第一章 死はいつも足下に/サンドワームについて part1
辺りには濃厚な獣臭が漂っていた。
群党のリーダーとして、先陣を切って森の中を進んでいた少年は、臭気の発生源を見つけて立ち止まる。
「いた!」
筋肉質な体躯、長く鋭い牙、そして煤けたような色の毛皮…… イノシシ系の魔獣(魔物)の一種、セーフリームニルである。
この発見に、リーダーのアイエルはひとまずの安堵を覚えていた。街で引き受けた依頼が、まさにこのセーフリームニルを討伐するというものだったからである。
一方で、パーティメンバーの少女たちの顔つきは冴えなかった。
「随分多いね」
幼馴染のリューラは、そう面倒くさげにぼやく。
彼女の言う通り、眼前のセーフリームニルは大小合わせて九頭もいたのだった。
イノシシのオスは、成長後に母親から離れて一人立ちをする。繁殖期においても、メスと交尾を済ませたあとは、すぐにまた別の交尾相手を探しに行く。よって、基本的には単独で行動することになる。
反対に、メスは成長後も母親の下に残ることが多い。そうして成獣の母娘で群れを作り、繁殖期になるとそれぞれが子供を産む。
そのため、時には今回のセーフリームニルたちのように、母と娘、そして各々の子から構成される、巨大な群れを作り出すことがあるのだという。
セーフリームニルの成獣は、常人には一頭だけでも危険な存在である。突進を喰らえば、牙で体を貫かれてしまう。仮に牙を防いでも、その速度と重量で吹き飛ばされてしまう。
だから、巨大化した群れを相手に、真っ向勝負を挑むのは無謀だろう……というのがアイエルの判断だった。
だが、一度受けた依頼を軽々に諦める気もなかった。
「メレット、頼んだ」
「は、はい」
法衣姿の少女はおっかなびっくりに答える。本当に自分たちの力だけで討伐できるのか不安なようだ。
けれど、次の瞬間には、アイエルの指示を信じて杖を構えるのだった。
春生りの果実かキノコでも生えているらしい。セーフリームニルの群れは食事に夢中になっている。木陰に隠れていることもあって、こちらには気づいた様子もない。
そこでアイエルは、魔法で奇襲を仕掛けることにしたのだった。
メレットが構えた杖の前に、長く尖った岩が現れる。魔力によって作り出された、岩の槍である。
そして、この魔法の槍は、投げ槍の如く一直線にセーフリームニルに向けて飛んでいった。
鈍い衝突音。はじけ飛ぶ鮮血。轟く悲鳴。頭に槍が直撃して、成獣が一頭即死したのだ。
その上、メレットが放った槍は一本ばかりではなかった。体に岩が突き刺さって、一頭の成獣が軽傷を負い、二頭の幼獣が重傷を負っていた。この負傷した三頭に加え、彼女に狙われなかった幼獣三頭が、その場から遁走を始める。
しかし、戦闘はここから本格化するところだった。
岩の槍をかわせるような強力な成獣二頭が、メレットに対する逆襲へと走ったのだ。
魔法の発動には精神の集中が必要で、高度なものになるほど連続で使用するのが難しくなる。そのため、限度の槍六本を放ったばかりのメレットには、セーフリームニルの突進に反撃する手だてがなかった。
だから、アイエルとリューラの二人が、彼女の前に進み出るのだった。
リューラは腰を落とすと、向かってきたセーフリームニルの額に拳を打ち込む。さらに相手がひるんだと見るや、牙を掴んだまま体を反転させた。背負って投げるような形で、相手を地面に叩きつけたのだ。これが脊椎への致命的なダメージとなって、セーフリームニルは死亡した。
一方、アイエルは剣を抜くと――
同じく向かってきたセーフリームニルを、一刀両断せしめるのだった。
◇◇◇
半日ほど前のことである。
街にある冒険者管理局。その待合所で、目的の人物はすぐに見つかった。
「あなたがメレットさんでしょうか?」
「ええ、そうですが」
求職票を手にしていたから、用件は彼女も察していることだろう。しかし、それでもアイエルはきちんと自分の言葉で伝えたかった。
