006
「け、決闘って」
城の中庭、その一角の更地で尻餅をついたまま、俺は相手を見上げていた。クリス。姫様の近衛騎士でアグレル国内有数の剣士というその男が、俺の前で仁王立ちしている。こめかみに血管を浮かび上がらせ、目を吊り上げた表情で。
なんでこいつがこんな表情をしているのか、どうして俺を捕まえて決闘だなんて言い出したのか、さっぱりわからない。
「どういうことなんだよ? お前、なんでそんなに怒ってるんだ?」
「軽口を叩くな! この剣で、貴様のその身に騎士の誇りというものを刻み込んでやる!」
「ひいっ!」
クリスはこっちの言うことに耳を貸さず、つばが飛んできそうな勢いでまくし立てる。これじゃ話にならない。
そこへ、
「おい、どうしたクリス。何を騒いでる?」
のそのそと、一人のおっさんが近づいてきた。太眉にタレ目の温厚そうな人だが、クリスと似たような鎧を着込んでいる。となると、この人も騎士か。
クリスは顔を真っ赤にしたまま、顔だけをその人に向けた。
「騎士団長殿、どうか止めないでください。俺は、このうつけを斬らねばなりません!」
「おいおい、物騒だな。どういうわけだ? 話してみろ」
「それは、こやつを斬ったあとで十分です!」
おっさん――騎士団長に対しても、クリスは勢いを和らげない。団長は深い溜め息をついて頭をぼりぼりと掻いた。
「こりゃだめだ、久しぶりにぶっ飛んじまってる」
そして、諦めたような目を俺の方によこした。
「道化よぉ。おまえさんが何をやらかしたかは知らんがな、おまえさんは喧嘩を売る相手を間違っちまったようだぞ」
「な、なあおっさん! こいつをどうにかしてくれよ、このままじゃ、俺」
「ああ、斬られちまうだろうな」
「んなっ!」
あっさりと残酷なことを口にして、団長は俺から目を逸してしまった。少しだけ眼差しを鋭くして、団長はクリスに向き直る。
「クリス、決闘だって言うんなら、俺が立会人をやるからな。一太刀浴びせたら、そこまでで終わりだ。間違っても必要以上にいたぶるなよ」
「……承知しました」
「それと、おい道化、おまえさん、なにか武器は扱えんのか?」
団長は視線だけを俺に向けた。俺は、腰が抜けてまだ立ち上がれずにいる。
「ぶ、武器って、そんなもん触ったこともない!」
「あー、まぁ、そりゃそうだよなぁ」
「団長殿、こやつに握らせて良い武器などないでしょう!」
「あーあー、わかったよ。そんならいっそ、丸腰のほうが身軽でいいってことで。クリス、お前も一応鎧を脱げ。決闘だってんなら、それくらいは公平にせにゃあならん」
なんだか投げやりな声を出して、騎士団長はのそのそと更地から一歩出た。そして、ぐるりと俺たちの方に向くとため息まじりに言う。
「そんじゃあ、道化のほうがまともに足腰立つようになったら、決闘開始とする。双方、待ったなしの恨みっこなしで頼むぞ」
決闘開始って、本気か? まさか本当に、国で指折りの剣士クリスと俺がやり合うっていうのか?
