第三章 人間の武器/ゴブリンについて part2
管理局のラウンジで、二人は今回の依頼について話し合っていた。
キャンディスは依頼票の内容を読み上げる。
「シュピナートの森の浅層でゴブリンを一体発見。巣の位置や群れの有無は不明……」
「要はゴブリンがいたこと以外何も分からないってことだな」
その場で討伐しなかったどころか、具体的な発見場所すら記録していない。おそらく、木こりか新人の冒険者あたりが偶然遭遇して、パニック半分で管理局に報告したのではないか……というのがザルツの推測だった。
「まぁ、捜索や追跡の仕方を教えられるから、博物誌を作るにはむしろ好都合か」
「はい、よろしくお願いします」
キャンディスはペンと手帳を取り出して、メモの用意をする。
しかし、モンスターの追跡方法というのは、知識としては応用的なものである。これまで床詰めだった彼女には、もっと基礎から教えるべきだろう。
「ゴブリンについてはどの程度知ってる?」
「人型のモンスターで、背丈は子供くらい。肌は緑色……」
冒険とは無縁のキャンディスの情報源は、やはりあれのようだった。
「冒険譚ですと、スライムと並んで序盤に戦うモンスターとして描かれることがほとんどですね」
「そうだな。大人なら誰でもとはいかないが、武器を持った肉体労働者なら子供扱いできる程度の強さしかない」
そのため、ゴブリン退治は概ね新人向けの依頼として扱われている。
「ただ、それはあくまで一体だけを相手にする場合の話だ。群れの規模によっては、手慣れた冒険者でも苦戦させられることがある」
目の前のゴブリンを攻撃した直後の隙を狙って、別のゴブリンが襲いかかってくる。正面のゴブリンを相手にしている間に、他のゴブリンに死角に回られる。近くのゴブリンと争っている時に、遠くのゴブリンが石を投げてくる…… 数の暴力というのは厄介なものである。
その有効性はゴブリンも理解しているようで、積極的に群れる習性がある。だから、たとえその場で見かけたのが一体だけだとしても、そばに潜んでいた仲間が加勢してきたり、巣にいる仲間を呼ばれたりする可能性は十分考えられる。ゴブリンを発見した新人が、パニックを起こしたとしても責めることはできないだろう。
「他に特徴といえば、女を攫って子供を産ませる習性があることかな。そうやって群れを増やしていくんだ」
「その話、事実だったのですね」
「冒険譚にも出てくるのか」
「え、ええ」
そう頷くキャンディスの顔は真っ赤に染まっていた。
「その、特に男性の読者には受けがいいとかで……」
「ああ」
知っていたのに触れなかった理由をザルツは察する。そういうシーンが、具体的かつ煽情的に描かれているということだろう。
となると、彼女はゴブリンの危険性を正しく認識していないかもしれない。
「さっきも言った通り、ゴブリンは単体では弱くても群れをなすとなかなか厄介だ。だから、討伐に失敗した時に群れが増えないように、ゴブリン退治には女を連れて行くべきじゃないと考える冒険者もいる」
ただゴブリンの群れを相手にする場合、冒険者側も群れを作ることが――パーティを組んで、数には数で対抗することが有効である。パーティメンバーが増えれば勝算が上がるのだから、必ずしも女性冒険者を置いていくのが正解とは言い切れない。
もっとも、お姫様のキャンディスでは到底戦力になりえないのだ。今回に限っては、置いていくべきだと言い切っていいだろう。
本人もその自覚はあるらしかった。
「それでは、私も街で待機していた方がよろしいでしょうか?」
しかし、キャンディスの表情はそうは言っていなかった。彼女は同行を望んでいるのだ。
キャンディスの目的は、ただ博物誌を編纂するだけではなく、それによって正しい情報を広めることである。自身は一切観察をせずに、他人からの伝聞だけでゴブリンについて書くことに躊躇いがあるのだろう。
自分のようなベテラン冒険者の持つ知識であっても簡単には信用しないその態度が、ザルツにはむしろ好ましかった。
「もう一つ、被害の拡大を防ぐ方法があるにはある」
「?」
あまり気は進まなかったが、本人がその気ならやるしかないだろう。
「服を脱げ」
◇◇◇
話し合いの結果、二人はザルツの借りている宿の一室へと場所を移していた。
管理局のラウンジでは、人目につくからである。
『服を脱げ』
この命令に、キャンディスは従っていた。