「僕たちとパーティを組んでいただけませんか?」
すでにメンバーの一員であるリューラも、メレットの勧誘に加わった。
「私たち二人とも前衛だからさ。後衛のできる仲間が欲しくって。アンタ土魔法が得意なんでしょ?」
魔法には大別して二種類ある。
一つは強化魔法。腕力や脚力など身体機能を高める魔法である。
剣術や格闘術の力量を底上げすることができるので、強化魔法が得意な者は近距離での戦闘に向いている。
もう一つは属性魔法。火や水など自然現象を操る魔法である。
発動までに時間を要するものの、離れた相手を攻撃できるので、属性魔法が得意な者は遠距離での戦闘に向いている。
大抵の場合、得意とする魔法は、強化魔法と属性魔法のどちらか一方だけである。二種類とも上手く使いこなせる人間は珍しい。
そのため、アイエルとリューラのパーティには後衛のできる人材が足りなかった。反対に、求職票によればメレットは前衛と組みたがっているようだった。それで二人は彼女に声を掛けたのである。
しかし、メレットはすぐには首を縦に振らなかった。
「新人なのですが、それでもよろしいでしょうか?」
「実を言うと、僕たちも新人で…… メレットさんこそ大丈夫ですか?」
「依頼の内容は?」
「セーフリームニルの討伐です」
アイエルの返答に、メレットはとうとう表情を硬くする。
それも無理もない話だった。新人はまずスライム退治あたりから始めるものである。上を見てもせいぜいゴブリンやコボルトくらいで、セーフリームニルは「いきなり」という感が否めない。
「以前、叔母の畑が被害に遭って、せっかく育てた作物を食べられてしまったことがあるんです。だから、見過ごせないと思いまして」
決して功を焦って、無謀に走っているつもりはなかった。
しかし、それでもメレットの表情は硬いままだった。
「新人が受けるにはレベルの高い依頼だと思いますが……」
「受付の人にも同じことを言われたよ」
メレットや受付の局員とは対照的に、リューラは気楽な調子で答える。
「でも、それならへーきだって」
◇◇◇
幸いにして、リューラの宣言通りになったようだった。
三人の新人パーティで、三頭のセーフリームニルを討伐。それも三頭とも成獣である。上々の成果と言っていいだろう。
これで受注した依頼は達成した。だが、アイエルたちの仕事はまだ終わりではなかった。続いてセーフリームニルの死体の回収を始める。
セーフリームニルは、古い神話においては、「神たちの食事として供されていた」と語られるモンスターである。『煤けた獣』を意味する名前も、体色のことではなく、食材に使われることを示すものだという。
そんないわれがある通り、セーフリームニルの肉は現代の基準でも上質だった。そのため、一般的な豚肉よりもずっと人気が高く、市場では高値で取引されているのだ。
「今夜は宴会で決まりかなー。なんだかんだ言っても、やっぱり冒険者稼業には夢があるね」
リューラはもう換金したあとのことを考えているらしい。アイエルとメレットは思わず微苦笑を漏らしていた。
突進してきた二頭の死体をメレットが魔法で冷凍すると、アイエルたちはそれを腰の袋に収める。この袋は保管袋、バッグ・オブ・ホールディング、アイテムボックスなどと呼ばれるもので、魔法によって内部に一種の亜空間が広がっている。そのため、袋の大きさ以上のものを収納できる上、収納した物の重さを使用者に感じさせにくくするという効果があった。
ただし、一般的な保管袋は、時間の経過までは無視することができない。だから、肉が腐らないように、氷魔法をかけて鮮度を保つ必要があったのである。
二頭のセーフリームニルの回収を済ませると、今度はメレットが最初に土魔法で倒したもう一頭の回収へと向かう。
まさに、その瞬間のことだった。
獲物を横取りせんとばかりに、アイエルたちの前に黒い影が立ち塞がるのだった。