「は、ははははは……」
引きつった笑いが溢れ出る。これは、死んだかもしれない。
***
マグノリアは、城内を駆け回ってクリスとラルフを捜していた。
日頃から鍛えているクリスの全力疾走に、運動にまったく向かない格好のマグノリアが追いつけるはずもなく、謁見の間を走り去った彼をあっという間に見失ってしまったのだ。ラルフを連れ去る前のクリスの様子は尋常ではなかった。しつけをする、と言っていたが、まっとうな手段のしつけのこととは到底思えない。早くクリスを見つけ出して止めなければ、とんでもない事態になりかねなかった。
しかし、騎士団の詰め所にはクリスたちの姿はなく、まさかと思って拷問吏を尋ねたが首を横に振られてしまった。ほかにどこに行くというのか? あてもないままひたすらに足を動かす。
そのとき、城のどこかで声が上がった。歓声だろうか? 聞こえてきた廊下の窓の外を覗く。
中庭の一角に、人だかりができていた。兵士の訓練に使う更地だ。
そして、人に囲まれているのは、鎧を脱いで剣を構えたクリスと、情けない格好で腰を抜かしているラルフだった。
「なっ……!」
近くの階段を駆け下り、中庭に向かう。人だかりは目を離した間にも増えていたようで、マグノリアの背ではクリスとラルフの姿は見えない。だが、体の大きいゴードン騎士団長の頭だけは見える。そちらに向かって人をかき分けて進んだ。
どうにかたどり着くと、騎士団長は曇った表情でクリスとラルフに目を配っている。だが傍らに現れたマグノリアに気づくと、頭を向けてきた。
「ああ殿下。すみませんな、こんな騒ぎになっちまって」
「ゴードン、これは一体どういうことなのですか?」
「ま、見ての通り、剣士と道化の決闘ですな。まったく、ふざけた絵面だ」
「馬鹿なことを言わないでください、こんな決闘がありますか! クリスは一角の剣士で、ラルフはただの道化なのですよ。一方的な暴力になってしまいます!」
しかしマグノリアの抗議に、ゴードンは至極冷静に返した。
「それはそうなんですがね、クリスは一度ああなるとなかなか収まらんやつなんです。ここで止めたとしても、いつまた騒ぎ出すかわかったもんじゃねぇ。それに、このままにしても失うものはせいぜい一人の道化。その程度の対価で若造の気が収まるんなら、まあ悪くないんじゃありませんかね?」
その言葉に、マグノリアは一瞬言葉を失う。なんとかひねり出した声は震えていた。
「あなたは、ラルフが死んでも構わないと、そう言っているのですか? あの者も、このアグレルの民の一人だというのに!」
「そこだ。それですよ殿下」
熟練の騎士団長のその声は、相変わらず冷静でありながら、今までよりも一層重く、そして鋭くマグノリアの言葉に挿し込まれた。
「なぜ殿下は、あやつをそこまで丁寧に扱うんですかな? 私には、殿下のそのお考えの方が奇妙に思えますぞ。道化なんぞ、たかが飼い犬一匹に似たようなもの。それをいっぱしの国民として扱われる殿下のことが、クリスは納得いかないんでしょう」
そこまで言うと、ゴードンは目尻にしわをよせて、クリスに目を注ぐ。
「あの若造は、頭の回転はさほどよろしくないが、一本気で真面目なやつだ。日々殿下のために尽くしてきたと自負している。だから、道化なんぞが自分と同じように扱われるなんて我慢ならんと、そういうことだと私は思いますぞ」
「そんな……」
ゴードンの声が、マグノリアの胸に低く深く響く。
これは、マグノリアの失敗だ。クリスが自分を強く慕ってくれていることは、前々から理解していた。それなのに、自分の新たな責任として最近はラルフにばかり気を配っていた。そしてそれに対するクリスの忠告も、マグノリアはついさっき退けてしまったのだ。
だから、この場を収めるなら自分で動かなくてはならない。だが、
「さあ殿下、ここにいらっしゃると危険だ。今はお退きになって」
「あぁっ!」
ゴードンはマグノリアの小さな体を抱えて、決闘の場から遠ざけてしまった。これでは、人だかりのせいで決闘の様子もろくにわからない。
そのとき、
「おや姫様! こんなところじゃ見世物も見えないんじゃないのかい?」
別の声がかかった。高くて明るい声色。振り返ると、緑と紫の服をまとった仮面の道化が立っている。
「ベラ! 見世物などと、あなたまでそんなことを言うのですか!」
「なあに、道化としちゃあ、これだけ人目を集めていりゃ、内容が何であれ見世物なのさ。アニーに言われて出てきたけれど、こりゃあまた大層なことになっているね!」
こんな事態だというのに、こちらの道化は普段の調子を崩さない。いや、この騒ぎを楽しんでさえいるようだ。
「あなたも、ラルフがどうなろうと構わないというのですか?」
絞り出した声が、また震える。なんという、なんということだろう。あの青年の身を案じるのは、マグノリアただ一人なのか?
