第二章 冒険譚の嘘、冒険者の嘘/スライムについて part3
キャンディスがスライムの不意打ちを喰らってしまった。
なかなかスライムが見つからず、やっと見つかったと思ったらこれである。今日はつくづくついていないようだ。
顔に張りついたスライムを引き剥がそうと、キャンディスは必死にもがく。しかし、爪を立てても手で叩いても、スライムにはまったく効いていないようだった。
もちろん、ザルツはこの様子をただ呆然と眺めていたわけではない。まして、突然の事態に慌てふためいていたわけでもない。
キャンディスの手はスライムを掴んでいるのだ。スライムを殺すのに、刃渡りが長く身幅も広いマチェーテを使ったら、巻き込んで怪我をさせてしまうかもしれない。だから、マチェーテからナイフに持ち替えていたのである。
こうしてナイフを手に、キャンディスに近づくと――
ザルツは顔に肘打ちを喰らってしまうのだった。
いや、彼女からしたら肘打ちをしたつもりはないのだろう。ただ呼吸ができなくてパニックになって暴れていたら、動かした腕が当たって結果的に肘打ちをしたことになってしまったのだ。
さらに悪いことに、呼吸が苦しくなったせいで、キャンディスの動きはいっそう激しいものになっていた。同じ方法で助けようとしたら、また失敗に終わることだろう。
ここで「落ち着け」「息ができなくなってもすぐに死ぬわけじゃない」と声を掛けるのは簡単である。だが、それで冷静になれるようなら、おそらく初めからパニックなど起こしていないのではないか。
女相手で気が進まないが、こうなったら仕方ない。
ザルツはそう諦めをつけると、キャンディスの背後に回る。そして、後ろから抱き着くような形で彼女の体を押さえ込んだ。助けているのか襲っているのか分からなくなりそうな絵面だが、この際背に腹は代えられない。
先程の肘打ちといい、火事場の馬鹿力で思ったより抵抗が激しかったが、王女と冒険者では勝負にならなかった。ザルツは左腕で彼女を完全に押さえつけると、その間に右腕のナイフでスライムの体を貫くのだった。
「……溺れた人間を助ける時、泳いで助けにいくのは最後の手段なんだ。パニックになった要救助者にしがみつかれて、巻き添えを喰らう恐れがあるからな」
キャンディスが渡された水とタオルで顔や口を洗う間、ザルツは中断された二人パーティの欠点についての説明を改めて行っていた。
「スライムの場合も同じだ。襲われたやつが暴れるから、下手に助けようとすると思わぬダメージを受けるはめになる。中には暴れるせいで助けようとしたやつが死んで、スライムのせいで襲われたやつも死んで、パーティが全滅したなんて話もある。
だから、一人が被害者を取り押さえて、その内にもう一人がスライムを殺せるように、パーティは三人以上で組むのが本当は望ましいと言われている」
二人パーティの場合は、酸欠で被害者がぐったりするまで待って(呼吸が止まっても心臓が止まるまでには猶予がある)、そのあとで助けるという手もある。もっとも、万が一ということがあるから、この方法はあまり好みではなかったが。
人心地がつくと、何があったのか察したらしい。ザルツの顔の腫れを見て、キャンディスは頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、俺の方こそ気づけなくて悪かったな」
実際のところ、高所の枝に身を潜めたスライムを、事前に発見するのは困難である。だが、不意打ちの予防策として、帽子を用意するくらいのことはすべきだったろう。どうもソロの感覚を引きずってしまっていてよくない。
顔を洗い終えたキャンディスから、水筒とタオルが帰ってくる。ザルツはそれを使って、ナイフについたスライムの粘液を落とす作業に取りかかった。
「ナイフで殺したのですか?」
「そうだが」
「一部の冒険譚では、物理攻撃が効かないので、属性魔法で倒すもののように記述されている場合がありますが……」
「ああ」
ザルツは再びナイフを突き立てると、スライムの体内から球体状の器官を取り出した。
「スライムの体は、大雑把に言えば中心にある核とそれを覆う粘体と呼ばれるものでできている。
核は人間でいう脳や心臓だな。これが傷つくとスライムは死ぬ。
反対に、粘体は傷ついても生命活動にほとんど影響がない。それどころか、他の部分の粘体を寄せ集めることですぐに再生できる。言い換えれば、スライムは弱点の核を再生力の高い粘体で守っているわけだ」
取り出した核をキャンディスに見せてやる。致命傷となったナイフの痕が分かるはずである。
だが、彼女の場合、分かっただけにかえって疑問が増えたようだった。
「それでは、冒険譚の記述は嘘ということですか?」
