第四章 角兎の論/ホーンラビットについて part3
弓術の特訓を始めてから数日後――
「今日から練習に使う的を変更する」
そう言ってザルツが取り出した的には、色が塗られていた。
小さな黄色い円を中心に、同心円状に色分けがなされていたのだ。
「黄色の部分を射たら0回、赤なら1回、青なら5回ずつ、あとで筋トレをしてもらう」
「えっ」
キャンディスは驚くような嫌がるような風の声を上げた。
「嬢ちゃんは器用だが体力筋力がない。そのせいで、後半になると命中率が落ちてくる。これは、それを克服するための練習だ」
弓を何度も射たり、大きな弓を射たりするには、想像以上に体に負担がかかる。弓使いは腕や肩の筋肉が発達するのはもちろんのこと、弓を持つ左腕が長くなるだとか、矢を持つ右手の骨が変形するだとか、そういう話もあるくらいだった。そのため、ザルツは弓矢に負けない体づくりをさせようと考えたのである。
「あの、ちなみに的をはずした場合はどうなるのでしょうか?」
「10回だ」
体力のなさは自覚しているらしい。何十回何百回と筋トレさせられるのを想像したようで、キャンディスは青い顔をするのだった。
どうしても嫌だというなら、すべての矢を的の中心に当てるしかないだろう。最低でも、体力のある前半の内は中心を射抜いて、筋トレの回数を減らしておきたいところである。
しかし、キャンディスは一射目から的をはずしていた。
「お前な」
「い、意識してしまってつい」
これまでの練習を見るかぎり、キャンディスに弓の才能があるのは間違いなさそうだった。実際そのおかげで、初日で的の中心を射抜けるようになるなど、ごく短期間で技術の向上を見せている。
だが、精神面はまだまだ未熟なようだった。今日は罰ゲームのプレッシャーで、的をはずしたり、的の一番外側に当てたり、一射目以降もろくな成果を出せなかったのである。
何度もミスをする内に、ようやくプレッシャーにも慣れてきたかと思ったら、今度は体力不足が足を引っ張った。疲労による腕の少しのぶれが、的に届く頃には大きなずれとなって、キャンディスは狙いをはずしてしまう。
結果、矢筒が空になる頃には、彼女は何十回と筋トレをする羽目になってしまった。
それどころか、この練習メニューを繰り返す内に、筋トレの総回数は何百回にも上ってしまったのだった。
「このあたりで休憩だな」
ザルツの一言に、腕立て伏せをしていたキャンディスはそのまま地面に倒れ込んだ。
「う、腕が……」
「体を動かしてれば、その内に自然と強化魔法が身につくはずだ。それまでの辛抱だな」
体の防衛反応で、筋力が限界を迎えると、それを魔力で補おうとする。その状態を繰り返し経験して、魔力で肉体を強化する感覚を掴めば、意識して自発的に強化魔法を使えるようになる。
だから、強化魔法というのは、通常は日々の運動や労働によって、子供の頃に習得しているはずのものだった。キャンディスが未収得なままだったのは、王族の上に病弱だったのが重なった、かなりのレアケースだと言える。
へばってしまったキャンディスに、ザルツは例のごとく水筒を渡す。もちろん、行動食もである。
ただし、今日はいつもよりもメニューが少し豊富だった。練習漬けのせいで、食事ぐらいしか楽しみがないだろうと思って、チョコや飴も用意したのである。
そうして休憩が始まり、矢の音が止んだせいだろうか。
「あっ」
キャンディスは声を上げたあと、慌てて口を押える。
以前見かけたホーンラビットが、また川原にやってきたのである。
周囲の様子を警戒しながら、ホーンラビットは川べりへと向かう。やはり今日も水を飲みに来たようだった。
その姿を見て、ザルツはあるものを投げつける。
着弾音が小さかったせいか、ホーンラビットは驚きに動きを止めこそしたものの、逃げ出すことまではしなかった。むしろ、甘いにおいに気づいて鼻をひくつかせると、恐る恐るそばに投げられたものに近寄っていったほどだった。
そして最後には、とうとうドライフルーツを食べ始めたのである。
「召し上がるのですね」
「太るから、ペットのウサギにはやり過ぎない方がいいらしいけどな」
口ではそう言いつつ、ザルツはまたホーンラビットへ向けてドライフルーツを投げていた。
この食事風景をキャンディスは興味深そうに見つめる。
「ちなみに、ナッツはどうですか?」
「脂肪が多くて下痢になるからよくないようだ」
「チョコは?」
「中毒を起こすからダメだ」
これはウサギが弱いというよりも、人間が毒に強いと言うべきかもしれない。事実、タマネギやコーヒーなど、「動物にとっては毒でも、人間にとっては食料」というものは多々ある。
――という話を聞きたいわけではないだろう。
自分もホーンラビットに餌をあげてみたい。けれど、もう渡されたドライフルーツを食べ終えてしまった。それでキャンディスは、他に与えられそうなものがないか尋ねてきたのだ。