だが、ベラからの返事は思いもかけないものだった。
「とんでもない! あいつがいなくなっちまったら、世にも珍しい喋る絨毯がなくなっちまうじゃないか! そんなことはごめんだね」
そして、ベラはずいと顔をマグノリアに近づける。急なその動きにマグノリアはたじろいだ。
「ねえ姫様、それにしてもおかしいと思わないかい?」
「な、なにがです」
「ここにいる野次馬どもも、騎士団長殿も、姫様も。なあんでみんな、ラルフのほうが負けるって決めつけているんだろう?」
「そんなことは、見ればわかるでしょう? ラルフは丸腰なのですよ!」
思わず叫び返すと、仮面の道化はけらけらと笑った。
「みんな、随分と単純に考えるんだね! でもね、あたしはそうは思わない。この勝負、勝者なしの喧嘩両成敗、と見るよ」
「なんですって? それは、どういう――」
マグノリアの言葉は、ついにあがった歓声にかき消された。ベラが口元をにいっと吊り上げる。
「さあ始まるよ、道化の決闘が! 果たしてあいつは、『立派な道化』になれるのかな?」
夕日は沈み、あたりに焚かれた松明のゆらゆらした明かりが、ベラの笑いを赤く照らしていた。
***
がくがくいう腰で、俺は無理やり立ち上がった。本当は、座ったままでクリスと周りの野次馬が諦めてくれればよかったのだけれど、クリスはこちらを睨んだまま動かないし、周りの熱気はますますたぎるばかりだったから。
でも、覚悟なんてできやしない。うう、尻尾が股の間に引っ込んでしまう。
きっとクリスは、高く構えた剣を戦いの始まりの合図と同時に振り下ろして、俺をばっさり斬るつもりだ。細身で軽そうな剣とはいえ、そんな一撃を受けたらひとたまりもない。
だから、攻撃もできない俺にこれからできることは一つ。とにかく避けて避けて避けまくるしかない。
「くっそお、やればいいんだろやれば……」
俺のつぶやきを聞き拾ったのか、騎士団長が頷く。
「よし、やっと道化も腹を決めたな。そんなら、両者、構え」
クリスの筋肉が引き締まる。俺はなんとなく拳を握りしめる。そして、
「はじめぇっ!」
騎士団長が叫んだ。
クリスが、突進してくる。剣を一層高く上げた。刀身が周りの明かりを反射してぎらりと光る。
でも、なにか変だ。覚悟したよりも、遅い? いや、すごい速さなのはわかるが、それでもこれなら、目で追える。
そうこうしているうちに、クリスはもう間近。剣が振り下ろされる。しかし、やっぱり遅く見える。これなら――
俺は、軽く左半身をひいて振り下ろされた刃を避けた。
クリスがぎりっとこっちを睨む。そのまま、下ろされた剣を振り上げた。これも、大丈夫だ。大きく跳んで、クリスから距離をとる。
そこまでで、わいわいと賑やかだった野次馬たちがどよめきだす。立会人の騎士団長まで目を見開いていた。
「このっ、人外がぁっ!」
叫んだのはクリスだ。剣を右に振りかぶっている。薙ぎ払いだ。俺はまた後ろに大きく跳ぶ。それで、観客は一段とどよめきを強くした。何が起きているか、わかっていないのだろう。かなりの腕前の剣士の攻撃が、どうしてこうも避けられるのか。
でも、わかっていないのは俺の方だ。なんでこんなに簡単にいくんだ? どうしてクリスの太刀筋が俺なんかに見えているのか?
とにかく、これでやることは決まった。クリスの攻撃をひたすら避けよう。しばらくすれば、クリスも体力が尽きて決闘どころじゃなくなるはずだ。
俺は、またも突進してくるクリスを、神経を集中させて睨み返した。
***
マグノリアは、口をぽかんと開けていた。
あのクリスの剣技が、ラルフに避けられている。それも一度や二度ではない。クリスの目にも留まらぬ斬撃は、ことごとく空を切っている。
「あーあ、これじゃ名うての剣士も形無しだね」
相変わらずの調子なのは、ベラだけだ。野次馬の群れはクリスの一太刀ごとにどよめきを深くしているし、騎士団長はあんぐりと口を開けてしまっている。
「ベラ、どういうことですか、これは」
だから、マグノリアにはそう尋ねるしかなかった。ベラは声を漏らして笑い、ぺらぺらと喋りだす。
「姫様、ラルフはね、あたしの弓矢を掴んで止めることができるのさ」
「それは、ラルフからも聞いています」
「じゃあ、話は簡単だろう? おもちゃの弓矢とはいえ、あいつにはそんなことができるんだ。矢の動きを目で追って、その上でそれを掴む。獣じみた目と、獣じみた動きをあいつは持っているってわけ!」
「まさか、それじゃあラルフは」
「ああ。あの騎士様の剣技を、全部目で追ってから避けてるんだろうね」
