第三章 人間の武器/ゴブリンについて part1
ドアチャイムを鳴らすと、早朝にもかかわらず、待ち構えていたようにすぐに扉が開いた。
「ザルツ――!!」
屋敷から出てきたのは、元気を絵に描いたような幼い少女だった。
扉を開ける勢いそのままに、彼女は笑顔で抱き着いてくる。
「見ない内におっきくなった?」
「それは俺の台詞だろ」
どれくらい体重が増えたかと思って、ザルツは少女を抱え上げてみる。すると、彼女はきゃっきゃといっそう笑い始めていた。いくら背が伸びたところで、高い高いを喜ぶあたりまだまだ子供だ。
続いて屋敷から姿を現したのは、少女とは対照的に気苦労の多そうな顔をした優男――ムスカートである。
「悪いな、ザルツ。急な仕事が入ってしまって」
「いいさ。差し迫った依頼はないみたいだしな」
管理局の仕事があるので、ムスカートは日中の娘の世話を家政婦に任せている。そのため、休日出勤が決まった今日も、いつも通りなら臨時で別の家政婦を雇うところだった。
ただ、ザルツはモンスターの討伐をしながら各地を放浪するような生活を送っており、このフォーアスの街を訪れたのは久しぶりのことだった。それで、「娘が会いたがっているから、子守りのついでに顔を見せてやってくれないか」と頼まれたのである。
ザルツとしても、局長のムスカートが所有する本や資料に目を通せるので悪い話ではなかった。それに、自分が見ない内に、どれくらいムスカートの娘の体重が増えたか確認してみたくもあった。
だから、今日は互いに仕事ではなく私用で顔を合わせただけで、ムスカートも最初はそういう表情をしていたのだが――
彼女の姿を見つけて、すぐに仕事用のかしこまった態度を取るのだった。
「キャ、キャンディス様もいらっしゃったのですね」
「ええ」
ムスカートとは対照的に、キャンディスは自然体で上品な答え方をした。
本来なら、スライム退治の時のように、また二人でパーティを組んで冒険に出かけるつもりだった。しかし、具体的な予定を組む前に、ムスカートから子守りを頼まれた。そこで二人で子守りをしつつ、そのついでに予定を話し合うことにしたのである。
「こいつがムスカートの娘だ」
「マチはねー、マチスっていうの」
「キャンディスと申します」
子供相手にも、キャンディスは折り目正しく名前を名乗っていた。
服装にしてもそうである。子守りをすることを考えたのか、以前管理局に着てきたものよりは地味だったが、それでもドレス姿だったのである。
「お姉ちゃんは? お姫様?」
「はい、第四王女です」
せいぜい貴族くらいにしか思っていなかったのだろう。自分から言い出しておいて、マチは半信半疑という顔をする。
「なんでお姫様がうちに?」
「俺の雇用主というか、仕事仲間というか」
「お姉ちゃんも冒険者なの?」
「まぁ、そうだ。学者志望の方が近いかもしれないが」
キャンディスの目的を鑑みて、ザルツはそう訂正した。
彼女の仕事はモンスターの観察で、冒険者のように討伐をするどころか、自身の身を守ることすらないだろう。それは自分の仕事である。
「この前は、スライムについて研究しに行ったところだ」
この一言は余計だったらしい。
マチは目を輝かせると、キャンディスに詰め寄った。
「ブルースライム?」
「え?」
「スライムってブルースライムのこと? それとも、別のスライム? 強かった? 何か新しいことは分かった? 他のモンスターは見なかった?」
「えーとですね……」
いきなり質問攻めが始まって、キャンディスは返答に困ってしまう。
これが、マチがザルツに会いたがっていた理由だった。彼女は冒険の話を聞くのが好きなのである。
「中でやれ、中で」
いつまでも立ち話をしていることはないだろう。他人の家ということも構わずに、ザルツは二人を連れて屋敷に上がる。
しかし、自身はその場に呼び止められてしまった。
「ザルツ、一体どういうことだ」
ムスカートが引きつった顔でそう尋ねてきたのである。
◇◇◇
屋敷の前で、ザルツは二人が組むに至った経緯について説明した。
キャンディスがモンスターの生態を中心に、各地の風土や武器防具の特徴など、冒険に関連する知識をまとめた博物誌を編纂するつもりだということ。