いや、服だけではない。彼女は下着すら身に着けていなかった。上半身だけとはいえ、完全に裸になっていたのである。
……ただ一応、キャンディスは脱いだ服で前を隠していたし、さらにザルツに対しては背を向けていたが。
裸になったことによって、彼女の華奢な体つきはいっそう強調されることになった。肩は細く小さく、そこからすぼむようなラインを描けるほど腰はさらにか細い。その上、肌が病的なまでに白いから、余計に弱々しく見える。
そんな彼女の背中に、ザルツは指を添わせた。
「どうしてゴブリンが人間の女を攫うか知ってるか?」
触れられた瞬間、キャンディスは体をぴくりと震わせる。赤く染まった耳やうなじをますます赤らめる。
「ゴ、ゴブリンはメスが生まれないから……ですよね?」
「そうだ。厳密には極端に生まれにくいだけで、まったく生まれないというわけじゃないがな」
やると答えたのはキャンディス本人である。彼女の反応はお構いなしに、ザルツはべたべたと無遠慮にその背中に触れていく。
「ラバが馬のように力強く、ロバのように頑丈なように、子供は普通両親の特徴をそれぞれ受け継ぐものだ。だが、何故かゴブリンと人間や猿の間には、例外なくゴブリンが生まれる。
こうして極論オスだけでも子孫を残せるから、性比がどんどんオスに偏るようになっていった、と学者は考えているようだ。メスに偏らなかったのは、妊娠出産にリスクが伴うからだそうだ」
もっともらしい意見に聞こえるが、あくまで仮説である。討伐にはほとんど関係ないので、ザルツも検証したことはなかった。
しかし、キャンディスが引っかかっていたのはもっと別の点のようだった。
「相手は猿でもいいのですか?」
厳密なことを言えば、どんな種類の猿でもいいわけではない。オナガザルや類人猿のような、左右の鼻孔の間隔が狭い(=人間に近い)猿だけである。
言い換えれば、人間に近い猿となら、ゴブリンは子供を作れるというのは事実だった。
「本だと違うのか?」
「人間以外と子供を作れるような記述は目にしたことがありません。やっ、やはり嘘も混じっているのですね」
嘘というか、演出と言うべきだろうか。猿よりも人間が凌辱されるシーンが出てきた方が、読者に与える衝撃は大きいに違いない。それどころか、書き方によっては衝撃だけでなく興奮も与えられるだろう。
赤くなったあたり、キャンディスはそんな風に考えたようだが――
「それは多分嘘を書いてるわけじゃない。猿か人間か選べる状態なら、まず間違いなく人間を選ぶだろうからな」
「ゴブリンは人間を好むということですか?」
「ああ。美的感覚から来るものじゃないがな」
あくまでもゴブリンらしく合理的、いや強欲な思考によるものである。
「馬や羊は季節繁殖動物といって、妊娠できる時期が一年の内の一時期しかない。これは自分も子供も生き残りやすいように、食料の豊富な時期と子供を生み育てる時期を一致させるためだ。
地域によっても変わってくるが、この国は割合四季がはっきりしている。だから、猿には季節繁殖性のものが多い」
具体的には、馬は春から夏、羊や猿は秋が繁殖期に当たる。馬は妊娠期間が長く、羊や猿は短いため、どれも春頃に子供を産むことになる。
「反対に周年繁殖動物といって、いつでも妊娠できる動物もいる。これは温暖で一年を通じて食料を手に入れやすいような地域の動物や、牛や豚のように家畜化が進んだ動物が主に当てはまる。もちろん、人間もそうだ。
つまり、数を増やして群れを作りたいゴブリンからすれば、季節に関係なく子供を産める人間の方が都合がいいわけだ」
また、体の大きさから、猿よりも人間を好むという説もあった。
ゴブリンの精子には、相手の卵子の分裂を促して、多胎児を発生させる性質があるとされている。そのため、ゴブリンの子供には、三つ子や四つ子以上が生まれやすい。
ただし、多胎児には子宮を圧迫し、早産を起こしやすくなるというリスクがある。それでゴブリンは猿よりも体の大きな人間と交尾することで、子供たちが死ぬ確率を下げて、群れの数を増やそうとするのだという。
「だから、いざという時、被害が拡大しないように、ゴブリン退治には女は連れて行かない。もしくは、ゴブリンに殺されるように男装させる必要がある」
もっとも、パーティメンバーを減らすことは、当然戦力の低下に繋がる。そのため、男装の方がより一般的な対策のようだった。
「冒険譚でよく見られるような、女性と分かる格好のまま討伐に行く描写は間違いということですか?」