「そうとも言い切れない。スライムの粘体は分厚いし、弾力や粘着力がある。そのせいで、打撃を吸収されたり、刃物が核まで届かなかったりして、一撃で倒し切れないのはままあることだ」
先程不意打ちを喰らったが、パニックで感触を確かめるどころではなかっただろう。だから、キャンディスに改めて粘体を触らせて、打撃や斬撃が効きづらいという話を理解させる。
「一方で、粘体は熱や電気を通しやすいという性質を持っている。火や雷の魔法を使った方が、物理的な攻撃よりも核にダメージが届きやすいわけだ。だから、魔法でしか倒せないというのは言い過ぎにしても、魔法を使った方が倒しやすいのは事実だな」
ザルツは魔法で手の平に炎を浮かべると、キャンディスに持たせた粘体を炙る。すぐに熱が伝わってきたようで、彼女は大きく目を見開いていた。
そして、その感興を忘れないようにとばかりに、すぐにまたメモを取り始めるのだった。
スライムに襲われたばかりである。肉体的精神的に疲弊しているはずだろう。彼女は単に勉強熱心なだけでなく、根性もあるらしい。
初対面の時、何の取り柄もなさそうだと決めつけてしまったのは、自分に見る目がなかっただけだったようだ。
「……せっかくだし、食べてみるか?」
「食べられるのですか?」
「東の大陸ではそういう文化があるらしい」
それを真似て、この国でもときどきスライムが流通に乗ることがある。ザルツも以前試してみたことがあった。
「だが、珍味扱いで大して旨くはないぞ。それに栄養もない。東方ですら生ではあまり食べないようだしな」
そう忠告してみたものの、キャンディスには効果がなかったようだ。知識欲なのか食欲なのか分からないが、食べる気満々という表情は変わらなかったのである。それで、ザルツは「あんまり期待するなよ」と呟きつつ、ナイフで粘体を切り分けてやるのだった。
最初の内はキャンディスも笑顔だった。それがだんだんと無表情になっていき、最後には首をひねり出す。
「水っぽいイカ……とでも言えばいいのでしょうか?」
「だから、乾燥させてから食べるのが基本みたいだな」
そうすると、適度に水分が抜けて味が出てくる。また、食感も歯ごたえがするようになるのである。
嫌な目に遭ったばかりだろうに、まったくめげていないらしい。キャンディスは物足りなさそうな顔をする。
「核の方は食べないのですか?」
「毒性の生物を食べた影響で、毒を蓄積してることがあるからな。普通は食べない」
この森に生息するスライムの場合、有毒植物のドクニンジンやマタンゴあたりを餌にしているケースが考えられる。
「それに、そうでなくても核は苦くてまずいんだ。生魚の内臓みたいな味というか」
しかし、「食べない」であって、「食べられない」ではないせいか、キャンディスは再び食べる気満々という顔をする。
ザルツは仕方なしに、ナイフで核を割って中身をえぐりだすと、そのまま刃に乗せて渡した。
「舐めるくらいにしとけよ」
そう忠告、いや警告したものの、キャンディスはたっぷり指ですくいとってしまった。
粘体の時と違って、変化は一瞬だった。口に入れた瞬間、彼女はすぐに真っ青な顔をする。
「言わんこっちゃない」
しかも、吐き出せばいいものを、マナー違反とでも思ったのか、キャンディスは核を飲み込んでしまう。
そうして食べきったあと、彼女は涙目で言った。
「馬糞に砂利を混ぜたような味がします」
「馬糞食ったことあるのか」
お姫様らしからぬたとえに、ザルツは思わず口元を緩めていた。
◇◇◇
核の口直しも兼ねて、少し早いが昼食にすることにした。
ザルツが用意したメニューは、各種サンドイッチ、温かいスープ、生野菜のサラダ、デザートのクッキー……
今回の冒険は日帰りの予定なので、食材は新鮮なものを使ってある。パンもフライパンで手作りした平焼きパンではなく、店売りのふっくらした窯焼きパンである。そもそもメニュー自体、自分一人の時と違って豪勢だった。
おかげで、王族にも一応納得してもらえる程度の味にはなっていたようだ。「美味しいです」とか、「焼き魚を使ったサンドイッチは初めて食べました」とか、「これは冒険者の方の一般的なメニューなのでしょうか?」とか言いながら、キャンディスは料理を食べ進めていく。核を食べたあとだからとか、歩き回って空腹だったからとか、他にも理由は考えられるが。
「これで一応スライムの討伐は済んだがどうする?」
食事があらかた済んだ頃、ザルツはそう尋ねた。
「できれば、生きている状態のものも見てみたいのですが……」
「いいとも」
元々、「二、三体討伐してほしい」という依頼だった。それに、まだ日が高いから、危険な夜行性のモンスターに遭遇する可能性も低い。スライムの不意打ちで消耗しているようなら引き返すつもりだったが、本人がその気なら続行でいいだろう。
一体目の苦戦が嘘のように、二体目はあっさり見つかった。
