007
「ラルフ……おい、ラルフ」
「んあっ、はい、はい!」
師匠の呼び出しに、我に返って俺は返事をした。しかし、読んでいた本はベラ師匠にすっと取り上げられる。師匠は俺が見ていたページを確認するとため息を付いた。
「本を読んでると思ったら、まさか挿絵を眺めてるだけか?」
「そりゃそうだよ、俺まだ字読めないもん」
「まぁ、なににしろ、読書は一旦中断だ。ほら」
師匠が手で示した方には、道化部屋の外からこっちを覗くアニーの姿があった。俺と目が合うとアニーはくすりと笑う。
「ラルフさん、最近はその本にご執心ですね」
「へへへ、楽しいぞー、星座物語! アニーも読むか?」
「うう、私、字苦手なんですよ。ていうか、ラルフさんも読めないでしょ!」
「でも俺は、話の内容は知ってるからな! あとは絵を見れば楽しめる」
お喋りしながら、いつもどおりのでがらしスープを受け取る。
朝の道化部屋。俺と師匠、さらに食事を届けてくれるアニーの三人のやり取りは、すっかりおなじみになっていた。クリスとの決闘はアニーも見ていたらしく、あの日からしばらくアニーはその話題で盛り上がり続け、朝と夕方の食事がやたら賑やかになった。俺としては、途中まで本気で命がけだったあの戦いのことはあまり思い出したくなかったけれど、アニーの反応を見るのが楽しくて話に乗っている。そうする内に、俺はアニーとそこそこ話をするようになっていた。
俺と師匠が味の薄いスープをちびちびすすっていると、アニーははずんだ声で話しかけてくる。
「そういえば、お二人はパレードでなにかされるんですか?」
「パレード?」
聞き覚えのない話題に師匠の方を見ると、すました顔で説明してくれる。
「もうすぐ、王の即位二十周年を記念したパレードがある。楽隊を呼んで音楽を演奏しながら城下町を練り歩くんだそうだ」
「へー、面白そうだな!」
俺の反応をよそに、師匠はアニーに顔を向ける。
「ご覧の通り、ラルフはパレードのこと自体今始めて知ったようだし、私にも話は来ていない。そもそも、王を盛大に祝うための催し物で、我々道化なんぞに舞台は用意されないだろう」
「うーん、お二人の芸ならきっと盛り上がると思うんですけどね」
「そんなことを言ったら、わざわざ遠くからくる楽隊に失礼だぞ。彼らの演奏で町のやつらは十分楽しめるさ。私たちの出る幕じゃない」
そう言い切って、師匠は空になった皿をアニーに手渡した。俺もそれにならうと、二枚の皿を重ねたアニーは「あーあ」とこぼす。
「こういう機会でもないと、私お二人の芸見られないのに。今からでも、パレードに出ることになったら教えて下さいね。なんとかして見に行きますから」
そうぶーぶー言いながら、アニーは部屋を出て戸を締めた。それを見送ると、俺は頭の後ろで手を組んだ。
「パレード、かぁ。やっぱり、王城は違うよな。俺のいた村なんて、そんな賑やかなことなんて全然なかったもん」
「見てみたい、なんて言うなよ。お呼びでもかからない限り、私たちは城から出ることだってできないんだから」
「はいはーい、わかってますよ」
師匠が釘を刺して来たもんだから、俺はさっきのアニーと似たような顔を作ってみた。
と、そこでこんこんと部屋の戸が鳴った。まだとの近くにいた俺が戸を開けると、そこにはさっき出ていったはずのアニーが立っていた。軽く息をはずませて。
「あ、ラルフさん。姫様がお呼びだそうです」
「おっと、そうか。わかった、ありがとう」
聞いて早々に着替えようとした俺に、アニーの声が追ってくる。
「えっと、できればなにか芸を見たいんだそうです。その準備もお願いします」
「んえ? う、うん」
俺が頷くと、アニーはまた戸を閉めた。
思えば、姫様が俺に芸を要求するのは、かなり珍しい。今までは、なんというか、状況報告を求められることがほとんどだった。例の、部屋に呼び出されて姫様と向き合って話す、あれだ。呼び出しの段階ではっきりと芸が見たいと聞いたのは、ひょっとして初めてなんじゃないだろうか。
俺は急いで道化服を着込むと、すっかり手に馴染んだお手玉を五個掴んで、転げるように部屋を飛び出した。
姫様の部屋の前に立って、俺は木の戸を叩く。「お入りなさい」と澄んだ声の返事を聞くと、戸を開けて部屋に入った。部屋には大きな窓から昼過ぎのぬるい光が差していて、それを背に姫様はいつもと同じように机の前の椅子に座っていた。俺もいつもどおりに姫様の前の椅子に腰を下ろす。姫様の眼差しは、今日も静かなものだ。