「慣れない装備だと動きが鈍るから、男装しないってやつも少なくない。女なら子供を産む道具として、とりあえず生かしておいてもらえるしな」
だから、あとで救助してもらえる見込みがあるなら、あえて男装しないというのも一つの手ではあるだろう。ゴブリンに殺されるのと、ゴブリンに犯されるのとで、どちらがマシなのかは分からないが。
それに、男装しないことで自分の命が助かる可能性が生まれるとしても、同時に自分がゴブリンを孕むことで被害を拡げる可能性も生まれてしまう。そのことをよしとしない冒険者は少なくない。
キャンディスもその内の一人だった。
「男装で大事なのは、まず見た目だな。胸は布を巻いて抑え込んで、髪は短く切る。
それから、においも重要だ。学者に言わせると、若い女ほどラクトンだか何だかいう、桃みたいなにおいを分泌しているらしい」
ザルツはそう説明しながら、若い女であるキャンディスの背中に手を触れる。
「だから、こうやって馬油でにおいを上書きする必要があるわけだ」
博物誌の編纂のために、ゴブリンの生態は観察したい。しかし、自分がゴブリンに孕まされることで、他の人間に迷惑をかけたくはない。そう考えて、キャンディスは男装することを選んだ。
そして、その一環として、独特の獣臭がする馬油を体に塗り込んでいたのだった。
しばらく風呂に入らないとか、熊の毛皮を体にこすりつけるとか、においを誤魔化す方法は他にもある。ただ必要な時間や入手のしやすさを考えると、おそらくこれが一番手っ取り早いだろう。
キャンディスが半裸になったり、ザルツが彼女に触っていたりしたのは、本人の手が届かない背中に馬油を塗るためだった。周りから誤解を受けそうなので、ザルツとしてはあまり気が進まなかったが。
「あとは自分で塗れるな」
「は、はい」
文字通り全身に塗るように言ってあったからだろう。キャンディスは改めて顔を紅潮させるのだった。
ザルツは部屋の外に出ると、所持品の確認を始める。キャンディスが準備を整える間に、自分も冒険の用意を進めておこうと考えたのである。マチェーテの刃に問題はないか。持ち手の方はどうか。ナイフは……
次に部屋の扉が開いた時、キャンディスはすっかり別人になっていた。
長い髪は、背中に馬油を塗るのに邪魔だったので、元々ザルツが結ってアップにしてあった。さらにその上に帽子をかぶったことで、まるで短髪のように見える。
胸は最初から目立たないほどの大きさしかなかった。しかし、キャンディスは念には念を入れて、包帯を締めつけるように巻いて完全に膨らみを潰したようだ。
また、彼女は服も新しいものに着替えていた。これまではショートパンツにロングソックスと女らしいところがあったが、今回はフルレングスパンツで脚のラインを隠していたのだ。
中性的な感は否めないが、これなら美少年に見えることだろう。
「おっしゃられた通りにしてみたつもりですが……これでよろしかったでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ」
上手く男装できたか不安げなキャンディスとは対照的に、ザルツは鷹揚に頷く。
「ちゃんとくさい」
「くさっ!?」
キャンディスはそう素っ頓狂な声を上げた。
「くさいってどういう意味ですか!」
もちろん、『爪の間や耳の窪みなどにも、塗り残しなく馬油を塗れている』という意味に決まっているだろう。
しかし、キャンディスにはまるで伝わっていないようだった。
「くさいってどういう意味ですかー!!」
◇◇◇
「くさいと言っても、これは馬油のにおいですからね?」
取り繕うように、キャンディスが言い聞かせてくる。
「毎日きちんと湯浴みはしていますからね?」
「分かったよ。しつこいな」
数分おきに似たようなことを言い出すので、ザルツもさすがにうんざりしていた。確かにデリカシーがなかったかもしれないが、そこまで気にするようなことでもないはずである。
それも街にいる時ならまだいい。だが、今はもう森の中へと足を踏み入れていた。いい加減緊張感を持つべきだろう。
次にまた同じことを言い出したら、そう警告するつもりだった。
しかし、その必要はなくなってしまったようだ。
モンスターの痕跡が見つかって、キャンディスも嫌でも緊張感を持たざるを得なくなったからである。
不意にしゃがみ込んだザルツに、彼女は恐る恐るという様子で尋ねた。
「……どうされました?」
「ゴブリンの足跡だ」