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第7話:涙、流れる

 オレは斎藤さんに全てを吐き出した。

 仕事が辛いこと、趣味に時間が割けないストレスなど、今まで不満となり心に貯めこんでいたものを全てだ。

 既に22時を回っていたのだが、電話の先から印刷機の音が聞こえる。おそらく、まだ仕事をしているのだろう。


 斎藤さんはオレの言葉をひとつひとつ噛み締めるように、相槌を打ちながら聞いてくれていた。

 忙しい筈なのに。

 きっと彼も早く帰りたいと思っている筈なのに。


 普段のオレであればそんな斎藤さんを気遣い、早く話を終わらせようとするだろう。しかし、相手を気遣う余裕すらない今のオレには、それができなかった。それ程に、追い込まれていたのだ。


 溢れ続ける言葉を吐き出していると、突然それが止まる。その代わりに、ある感情が込み上げてきた。

 オレはそれを必死に堪える。

 これが外に出てることだけは、決してあってはならない。

 オレは必死だった。


 だがそれは零れ落ちてしまった。


 右目から一筋、水がこぼれ落ちる。

 それが始まりだと言わんばかりに、それは次々と溢れ出てくる。


 堪えていたもの、それは涙だ。


 これまでにも涙がこぼれそうな時はあった。

 だがそれは耐えられていた。どれだけ辛くても、どれだけ弱音を吐きそうになっても。その度に押し止め続けていた。


 だが、それが今になって決壊してしまった。どうして今まで抑えられていたのに、それができなくなってしまったのか。それはわからない。


 単純に、限界だったのかもしれない。


 何も言わず、ただ嗚咽と共に涙を流し続けるオレの声を聞いて、斎藤さんはどう思っていたのだろう。困惑なのか、呆れなのか。


「泣くなよ……」


 彼は苦笑交じりで、呟くようにそう言った。


 それはオレに対しての言葉かどうかもわからないが、その言葉は温かく感じた。

たった一言ではあったが、今でもその言葉は温かく感じるし、その感触を忘れないでいる。


「すみません……オレ……」


 少しずつ、少しずつ。

 溢れる涙に言葉が流されないように、一音一音確かめるように言葉を繋げていく。


「頑張りたいのに……」


 期待を背負っている自分は頑張らなければいけない。


「体がついてこなくて……」


 だが、この体は限界を迎えている。


「すみません……」

 

 絞り出た最後の言葉は、謝罪だった。


 新人の中ではと言えども、全国で十本の指に入るほどの成績を残している。周囲の人間からは頑張っていると言われたし、褒められもした。

 だが、それでもノルマを達成できていなかったこと。今でも成果は挙げられていない事実は変わりない。その事実がオレを縛り、苦しめていたのだと思う。


 一体どうしてこんなに完璧を求めるようになってしまったのだろうか。

 厳格な両親の教育がこうしたのだろうか。それとも、学生時代に過ごした経験の中で得た『何か』によってなのだろうか。

 もし完璧を求めずに、山田さんが言っていた『割り切る』ことができていたなら、もっと気楽に仕事ができていたのだろうか。ここまで、疲弊しなかったのだろうか。


 そんなオレに対し、斎藤さんは扱いに困っていたと思う。

 勝手な印象ではあるが、彼は仕事ができるものの部下などとの対人関係は苦手な印象をを受けていた。実際、オレ自身と彼との会話は仕事の内容以外で皆無だった。

 何だったら今この電話が仕事以外で、初めての会話だ。


「……今度、吞みに行こう」


 彼はそう言った。

 優しく諭すような口ぶりだった。


「この土日、奢ってやるから一緒に吞みに行こう。ここいら辺で美味しいところ、紹介してやるよ」


 心が落ち着き始めていたのだと思う。

 オレは彼の誘いの言葉が純粋に嬉しいと感じた。


 オレ自身、酒自体は強くないのだが学生時代の飲み会は好きだったのもあり、社会人としての飲み会に心惹かれた。

 上司に誘われる飲み会、というのにも興味が湧く。勿論、部下が気にしなければならないマナーなどは多いだろうし、そもそも斎藤さんがマナーが厳しい。

 だからこそ、そんな彼と同席できるのは良い機会だと言える。色々な事が学べるはずだ。社会人として初めての酒の席で学べるのも大きい。


 思い返せば社会人になってから、一滴も酒を吞んでいないことに気が付く。

 ストレスを酒で流し込む、なんていう人間もこの世の中には存在する。もしかしたら今の自分の現状は、酒に頼っていないからかもしれないと冗談交じりに考える。


 心が前を向いたのだと、確信した。

 前を向けたのであれば、この涙は拭い去らなければならない。

 

 オレは手で涙を拭った。


「……ははっ。いいですね。酔って失礼な事しちゃうかもしれませんが、ちゃんと叱ってくださいね」


 冗談めかしてオレはそう言った。


 その時のオレはきっと、ちゃんと笑えていたと思う。

 斎藤さんの返事は覚えていない。

 何かを返してくれたような気もするが、思い出せない。


 だが確かに、彼は笑ってオレに言葉を投げ掛けてくれていた。


 通話を終える。

 鏡を見ると、目が真っ赤に染まっていた。



「――ぶっさいくな顔してるな、お前」



 自分に悪態を付ける。


 鏡の向こうの自分。


 その表情は、『笑顔』だった。

 大手企業に勤めるオレとしての仮面ではなく、正真正銘『オレ』の心が現れた笑顔だった。



 その後、話し疲れたのか泣き疲れたのかはわからないが、急に襲い掛かってきた眠気に抗えず、オレは床についた。


 今週はまだ始まったばかり。

 だが、今週末には飲み会が待っている。

 そう考えれば、今週も乗り切れそうな気がした。



 ――――しかし、この数日後。


 オレの中から大切なものが、消えた。



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