「スライムの動き方には、ナメクジと共通する部分がある。
スライムには足と呼べるような器官がない。代わりに、地面に接する部分を波打つように動かすことで移動している。
あとは体から出る粘液だな。これで体を滑らせることによって、移動をスムーズにしているんだ」
ザルツがそう説明した通り、木陰から遠巻きに見るスライムは、ナメクジに似て地面を這いずるような動きで移動していた。
「冒険譚ですと、弾むような動きで飛び掛かってくることがありますが、実物はどうなのでしょうか?」
「そういうこともあるにはある。ただ無理のある動きなのか、敵を襲ったり逃げたりする時くらいにしかやらないな」
他には、木から木へと飛び移る時にも同様の動きをする。これは、木登りの際に幹に付着した粘液のせいで、どの木から不意打ちを狙っているのか悟られるのを防ぐためである。
「雑食だとおっしゃっていましたけれど、口はどこにあるのでしょうか?」
「口があるのは体の下部分の中央だな。そこから消化管で核に繋がっている」
ザルツはスライムの進路にドライフルーツを投げる。すると、ちょうど核の真下に来たあたりで、スライムは動きを止めていた。食事を始めたのだ。
「ちなみに、スライムの口は肛門の役割も兼ねている」
「こっ」
「原始的な生物にはよくあることだ。クラゲとかイソギンチャクとかな」
キャンディスはひどく驚いた様子だった。知らなかったのだろうか。
「ナマコなんかも口と肛門が分かれているが、肛門でも食事ができるらしい」
「そ、そうなのですね」
見れば、彼女は真っ赤になっていた。それで単に驚いていたわけではなかったことに、ザルツは遅まきながら気づく。
「すまん。お姫様相手にする話じゃなかったな」
「いえ、たいへん勉強になりました」
顔の紅潮を誤魔化すように、キャンディスは手帳に向かうのだった。
「普通に討伐する場合はどうなさるのですか?」
「不意打ちの対処と特に変わらない。武器か魔法で核を破壊するだけだ。念のために距離を取って攻撃するという意味では、やっぱり魔法が一番だろうな」
投げナイフでも殺す自信はあった。だが、ナイフを使った討伐はすでに一度見せたので、今回は属性魔法を使って倒すことにする。
ザルツが手の平を向けると、眩い閃光が空中を走った。
魔法の電撃を被弾したスライムは、びくびくと小刻みに体を震わせる。しかし、それも一瞬だけのことで、すぐに動かなくなってしまった。
「さすがですね」
「まぁ、最弱のモンスターだからな」
ザルツは本来、身体能力を高める強化魔法の方が得意である。そんなザルツの属性魔法であっても、スライムを倒すには十分なのだ。
その後も、二人はスライム探しを続行した。時間が許すかぎり観察したい、というのが依頼主のキャンディスの意向だったからである。
同じく彼女の意向で、ザルツは道すがら、他のスライム系モンスターについても説明した。巨体ゆえに粘体も分厚く、属性魔法すら効きづらいキングスライム。海中に生息するため、炎や雷の魔法が封じられてしまうマリンスライム。群れをなすことで、キングスライムに擬態する習性を持つ某地域のブルースライム……
そうして、話題が溶解液を分泌するグリーンスライムに差し掛かったところで、ザルツは急に足を止めるのだった。
「止まれ」
スライムが見つかった――わけではないのは、声の深刻さで伝わったようだ。キャンディスはおずおずと尋ねてくる。
「どうかされましたか?」
「死体のにおいだ」
強化魔法を使って、ザルツは意識的に嗅覚を高める。それで、おおよその距離や方向が分かった。この異臭が間違いなく死体のものだということも。
においを頼りに向かうと、はたせるかなすぐにそれは見つかった。
小柄な体つきに、真新しい装備品。新人の冒険者だろうか。
そして、恐怖に見開かれた目に、苦痛に歪んだ口元。今際の際の彼の感情が、生々しく伝わってくる。
死因が分かるまでは、二人で一緒に行動した方が安全だと思ったが、せめて距離を取るように言っておくべきだったようだ。死体――それも自身と同じか、年下くらいの少年の死体を見てしまって、キャンディスは嘔吐していた。
「ゆすぐといい」
「すみません」
その場にへたりこんだまま、キャンディスは弱々しく水筒を受け取る。
しかし、やはり根性はあるらしい。
ザルツが死体の検分を始めると、その様子を覗き込みに来たのである。
「どうして亡くなられたのでしょうか?」
死体には食べられたような痕跡はなかった。では、草食性のモンスターの仕業かといえば、特に外傷も見つからない。虫刺されのような、小さな痕すらないくらいだった。
ただし、まぶたの裏を見てみると、溢血(毛細血管が破れた跡)が見られた。
また、髪や顔、指には白く輝く薄片が付着していた。
これらの特徴から考えられる死因は――
「スライムだな」