その目的は、情報不足や誤情報のせいで、負傷したり死亡したりする冒険者が出るのを防ぐためだということ。
冒険者からの伝聞だけでなく、きちんと観察に基づいた記述をするために、自分に冒険の同行を依頼してきたということ……
「そんな話になっていたのか……」
ムスカートはそう感慨深げに呟いた。
モンスターに関する情報の整理は、管理局内でもしばし取沙汰される問題らしかった。
管理局が正確な情報を収集し、冒険者と共有できれば、モンスターの討伐は容易になる。つまり、依頼の達成率が上がる。
また、依頼の達成率が上がるということは、当然依頼の遂行中に死亡する冒険者が減るということでもある。そうして冒険者が生き残って、討伐の経験を積むことができれば、達成率はますます上昇するだろう。
しかし、たとえ犠牲者を出したとしても、これまで大抵の依頼は最終的には達成されてきた。村や街くらいならまだしも、モンスターに国を滅ぼされるようなことはなかった。今までのやり方でも、一応現場は回っているのだ。
そのせいで、国はモンスターの情報の整理に積極的ではなかった。結果、予算も人員も時間も与えられず、管理局も問題をずっと先送りにするしかなかったのである。
そして、その問題の解決に、弱冠十六歳の少女が挑もうとしているのだ。
「ただの温室育ちのお姫様じゃあなかったみたいだな」
「それももちろん驚いたが……」
ムスカートは改めて感慨深げに言う。
「まさかお前が依頼を受けるとは思わなかったぞ」
ドラゴン相手に大敗を喫して以来、ずっとパーティを組むことを拒否してきた。スライム退治に同行したいというキャンディスの依頼ですら、最初は渋っていたくらいである。どういう心境の変化かと驚かれても仕方ないだろう。
「……いちいち新人を教育するより手っ取り早そうだからな」
「そうか」
ムスカートは微笑を浮かべながら頷く。他にも何か言いたげな笑顔だった。
だが、結局この点についてはもう触れようとはしなかった。
「お前のことだから、モンスターと戦うことに関しては特に心配いらないだろうが、組む相手が王女というのがな……」
先程までの微笑から一転して、ムスカートは不安げな表情を浮かべる。
「くれぐれも粗相のないように頼むぞ」
「どうかな。お貴族様とは縁遠いからな」
ザルツとしては冗談半分のつもりだったが、今まで貴族に取ってきた態度のせいで、そうは受け取られなかったらしい。ムスカートは肩を掴んで懇願してくる。
「本当に頼むぞ。マチはまだ七歳なんだからな」
「分かったよ」
すさまじきものは宮仕え。苦労しているのは冒険者だけではないということだろう。
話が終わって、ザルツはやっと屋敷に上げてもらえることになる。
部屋ではキャンディスが椅子に座っていた。その前には姿見が置かれ、後ろにはマチが立っている。
「マチ、キャンディス様に遊んでもらっているのかい?」
「うん!」
マチはくしとヘアゴムを手に笑顔を浮かべる。
「冒険の話を聞いたらねー、お姉ちゃん自分で髪を結んだことがないっていうから。だから、マチが教えてあげてるの」
話を聞いた瞬間、ムスカートはぺこぺこと頭を下げて謝り出す。それを見て、キャンディスは困り顔でやめさせようとするのだった。
◇◇◇
夕方、管理局での仕事を終えたムスカートは、家でもう一仕事していた。台所で夕食の準備をしていたのだ。
それも、ただ準備をしていたわけではなかった。
「スライムは塩をすり込んで乾燥させたあとお湯で戻します。そうすると、生臭さが抜けて食べやすくなるんです」
「なるほど」
説明を聞いて、キャンディスはすぐにそれを手帳に書きつけていた。
マチの子守りのお礼に、今日はムスカートが夕食を御馳走してくれるという話になった。そのため、博物誌の取材も兼ねて、キャンディスはスライム料理をリクエストしたのである。
国内ではスライムを食べる文化はほとんどない。ただ乾物で保存が利くおかげか、幸いにも取り扱っている店を見つけられたのだった。
説明通りスライムをお湯で戻したところで、ザルツは一度味見することを提案した。
そのまま生で食べた前回と違って、今回は一応調理してある。にもかかわらず、キャンディスは前回同様首を傾げていた。
「やはり、あまり味がしないような……」
「スライムはチンミだからねー、味よりも触感を楽しむものなんだよ」
