は—―

 

 思えば私が母に反論した、最初で最後の言葉だったのかもしれない。

 母は―私の想いを、受け入れてはくれなかった。

 

 「子供は親の言うことだけ聞いてればいいのよ」

 

 それでも無理やりレッスンに行こうとした私に、「月謝は自分で出してね」と言った。

 嫌がらせだということは分かった。

 まだ小学生の私が、お金なんてそう簡単に持ち合わせられるわけがなく、私はピアノの月謝を、毎月おばあちゃんから貰うお小遣いで(まかな)った。

 何をしてもやめようとしない私に、母は楽譜を破り捨てた。

 ある時。ピアノから帰って来ると、家の電子ピアノが跡形もなく壊されていた。

 母が、無理やりにでもやめさせようとしていることを、私はこの時、理解した。

 心が、金属バットで殴られたみたいに、ボロボロ(こぼ)れ落ちていくのが、分かった。

 

 その次の日。私はピアノ教室の先生に「今日でやめる」と一人で言いに行った。

 「やめないで」と止めてくれた。「千春ちゃんなら、もっと上手くなれるから」と言ってくれた。

 少しだけ嬉しくて、でも涙が出そうなくらい悲しくて。

 黙って頭を下げて、ピアノ教室を逃げるように後にした。


 それからしばらく経ったある日。お姉ちゃんに聞かれた。

「最近、ピアノはどう?あんまり話してくれないけど、何かあったの?」

「……ううん。何もないよ」

「そう…?なんでも話さなきゃだめだよ。」

「うん…。」

「…私さ。いつか千春のピアノ。聞いてみたいなぁ~…。何気に、聞いたことないんだよね。いつか、私も千春も大人になって、千春がピアニストになってて、私が一番のファンになるの!第一号は誰にも(ゆず)らないんだからっ!大きなホールの舞台に一番近い席で、家族みんなで千春の演奏を聴くの!楽しみだなぁ!いつか本当に、そんな日が来たらいいな~!…ああ、でも。こんなこと言ったらプレッシャーになっちゃうかな?ごめんね、重荷(おもに)になってたら…!」

 姉のそんな奇跡みたいな言葉を聞いていたら、「ピアノをやめた」なんて、言えるはずがなかった。

 だって、自分でも不思議なくらい。叶えてあげたい、って思っちゃったから。

 もう叶える道具すら、持ってないくせに……。

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