熊――ではない。
熊ほどもある巨大な黒い犬だった。
「夜行性のはずじゃ……」
ブラックドッグの出現に、メレットは息を呑んでいた。
横取りなどしなくても、本来なら自力でセーフリームニルを狩れるほどのモンスターである。その強さは、この森においては上位に入る。
また、ブラックドッグの内、特に巨大なものをヘルハウンドと称することがあるが、この個体はそう呼ぶにふさわしい大きさをしていた。
「どうします? 渡しますか?」
依頼されたのはあくまで討伐だけで、肉の回収までは含まれていない。追加の報酬よりも身の安全だと、慎重派のメレットはそう主張した。
対照的に、積極派のリューラはさらなる討伐まで考えているようだった。
「あれだけでかいなら報奨金も高いよね」
アイエルは二人の意見に半分ずつ賛成だった。
ブラックドッグは、メレットの言う通り危険なモンスターである。だから、誰かに危害を及ぼす前に、リューラの言う通り自分たちで討伐すべきではないだろうか。
「僕に任せて」
二人を制して前に出ると、アイエルは正面に剣を構えた。
すると、それに呼応するように、ブラックドッグは真っ黒な体から白い牙を覗かせた。
そうして自身の武器を相手に見せつけながら、しかし両者ともそれ以上具体的な動きは見せない。しばしの間、ただ睨み合う。
その末に、先にブラックドッグが動いた。
喉笛を噛みちぎらんと、四肢を爆発させるように飛びかかってきたのだ。
だが、その牙がアイエルに届くことはなかった。
それよりも一足早く、アイエルの左手から放たれた風の刃が、ブラックドッグの顔面を切り裂いたからである。
『でも、それならへーきだって』
『アイエルは特別だから』
メレットをパーティに勧誘する際、リューラはそう言って彼女を説得した。「アイエルはすごく強いんだよ」と。「強化魔法も属性魔法も得意なんだよ」と。
こうして、属性魔法で生み出された風の刃によって、ブラックドッグは先制攻撃の出鼻を挫かれ――
さらには、強化魔法で高められた腕力から振り下ろされた本物の刃によって、頭を割られて絶命したのだった。
「さっすがー」
そう褒めそやしてきたのは、リューラだけではなかった。
「やっぱり、アイエルさんは特別な方なんですね」
メレットまでそんなことを言い始める。
「ほほう、メレットにとってアイエルは特別な人だと」
「そういう意味じゃないです。というか、最初に言ったのはリューラさんじゃないですか」
「私のはそういう意味だもん」
どうやら自分もからかう対象だったらしい。リューラが抱き着いてきて、アイエルは困ってしまう。いい加減、この手の冗談が冗談にならない年齢だと理解してほしいものである。
「逃げたセーフリームニルを追いかけようか」
半数は岩の槍で怪我を負っていたから、追跡するのも討伐するのも難しくないはずである。アイエルがそう誤魔化すように提案すると、「そっ、そうですね」「りょーかーい」と二人はそれぞれ返事をした。
リーダーのアイエルを先頭に、前衛向きのリューラ、後衛向きのメレットと縦に隊列を組むと、セーフリームニルの足跡や血痕をたどりながら森の中を進んでいく。
だが、依頼を再開したくらいでは、誤魔化しきれなかったようだ。道中、リューラは話題を蒸し返していた。そのたびに、メレットは赤くなって、「違います」とか「なんでも恋愛に結びつけないでください」とか反論する。
「そういえば、メレットって最初にアイエルに声を掛けられた時も、嬉しそうな顔してたよね」
リューラは今回も、「それはパーティを組めるからです」とか、メレットがムキになるのを期待していたのだろう。
しかし、いくら待っても返事はなかった。
「メレット?」
不審げに、リューラは後ろを振り返る。
もしかして、メレットは本気で腹を立ててしまったのだろうか。リューラの悪ふざけを放置していた責任を感じて、アイエルも慌てて後方を確認する。