「仕方ないな」
よほど餌付けが羨ましかったらしい。ザルツから受け取るとすぐに、キャンディスはドライフルーツを投げる。
ただ、彼女のフォームはまるでなっていなかった。
そのせいで、ドライフルーツはホーンラビットの頭を直撃してしまう。
さすがにこれは攻撃を受けたと解釈したようだ。ホーンラビットは文字通り脱兎の勢いで、二人の前から逃げ出すのだった。
「弓よりも投石の方が向いてるんじゃないか」
「狙ってません」
キャンディスはムキになったようにそう答えた。
◇◇◇
さらに数日後――
「今日からまた的を新しくする」
そう言ってザルツが取り出した的には、今回も色分けがなされていた。
ただし、三色から五色に色が増えている。
「今回はどのような練習になるのでしょうか?」
「基本的にやることは変わらない。黄色なら筋トレ0回、赤なら1回、青なら5回、黒なら8回、白なら10回だ」
「はずした場合は?」
「20回」
答えを聞いた瞬間、キャンディスは顔を引きつらせていた。
ただし、三色の的を使った練習で、もうプレッシャーには慣れたのだろう。前半はほとんどの矢を中心の黄色や赤色の部分に命中させていた。
また、罰ゲームの筋トレで、キャンディスはすでに強化魔法もものにしつつあった。おかげで後半になっても、的の外側に矢を当てることはあっても、的をはずすようなことはなかった。
もっとも、体内の魔力には限りがあって、それが尽きたら魔法は使えなくなってしまう。筋肉を使えば筋力がつくように、魔法を使えば魔力の総量は増えていくが、キャンディスは最近ようやく強化魔法を習得したばかりだから魔力量に乏しかった。
そのせいで、終盤になると結局的をはずすようになってしまったのだった。
朝から何度も練習を重ねていたが、この傾向はなかなか改善されなかった。手元の矢を射尽くしたあと、キャンディスは何度も腕立てや腹筋、背筋などに勤しむことになる。
回数からいって、今回の筋トレは昼までかかりそうだった。そこでザルツは、キャンディスの弓を借りることにする。
練習のモチベーションを保つために、間食にはドライフルーツ以外のものも用意するようにした。同じように昼食にも工夫が必要だろう。
そう考えて、撒き餌をまき、また矢をつがえる。
狙った先は川。餌におびき寄せられた魚を射たのである。
射た矢を手にしてザルツが川から上がると、キャンディスは目を丸くしていた。
「全部ヘッドショットですか」
「これくらい、嬢ちゃんならすぐできるようになるだろう」
撒き餌を食べようと、魚たちは流れに留まるように泳いでいた。ほとんど動かない的を射るようなものである。
素材がいいから、射た魚はシンプルに塩焼きにすることにした。ナイフで腹を割いて、内臓を取り出す。串を口から刺して、尾の方へ向けて貫く。
たき火の用意は事前に済ませてあった。組んだ薪への着火剤として、ザルツは細い枝に手をかざし、魔法で火をつける。
「そういえば、ザルツ様はどの属性魔法が使えるのですか?」
「簡単なやつでいいなら、六大属性は全部抑えてある」
六大属性とは、すなわち火・水・風・土・雷・氷の六種類の属性のことを指す。この六つが、世界を構成する基本的な属性(元素)だとされている。
モンスターの中には、特定の属性魔法以外は効かない・効きづらいというものが存在する。ザルツはその対策として、すべての属性を習得していたのだった。もっとも、強化魔法の方が得意なせいで、下手に属性魔法を使うよりも、マチェーテを振り回した方が効果的な場面も多かったが。
六大属性すべてを使える証明として、ザルツは手の平から風を起こした。酸素を吹き込まれたことで、たき火はいっそう火勢を増す。キャンディスは感心したように、「おお」と声を漏らしていた。
「風や雷はともかく、火や氷あたりは野営に必要だからな。強化魔法と同じで、こっちもその内身につくさ」
属性魔法の習得には、その属性を使いこなすイメージが必要になる。火を観察したり氷に触れたりして、扱う属性への理解を深めることによって、体内の魔力を属性に変換できるようになるのだ。
ただ食材の保管に氷を使ったり、煮炊きに火を使ったり、一部の属性は意識しなくても日常生活に関わっている。だから、キャンディスのような特殊な例を除けば、初歩的な属性魔法は、強化魔法と同じく子供の頃に習得しているのが普通だった。
そうして二人が魔法の話をしている内に、魚が焼き上がった。
串刺しになった魚など食べたことがなかったせいか、キャンディスは見様見真似という風に小さくかじりつく。だが、味自体は気に入ったようで、すぐに顔をほころばせていた。
やはり、矢の音がしなくなったタイミングを――二人が休憩に入ったタイミングを見計らっているらしい。
