嘘
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一度、お姉ちゃんに嘘を吐いたことがある。
思わず吐いた「嘘」は、取り返しのつかないほど膨れ上がって、やがて心の奥底で、癌細胞みたいに大きくなって、私を蝕んだ。
私はその「嘘」を、お姉ちゃんの命が奪われるその日まで、隠し通してしまった—―
小学1年生の頃。
たまたま見つけたポスターの貼り紙を見た母が、私をピアノ教室に通うように促した。
最初は本当になんとなくで、習い始めたのも、母の勧めで仕方なく、って感じだった。豪華なフランス料理の端に添えられた、彩のためのフルーツや野菜みたいに、ただの「寄り道」みたいな。そんな、感覚。
でも―
小柄で優しそうな先生が弾くピアノの演奏を、生まれて初めて聞いたとき。私はその音色に釘付けになった。
まるで星の粒が水面に落ちるみたいに軽くて繊細な音色と、右手と左手で違う旋律が綺麗に重なり合う音。
何もかもが、信じられないくらい綺麗で、繊細で。
初めて、心が躍ったのが分かった。心臓の音が邪魔なくらい、この音を聞いていたくて、胸が高鳴って。
私が本気でピアノに向き合うのに、そう時間はかからなかった。
最初のうちは初めてのことに戸惑って、地道な練習に「めんどくさいな」と思う時もあった。でも、そのたびに先生や一緒に習っている友達に励まされて、私はどんどんピアノに打ち込むようになっていった。
毎日、何時間も家の不調せいなピアノで練習して、週に何回もピアノ教室に通って。自分の演奏を録音して、悪いところにペンで何度も丸を書いて。そこを、何度も何度も、繰り返し練習して。勉強して、ピアノを弾いて、学校に行って、ピアノを弾いて、勉強して。
しんどいことも多かったけど、ピアノを弾いているのは楽しかった。無心でいられて、嫌なことを全て忘れさせてくれる。ピアノを弾いていない時間も、ふとすると指が動いてしまうくらい、ピアノが本当に大好きだった。
やがて私は、コンクールで、3位に入賞した。
ある時お姉ちゃんに、「千春は将来。ピアニストにでもなるのかなぁ~?」と言われた。
まだ小学生だった私に「将来」なんてものがはっきりと決められるわけでもなかったけど、そんな未来を勝手に想像していた自分がいた。
でも—―
私はどんどんピアノに追われて、勉強を疎かにするようになった。ピアノを弾いて、学校に行って、ピアノを弾いて、弾いて、弾いて―
自分の中でも、将来ピアノで生きていけるのなら、勉強なんてしなくてもいいだろう、なんて、甘い考えがあったのかも知れない。
勉強をする時間も、ピアノに押されて、いつの間にかしないようになっていく。
ピアノ、ピアノ、ピアノ―
しんどいのか、大変なのかも、よくわからなかった。
ただひたすらに、楽しかったから。
自分もあんな風に、もっと自由に、弾きたかったから。
母は、私を私立の偏差値の高い中学に入学させたかった。
頭のいい中学に入って、エスカレーターで、大学まで行って…
母は、そんな学歴に恵まれた人生を歩めなかった人だから、「中学で私立の学校に入るのよ。そしたら高校や大学で受験しなくていいんだから。それが一番、千春が幸せになれるんだから」とよく言われた。
母なりに、私の幸せを考えてくれているんだ、ということは分かった。だから自分でも、母の期待に応えたい、とは思っていた、つもりだった。
「ピアノは小学校でやめなさい」
ある日突然、そう言われた。
流石に私も、反論した。
ピアノが弾けないなんて、そんなの、嫌だ。
これまで私が、どれだけ頑張ってきたと思ってる。
ピアノが大好きで、大好きで、真剣に向き合って、頑張ってきたのに。
「ピアノで生きてくなんて、絶対に許さないからね。ピアノなんて習ってたら、勉強が疎かになっていく。あんたは中学受験するの。ピアノをするなんて、絶対に認めないから」
嫌だ、嫌だ、嫌だ、やめたくない。やめたら、弾けない。もっともっともっと、弾きたいのに。上手くなりたいのに。
「嫌だ。やめたくない。やめない」
「そんなの絶対に、認めないから」
弾きたい。もっと弾きたい。
弾けなくなったら、私は—―
思えば私が母に反論した、最初で最後の言葉だったのかもしれない。
母は―私の想いを、受け入れてはくれなかった。
「子供は親の言うことだけ聞いてればいいのよ」
それでも無理やりレッスンに行こうとした私に、「月謝は自分で出してね」と言った。
嫌がらせだということは分かった。
まだ小学生の私が、お金なんてそう簡単に持ち合わせられるわけがなく、私はピアノの月謝を、毎月おばあちゃんから貰うお小遣いで賄った。
何をしてもやめようとしない私に、母は楽譜を破り捨てた。
ある時。ピアノから帰って来ると、家の電子ピアノが跡形もなく壊されていた。
母が、無理やりにでもやめさせようとしていることを、私はこの時、理解した。
心が、金属バットで殴られたみたいに、ボロボロ零れ落ちていくのが、分かった。
その次の日。私はピアノ教室の先生に「今日でやめる」と一人で言いに行った。
「やめないで」と止めてくれた。「千春ちゃんなら、もっと上手くなれるから」と言ってくれた。
少しだけ嬉しくて、でも涙が出そうなくらい悲しくて。
黙って頭を下げて、ピアノ教室を逃げるように後にした。
それからしばらく経ったある日。お姉ちゃんに聞かれた。
「最近、ピアノはどう?あんまり話してくれないけど、何かあったの?」
「……ううん。何もないよ」
「そう…?なんでも話さなきゃだめだよ。」
「うん…。」
「…私さ。いつか千春のピアノ。聞いてみたいなぁ~…。何気に、聞いたことないんだよね。いつか、私も千春も大人になって、千春がピアニストになってて、私が一番のファンになるの!第一号は誰にも譲らないんだからっ!大きなホールの舞台に一番近い席で、家族みんなで千春の演奏を聴くの!楽しみだなぁ!いつか本当に、そんな日が来たらいいな~!…ああ、でも。こんなこと言ったらプレッシャーになっちゃうかな?ごめんね、重荷になってたら…!」
姉のそんな奇跡みたいな言葉を聞いていたら、「ピアノをやめた」なんて、言えるはずがなかった。
だって、自分でも不思議なくらい。叶えてあげたい、って思っちゃったから。
もう叶える道具すら、持ってないくせに……。