「来ましたね、ラルフ」
「うん。今日は、芸を見せればいいのか?」
俺が返事すると、姫様はこくりと頷く。
「そう言ってもらえると、話が早いです。今あなたにできる芸を、見せてほしいのです」
「そんなら、よっと」
服のポケットに手を突っ込んで、お手玉を取り出した。相変わらず無表情の姫様に向けて、にっと笑ってみせると、右手に三個、左手に二個お手玉を分ける。そして、目の前の空間にそれを投げ上げた。
衣装と同じ、赤と黄色のお手玉が、俺の前でくるくると舞う。その軌道を読んで落ちる前に掴み、また投げ上げる。集中すれば、玉の動きは十分に見える。あとは、練習で身に染み込ませた感覚通りに手を動かせば、五つの玉はきれいに踊り続けてくれた。
しばらく続けている間、姫様はこっちをあの深い色の瞳でじっと見ていた。そして、いくらかすると目を伏せて深く頷く。
「ラルフ、よいです。お疲れさまでした」
それを合図に、俺は玉を一つずつ掴み取って、お手玉を終えた。
「えっと、姫様としては、あんまり面白くなかったかな?」
「なぜです?」
「だって、ほら、あんまり楽しそうでもないし」
「いえ、今かなり楽しませてもらいました。見事です」
そう言ってから、姫様はぱちぱちと拍手した。ううむ、ちょっと調子が狂う。
頭を掻く俺に、姫様は語りかけてきた。
「ラルフ、今の芸であれば、私以外の者に対しても十分に披露できるものです。まずは一つ、道化としての技を身に付けたと言って良いと、私は思います」
「ほ、ほんとか? よかったぁ、ようやく一人前かぁ」
「いえ、そこまでとはまだ言えませんが。一歩踏み出した、というところです」
さらっと鋭く突っ込まれた姫様の言葉に若干傷つくけれど、悪く言われているわけではなさそうだからなんとか気を取り直す。
「話は変わりますが、ここ最近の生活はどうですか? なにか大きく変わったことはありますか?」
「あー、それについては、なぁ」
ここのところの生活を思い返して、俺は頬を掻いた。
「城の中をちょっと出歩いてるとさ、見られるんだよ、城の人たちに」
「道化の衣装が目立つから、ではありませんか?」
「いや、たしかにそう言う意味では前から見られたりしたけど、なんかこう、前とは違うんだよ。みんなの、俺を見る目が、こう」
「ふむ。例えば、騎士たちからの目が変わった、ということは?」
「ああ、それだ! 騎士の人たち、前はちょっとバカにしたような目で見てきてて、ちょっと嫌だったんだけどさ。最近はこう、それが変わったっていうか。他の人も似たようなもんかもしれないな」
「なるほど、わかりました」
俺が話し終わると、姫様は目を伏せた。そして黙ったまま、しばらくうつむく。なにか、考え事だろうか? 声をかけていいものか迷ってしまい、俺は困った汗がにじみ出るのを感じた。
だが、俺がしびれを切らす前に姫様は目を開け、俺に語りだした。
「ラルフ、この間のクリスとの一件で、あなたは城の者たちにも存在感を示したことになりました。喧嘩のことはともかく、そこに至るまでにあなたはクリスの剣技をしのぎ通した。そのことで、騎士たちのあなたを見る目も変わったのでしょう」
「うーん、そういうもんなのか? あのときは、俺も必死だっただけで、騎士様たちに、そんな、見せつけるようなつもりはなかったんだけどなぁ」
「あなたにそういったつもりがなくとも、周りの目というものは変わります。ただの愚か者だと思っていた者が、あれだけのことをしたのですから」
そう言ってから、姫様は一度言葉を区切り、
「城の中で、『道化のラルフ』のことを多くの者が認知した、と言って間違いないでしょう」
そう結んだ。姫様の顔は、やっぱり表情を読み取りにくいけれど、声はどこか重い。いつも以上に真剣な響きがする。
だから、気になった俺はこう尋ねた。
「もしかして、それって良くないことなのか?」
すると、姫様は一瞬、目を見開いて言葉を詰まらせる。
しかし、そんな様子はすぐに引っ込んで、返事をくれた。
「このこと自体は、良いとも悪いとも言い難いです。しかし、ラルフ、あなたはいずれにせよ気に留めねばならないことがあります」
「気に留めること?」
「あなたは、この国の国民の一人で、それに見合う尊厳を持つべき者である、ということです」
「尊厳、て……?」
難しい言葉に、俺は頭を捻る。姫様が何かを心配しているらしいことはわかるけれど、国民の尊厳、ってどういうことだろう?