「そんな……」
ベラの話は、単純明快だ。だというのに、こんなに理解し難いとは。だが、目の前で繰り広げられている光景は、その単純な話以外では説明できない。
「ところで姫様、あたしはいつまでこうしてればいいのかな?」
「ああ、もう良いです。下ろしてください」
ベラはマグノリアの腰を支えて、人だかりの向こうが見えるように支え続けている。ひとまずラルフの安全が確認できたので、マグノリアは下ろしてもらうことにした。
ベラはやれやれと息をつく。
「ただ、このままじゃクリスのほうが勝つだろうね」
「どういうことです? クリスの攻撃は当たらないでしょう?」
「それがいつまで続くのか、ってことさ。剣士の体力が尽きるのが先か、道化の集中が切れるのが先か。ほら、ご覧!」
観衆のどよめきが、ぱっと明るくなった。ベラにすぐさま掲げられると、見えたのはいまだ剣を構えるクリスと、体勢を崩して肩で息をするラルフだった。
ラルフの道化服は、胸元あたりがすっぱりと切り開かれている。
***
自分の鼓動と呼吸が大きく聞こえる。いよいよ、まずいかもしれない。俺は小さく舌打ちした。
さっきまでは十分目で追えていたクリスの攻撃を、だんだんと追いきれなくなってきている。今の一撃がかすったのは、そのせいだろう。あと少し身をひくのが遅れていたら、俺の胸元がきれいな直線で割れていたところだったろう。
消耗しているのはクリスもきっと同じだ。あいつはまだ剣を構えているが、息が荒くなっている。剣を引いた構えってことは、突きがくるのだろうか。
俺が避けられるのは、次の突きが限界だろう。それ以上は、頭がどうにかなりそうだ。
どうすればいいか? 勝ったりしなくたっていいから、とにかくこの決闘を大事なく終わらせたい。道化の俺に、これ以上何ができるだろう?
そのとき、ベラ師匠の言っていたことを思い出した。
――道化はな、見られたら勝ち、ていう勝負をすべきだ――
見られたら勝ち、って、どういうことだろう? 決闘なんて、人に見られただけで勝てるものなわけがない。だったら、決闘してる時点で、俺は道化として勝てないじゃないか。じゃあ、この戦いを、決闘じゃなくする? どうやって? クリスが剣を構えている以上、命のやり取りになるのは当たり前で、
そこで、やっと気付いた。俺の勝ち方に。
さっきから睨み合っているクリスに、俺はにいっと笑ってやった。
クリスは一瞬呆けた顔をして、すぐさま赤くなり、吠え声をあげて突進してくる。
その動きからの、突きがきた。
速い。半身をひいて避けようとしたが、一拍遅かった。
右の二の腕に、焼けるような痛みが走る。俺は叫びをあげた。
だが、突っ込んできたクリスから目を離さない。剣を突き出したクリスは、今俺の目の前で右腕を伸ばしている。
その右手に、思い切り膝蹴りを叩き込んだ。
今度はクリスが低い声で唸った。そして、握られていた右手が緩み、剣がそこから滑り落ちる。
あたりが、やけに静かになった。立会人の騎士団長の声だけが聞こえる。
「あ、えー、今のは、クリスの突きが道化を斬ったほうが早かったな。ということで――」
と、そこで
「こんのおおぉぉっ!」
来た。クリスが俺に飛びかかった。その勢いのまま、俺とクリスは更地に倒れ込む。
騎士様は握りこぶしを作って殴りかかってきた。
「貴様っ、このっ、道化がっ! よくも、よくもっ!」
そして、ここまでされて冷静でいられる俺でもない。
「なにがだっ! こいつっ! わけわかんねぇことをっ!」
俺もクリスの胸ぐらをつかんで拳を叩き込む。
「ぐふっ! こいつっ、殴ったな!? このっ、ふざけた道化の分際でっ!」
「道化がっ、なんだってんだ! バカ、バーカ! がへっ! くそっ、おらっ!」
「んぐっ、二度もっ! 貴様などがっ、殿下のお側にはっ!」
「ぶへっ!」
「ぐほっ!」
「がはっ!」
そうして、俺とクリスの決闘は、取っ組み合いの喧嘩に変わったわけで、周りの野次馬もそれはそれは大盛りあがりになり、騎士団長は首を振ってどこかに引っ込んでしまった。
そして、
「いい加減になさいふたりともぉっ!」
とうとう、カミナリが落ちた。
俺も、クリスも、ついでに野次馬たちも、声のした方を見る。姫様だ。なぜかベラ師匠に掲げられた姫様が、これでもかと目をいからせている。というか、姫様が見ていたのか。これは、よくない。非常によろしくない。
案の定、師匠に下ろされた姫様はつかつかと更地の中に入り、取っ組み合ったまま動けずにいる俺たち二人の前で仁王立ちした。