だが、無視をされていた方がよほどマシだったかもしれない。
隊列の最後尾から、メレットの姿は忽然と消えていたのだった。
◇◇◇
ほぼ同時刻――
街の冒険者管理局では、受付の女性局員が若干困惑した様子で報告を復唱していた。
「――、オーク、アックスビーク、それにカトブレパス……ですか」
「ちょうど見かけたんでな。ついでに狩っておいた」
顔の左半分に火傷痕のある大男は、事もなげにそう答える。
「さすがザルツさんですね」
局員は今度は感嘆したように大きく頷いた。
カトブレパスは街の南の大平原に生息するモンスターである。牛に似た姿だが、重さで垂れ下がるほど巨大な頭部をしている。
しかし、カトブレパスの最大の特徴は頭ではなく目にこそあった。その目には、視線を合わせた生き物を、魔法によって石化させる力が備わっているのだ。
そのため、カトブレパスを討伐する際は、目を直接見ることがないように、表面が鏡面状になっている専用の盾で相手の動きを確認しながら戦うのがセオリーだった。本来であれば、専用の盾代わりにナイフの刃を使って、旅の『ついで』で狩るようなモンスターではない。局員が困惑したり感嘆したりしたのはそのせいである。
火傷顔の大男――ザルツから保管袋を受け取ると、局員はカウンターの奥に引っ込んだ。本当に報告通りに討伐及び回収をしてきたのか、大広間で獲物を並べて確認するためである。
しばらくして、再び奥のドアが開く。
だが、出てきたのは先程の女性局員ではなかった。上等な仕立てのスーツを着た、壮年の優男である。
「ザルツ! 悪いがちょっと来てくれ!」
管理局の局長は、慌てた様子でそう叫んだ。
どうやら討伐した獲物に問題があったわけではないらしい。ザルツが通されたのは、大広間ではなく応接室だった。
「彼女が森の方で見慣れないフンを見かけたそうでな。一部を持って帰ってきてくれたんだ」
新人だろうか。テーブルのそばには、十代前半と思しき幼い少女がいて、目が合うと頭を下げてきた。
そして、そのテーブルの上には、薄茶色の大きな丸いフンが置かれていた。
ザルツはじっとフンを眺めたあと、念のため割って中を見てみる。それで予想がほとんど確信に変わった。
「どう思う?」
「食性が変わったせいで分かりづらいが、間違いないだろう」
◇◇◇
「おーい、メレット?」
姿の見えない彼女に向けて、リューラは大声で呼びかける。
「からかったのは悪かったからさ。変な冗談はやめてよ」
悪ふざけの腹いせに、木陰に隠れたり、先に街に帰ったりしてしまった。そう考えられるほど、楽天家でもお調子者でもないのだろう。リューラの声は震えていた。
ゴブリンは女を攫うという。オウルベアは音もなく獲物を狩るという。もしかしたら、メレットも何らかのモンスターに襲われたのではないか。
そう考えたのは、アイエルだけではなかったようだ。居ても立ってもいられなくなった様子で、リューラは来た道を引き返すべく走り出す。
「ダメだ!」
リューラを制止したのは、ただの直感ではなかった。
地面の様子に違和感があったのだ。
自分が最初に通った時は、あんな風だっただろうか。
不幸にも、アイエルの覚えた違和感は錯覚などではなかった。
あたかも水中に潜るかのように、土属性の魔法を使うことで、穴などの痕跡をほとんど残さずに地中に潜っていたらしい。
リューラの足下の地面から、突如として牙が生えてきたのだ。
そのモンスターの体には、手も足も体毛もなかった。ミミズや蛇のように、ただ細長いだけの体が延々と続いていた。
そのモンスターの顔には、目も鼻も耳もなかった。落とし穴のように、ただ口ばかりがぽっかりと大きく空いていた。
そして、あまりにも口が巨大なために、モンスターの攻撃をかわしきれず――
リューラは脇腹の肉を喰いちぎられてしまったのだった。
『食性が変わったせいで分かりづらいが、間違いないだろう』
『サンドワームだ』