「一人の人として、話をしたり働いたり、そうすることを周りからも認められるべき、ということです」
「うぅん……」
姫様は噛み砕いてくれるけれど、それでもいまいちピンとこない。腕を組んで唸ってしまう。
話をしたり働いたり、と言われたけれど、それを気に留めなきゃならない、とわざわざ姫様が言うのは、どういうことだろう? 俺は今も道化としての仕事をしているし、姫様だって師匠だって、それにアニーもちゃんと話をしてくれる。これまでの話を考えれば、騎士の人たちだって俺を認めてだしている。これって、心配するようなことじゃないと思うけれど。
首をかしげる俺に、姫様はかすかに表情を柔らかくした。
「今ははっきりとはわからなくても、道化として過ごす内に、そうした点で問題を感じることもあるかもしれない、程度に考えてください。そして、問題を感じたなら、私に話してください。私も、あなたを民の一人と見て接しますので」
「うん、まあ、わかった」
姫様の言葉に、まだ納得したわけではないけれど、ひとまず俺は首を縦に振った。
道化部屋に戻ってからは、俺は新しく始めた逆立ちの練習をした。と言っても、逆立ち自体は案外簡単にできて、それを維持したまま喋ったり歌ったりすることのほうが主な目的だ。そうなるととたんに難しくなって、昼間いっぱいの間練習は続くことになった。
そして、その日は王様と姫様の夕食に呼び出され、俺と師匠で芸を見せることになった。以前も来たあの豪華な食堂で、食事の皿を前に王様と姫様の二人が座っていて、その前で師匠と俺が立つ。
「さあてラルフ、絨毯にしちゃあ長いその手足で、何を見せてくれるんだい?」
「ほい来た師匠、これをご覧あれ!」
事前に打ち合わせたとおりに師匠との掛け合いをこなして、俺はお手玉を見せる。始めは三個から。そのうち師匠に玉を追加されて、四個、五個と進める。しばらく続けてから、今度は俺がお手玉を師匠に投げ返し、四個、三個と減らす。それを受け取った師匠はすぐさまそれを投げ上げて、最後には五個全部を使ったお手玉にしていく。
その間、姫様はやっぱり静かな顔のままだったけれど、王様は満足げに笑っていた。師匠が玉を投げ終わり、師匠と俺が二人揃って礼をすると、王様は拍手をした。
「二人で見せる芸というのも、なかなか面白いものだな。ほら、受け取るがいい」
王様から褒美の小さな果物を二人で受け取ると、その日の仕事は終わりになった。
俺は、ここに来てようやく気付いた。家族での食事だというのに、席に座っていたのが王様と姫様だけだった、ということに。
道化部屋に戻ると、早々に師匠に尋ねてみた。
「なぁ師匠」
「ん、どうした?」
「さっきの食事、王様と姫様の二人だけだっただろ。お妃様、ていうか、姫様のお母さんは、なんでいないんだ?」
道化服を脱ぎながら、師匠はこともなげに答える。
「ああ、お妃様はもう死んでるよ」
「えっ」
「まだ姫様が小さかった頃に、病で死んだらしい。まだ私が城にいなかった頃のことだから、私も人聞きにしか知らないがな」
簡単に飛んできた重い話に、俺は言葉をなくす。師匠はと言えば、本当になんでもないことのように言葉を続けた。
「姫様はもともと生真面目な性格だったらしいがな、今のように学問を修めて城の仕事もこなすようになったのは、お妃様が死んでからなんだそうだ。なんでも、国を治める王を助けてやってほしいと、お妃様の死に際に言い残されたとか」
「そうだったのか……」
「まだ小さい子供だった姫様に、かなり重いことを言ったもんだとは思うが、結局はそれで良かったのかも知れないな。ゆくゆくは女王になる人が、きっちりと国政の経験を積んでいるんだから」
そう言い終わる頃には、師匠は部屋着になっていて、体をほぐす運動をしていた。でも、俺は聞いたことが頭でぐるぐるして着替えももたついていた。
姫様は、お妃様の最後の言葉を聞いて、今の姫様になった。すっごく頭が回るし、謁見でも相談に来る国民たち一人ひとりに向き合える、すごい人。この人が将来女王になるんだと思うと、確かに頼もしいように思える。