「そうなのですか。よくご存じですね」
キャンディスに褒められて、マチはますます得意げな顔をする。止めるべきかどうか、ムスカートはおろおろするばかりだった。
その後、調理に戻ると、ムスカートはお湯で戻したスライムを細かく刻んだ。次にそれをカットした生野菜の上にちりばめて、さらに上からドレッシングをかける。これでスライムのサラダの完成である。
他にもテーブルには、ローストビーフやオニオンスープ、ザルツのリクエストしたフルーツのコンポートなどが並んだ。
しかし、一番の目玉はやはりサラダなのだろう。食事が始まると、キャンディスは真っ先にそれを口に運んでいた。
野菜のシャキシャキした歯ごたえに、スライムのくにくにした歯触りが加わって、不思議な触感が生まれる。確かに、スライム自体にはほとんど味がないが、そのおかげでサラダの味を邪魔することもなく、純粋に触感の面白さを堪能することができる。だから、キャンディスも「本当に珍味という感じですね」などと感想を漏らしていた。
経緯が経緯だったから、食卓での話題もスライムのことが中心になった。新たに体から毒液を分泌するパープルスライムについて話したり、前回の冒険でも話した無核のアーティフィシャルスライムについておさらいしたり……
「本日はご迷惑をおかけしました。本当にありがとうございました」
夕食が済むと、ムスカートは玄関先まで二人の見送りに出た。子守りを任せてしまったとか、素人料理を振る舞ってしまったとか、そういう諸々を込めたように深く頭を下げる。
のみならず、娘にもお礼を言うように促した。
「ほら、マチもご挨拶なさい」
「またねー」
王女に対して無邪気に手を振る娘に、ムスカートは引きつったような、思わず笑ってしまうような、微妙な表情を浮かべるのだった。
「ムスカート様、いいお父様という感じでしたね」
「まぁ、そうだな」
滞在中だという貴族の屋敷までキャンディスを送る最中、二人はそんな感想を言い合った。
ムスカートは冒険者稼業の過酷さを憂えて、待遇改善のために管理局を志望したという。つまり、そもそも根がお人よしなのである。
縁もゆかりもない他人に対してすら、そうやって心を砕いているのだから、自身の家族ともなれば溺愛しないわけがなかった。
「そういえば、奥様のお姿をお見かけしませんでしたけれど……」
「もういない」
「えっ」
遅かれ早かれ知ることになるのだ。ムスカートやマチに尋ねて気まずい雰囲気になるよりも、自分が今この場で教えてしまった方がいいだろう。
「マチを産んですぐに、流行り病でな。だから、尚更マチのことが大切なんだろうよ」
当時は別の街で依頼を受けていたので、その時のことはあとで他の局員たちから聞いた。かなり憔悴していたようだが、それでもムスカートはすぐに職場に復帰したらしい。
見るに見かねた局員たちは、しばらく休暇を取るように勧めた。だが、ムスカートからは「娘のために家政婦を雇う分も稼がないといけないから」と返ってきたそうである。それで今では、局長を務めるまでになったのだ。
「そう、だったのですね……」
一言そう漏らすのが、キャンディスにはせいいっぱいのようだった。
周囲の家々に灯りが燈る中を、二人は無言で歩く。おかげで、漏れ出した団欒の声が耳に入ってきた。
しかし、本人のいないところで同情しても、何かがあるわけでもないだろう。子守りにかかりきりになって、うやむやになってしまっていた話し合いを、ザルツは今更始めることにする。
「それで、次はどのモンスターにする?」
「私が決めてもよろしいのですか?」
「雇用主は嬢ちゃんだからな。希望があるなら、なるべく聞くさ」
ただ博物誌を編纂する目的は、冒険者の犠牲を減らすことにある。それを思えば、死亡率の高い駆け出しの冒険者のために、新人向けと言われるモンスターの調査から始めるのがいいのではないか。
もっとも、最初の依頼にスライムを選んだくらいである。その程度のことは、キャンディスも当然考えているようだった。
「そうですね。スライムの次となるとやはり……」
◇◇◇
翌日――
「この依頼を受注したい」
掲示されていた依頼票を手に、ザルツは受付に声を掛ける。
管理局の局員はすぐに内容を確認した。
「ゴブリンですね」