今日もホーンラビットが川原に姿を現す。
もっとも、これで三度目の遭遇だったから、もうキャンディスも最初の頃のように大騒ぎはしなかった。
「ゴブリンを討伐する際に、人間はいつでも妊娠できる周年繁殖動物だとおっしゃられていましたけれど、ウサギもそうだったように記憶しているのですが」
「そうだ。だから、誕生や豊穣のシンボルに使われることがある。よく知ってたな」
「バ、バニーガールの衣装は、そういう意味から来ていると本で読んだことがありまして……」
「そういうことか」
キャンディスが読んだのは、煽情的に書かれたシーンだったのだろう。赤面する彼女を見て、ザルツはそう推測していた。
「もっとも、すべてのウサギが周年繁殖動物というわけじゃないけどな」
「?」
「家畜やペットとして身近なアナウサギは確かに周年繁殖だ。だが、野生でよく見られるのはノウサギと呼ばれる種類のウサギで、こっちは季節繁殖なんだよ」
話を聞いたキャンディスが食事の手を止めてメモを取り始めるので、ザルツも説明を続けることにする。
「他に、アナウサギは巣穴を掘って群れで生活するのに対して、ノウサギは巣も群れも作らないという違いがある」
「では、ホーンラビットはノウサギの一種ということですか?」
「いや、アナウサギだよ。ノウサギはもっと手足が長い」
「それなら、どうしてあのホーンラビットはいつも一匹だけで行動しているのでしょう?」
「おそらく群れからはぐれたか、群れの仲間が殺されたかでもしたんだろう」
野生においてはとりたて珍しいことではない。ザルツはもちろん、ホーンラビット自身もそう割り切って考えているのではないか。
しかし、キャンディスは違うようだった。
「……あまり入れ込むなよ。あくまで野生のモンスターであって、ペットじゃないんだからな」
ザルツはそう忠告するが、聞いているのかいないのか。デザート代わりに渡しておいたドライフルーツを、キャンディスはすぐに手に取る。
今回は上手く相手のそばに投げることができたようだ。
ホーンラビットは逃げるどころか、すぐにドライフルーツを食べ始めるのだった。
◇◇◇
それからも、キャンディスの特訓の日々は続いた。
一日の大半は、当然弓を射るか、筋トレをするかのどちらかだった。
過酷な上に、地味で単調な練習メニューである。肉体的にも精神的にも相当堪えたことだろう。
ただ体力はなくとも気力はあるようで、キャンディスは一度たりとも「練習を休みたい」と言い出すようなことはなかった。モチベーションを上げさせようと、ザルツはあれこれ気を回したが、その必要はなかったのかもしれない。
体を鍛える上で、食事も重要な要素だった。
タンパク質や糖質、ビタミンなど、体を作るにはどんな栄養素を取る必要があるのか。ザルツはそれを反映したメニューを昼食に出して指導した。
また、川魚を獲って、燻製にしたこともあった。味つけを変えるということもあるが、キャンディスに保存食の作り方を教える意味もあった。
練習の効率が下がらないように、昼食以外にもこまごまと休憩時間を取った。
水や紅茶を飲み、ナッツやキャラメルを食べる。ホーンラビットが現れれば、二人でドライフルーツをやった。
「普通のウサギが、病気のせいで角が生えたように見えることがある」だとか、「ヴォルパーティンガーには、美女にだけなつくというユニコーンと似た伝承がある」だとか、そんな会話もした。
そして――
この日も、キャンディスは五色の的に向けて矢を射ていた。
ほとんどの矢が、中心の黄色い円に命中する。
中心をはずれたものも、二番目の赤い輪の中に収まっていた。
「随分上達したな」
ザルツがそう褒めたことに、モチベーションの維持云々は無関係だった。本心から彼女の弓の技量に感心していたのである。
筋力不足、魔力不足で引ける弓が小さいから、威力や射程についてはまだ課題が残っている。だが、命中精度に関しては、すでに合格点に達していると言っていいだろう。
「そろそろ次の練習に行くか」
「今度は何をすればいいのでしょうか?」
「もう実戦でいいだろう」
それを聞いた瞬間、キャンディスの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ、これだけやれれば通用するはずだ」
キャンディスはついには笑みをこぼしていた。やっと本来の目的である博物誌作りに戻れそうなのだから、当然といえば当然の反応とも言えるが。
「もっとも、殺し損ねて反撃に来られたら、弓しか使えない嬢ちゃんじゃ対応できないからな。とりあえず、安全なものから行こう」
「と言いますと、魚でしょうか?」
以前に、「川魚ならすぐヘッドショットできるようになる」と言われたのを覚えていたのだろう。キャンディスは川に視線を向ける。
一方、ザルツは森の方を見ていた。
「ホーンラビットだ」