でも、その活躍の中には、無理をしているところもあるんじゃないか? さっきの食卓でも静かな表情を保っていた姫様。でも俺は知っているんだ。この前の謁見で、俺をいちいち呼び出してまで撫でたがった、年相応の姫様のことを。
普段のあの無表情の裏で、いろいろなものを押し殺しているのかも知れない。
「おい、ラルフ。どうした?」
「んあ、ああ、ごめんごめん。ちょっと、考え事しちゃって」
師匠の声に我に返った。気づけば着替えの途中で腕を止めてしまっていた。師匠は部屋の中で一つきりのランプに手を伸ばす。
「お前が考え事、っていうのはずいぶん珍しいが、そろそろ明かりを落とすぞ」
「うん、わかった」
「何を考えてたのか知らないが、さっさと寝るようにな」
俺も部屋着になったのを確認すると、師匠はランプの明かりを消した。夜の道化部屋を照らすのが、高い位置にある窓から入る月の明かりだけになる。その青白い闇の中で俺は横になりまぶたを閉じたけれど、どうにも寝付けなかった。
どれくらい経っただろう。あたりは暗いまま、俺はいまだに目が覚めていた。目を開けてあたりを見回すと、横になった師匠の背中が見える。耳を澄ませても音らしい音はない。城全体が寝静まっているようだ。
俺はのそのそと道化部屋の戸に向かう。落ち着かない気持ちを、夜風に当たって鎮めたい。この時間であれば、道化がちょっと遊び歩いたって、誰にも迷惑はかけないだろう。
戸の外は、思ったよりも明るかった。こんな遅い時間でも、松明がぽつぽつとつけられているようだ。そうなると、見張りの兵も近くにいるのだろうか。まあ、見つかったところで多少叱られるだけだから、心配することでもないのだけれど。
行くあてでぱっと思いついたのは、あの中庭だった。もともと城の外に出ることは禁止されている身だから、外の空気を吸うとなるとあそこが一番手っ取り早い。
ふらふら歩いていくと、思いの外すんなりと中庭に出られた。周りを囲む塀や塔には、やっぱりちらほらと明かりがついている。でも、それよりも明るい月が中庭全体を煌々と照らしていた。中庭の角に腰を下ろすと、俺はちょっと目を細めてそれを、夜空を見上げてみる。
正直なところ、俺はあまり月が好きじゃない。あんまりに明るくて、周りの星が見えづらくなるからだ。でも、このときはそんな気持ちにならなかった。思えば、城につれてこられてから、こうして夜空を見上げることもほとんどなかった。久々にこうしてみると、しかし、森で見る空とはまるで違って見える。空は塀で四角く切り取られているし、尖塔の屋根も視界に入る。
俺は、森から城に出てきたんだ。今さら、そんなことをしみじみ感じた。
森にいたときは、何かを考えることもなく、食べつなぐことと身を隠すことだけに必死になっていたっけ。それが、こうして人がいっぱいいる城で暮らすことになって、思えばずいぶんな変化だ。道化としてもうまくいきだしている。
姫様は心配してくれているけれど、俺は大丈夫だ。だから、俺もなんとか姫様を支えられるようになりたい。道化なんだから、笑わせてあげたい。それが、俺を気にかけてくれる姫様への恩返しになるはずだ。
とりとめもなく物思いに耽っていると、頭を使ったせいか少しずつまぶたが重くなってきた。今なら、部屋に戻って眠れそうな気がする。立ち上がって、道化部屋に向かう。ぼんやりした頭で廊下を進み、二階への階段の近くに差し掛かった。
そのとき、小さな声が耳に入った。誰だろう? もうずいぶんと遅い時間なのに、誰か立ち話でもしているんだろうか?
聞こえてくるのは二階からだ。ちょっと気になって、俺は階段をいくらか登って耳を立てる。すると、
「――そうだな、それで行こう。期待しているからな。なに、心配はいらない」
低い声が聞こえてくる。何の話だ? もう少し集中して音を拾ってみた。
「陛下の死をもって、私がこの国を生まれ変わらせてみせるとも」
それを聞いて、眠気なんて吹っ飛んでしまった。