「クリス! 百歩譲ってあなたの行った決闘については目をつぶるとします。しかし! それが終わったあとにこんなくだらない喧嘩を続けるとは何事ですか! あなたも一介の騎士でしょう! その身分で、子供のような喧嘩に身を投じるなど、ブルーフォード家の恥だと知りなさい!」
「で、でんか……」
クリスは、やっぱりずぶ濡れの捨て犬みたいにしょげてしまった。俺は「姫様に叱られてやんのバーカ」という意味を込めて舌を出してやる。すると、
「ラルフ! あなたもです! つまらない喧嘩をいちいち買うのではありません! そもそも貴族で騎士であるクリスに馬鹿げた理由で拳を振るうなど、この上ない無礼です! 主人である私にまで泥を塗るつもりですか!」
「は、はい……ごめんなさい……」
もう、それしかいえない。あたりの野次馬がどかっと笑う。
すると、姫様はそれにも喝を入れた。
「あなた方もです! こんなものを見ている暇があったら、さっさと帰るなり持ち場に戻るなりなさい! もう解散です! いいですね!」
最後に張り上げられた姫様の声に、野次馬たちは揃って意気を落として、とぼとぼと散っていく。あとに残されたのは、姫様と俺たちバカ二人、それに不気味なくらいニッコニコのベラ師匠だけになった。
こほん、と咳払いをして、姫様は小さくなっているクリスと俺に目を落とす。
「あなた達には、傷の手当が必要です。二人とも速やかに医務室へ行くように。それと、クリス。あなたには一つ話がありますから、手当を受けたら私の部屋まで来てください」
そう言うと、またこつこつ足音を立てて城内に戻って行ってしまった。いつの間にかベラ師匠もいなくなっている。取り残された俺たちは、どちらからともなく掴み合っていた手を解いて、揃って重い足取りで医務室を目指した。
***
クリス・ブルーフォードは、アグレル王国王女マグノリアに、騎士として絶対の忠誠を誓っている。
だからこそ、今は足が重かった。不本意ながら道化と揃って医務室に向かい、掴み合いでできた傷の手当を受けているうちに、あんなに燃え盛っていたはずの頭はすっかり冷めていた。
また、やってしまった。「ブルーフォードのイノシシ」などと揶揄される自分の気性。しばらくは抑えられたと思っていたが、まさかこんな形でさらしてしまうとは。それも、敬愛すべきマグノリアの前で、ああもみっともない姿になってしまった。
普段なら軽いはずのマグノリアの部屋への足取りが、こんなに重くなるのは初めてだった。ブルーフォード家の恥。イノシシ騎士。今までのそんな呼び名を思い返すごとに、石レンガの床に体が沈んでいくようにすら感じる。
そして、そんな足取りでも進みはしているわけで、気づけばマグノリアの部屋の前にいた。重厚な木の扉を、ゆっくりと叩く。
「殿下、クリス・ブルーフォードでございます」
「お入りなさい」
鈴の音のような声に礼をして、扉を開ける。
草木のような飾り付けの散りばめられた、豪奢な部屋。その奥、机の前の椅子に、マグノリアは腰掛けていた。深い色の瞳と目を合わせると、また一礼して部屋の中に入る。マグノリアが手で示したのに従い、彼女と向かい合う椅子に腰を下ろした。
「傷の具合は、いかがですか?」
腰を下ろして間髪入れず、マグノリアはそう問うた。
「いえ、大したものではありませんでした。お心遣い、感謝いたします。それよりも、殿下」
喉につかえていたものを、クリスは自分から出すことにした。再三、頭を下げる。
「先程は、その、大変お見苦しいものを、失礼いたしました」
「そのことについては、中庭でお話したとおりです」
マグノリアの言葉が、染みる。だが、
「ここに呼び出したのは、謁見の間であなたが話してくれたことについてです」
思いがけない言葉に、クリスは顔を上げた。マグノリアは、それを見て軽く微笑む。
「あなたが私をどれほど案じていたのか、私も顧みました。それに、ゴードンにも言われたのです。私がラルフを気にかけすぎていることについて」
「団長殿が……?」
「ええ」
姫君は、一旦目を伏せてから唇を動かす。
「ラルフをアグレルの民の一人として見ることについては、やはり私は疑問を持てません。もしそうしなければ、私の信条である『民と向き合う』ことが、崩れてしまう。これからも私が自分であるために、これを曲げることはできません」
「殿下……」
「ですが、それを理由に視野が狭くなっていたことも、否めないと今は考えています。クリス、やはりあなたの指摘にも理はあった。そのことについて、改めて謝辞を述べたいと思ったのです」
「も、もったいないお言葉です! 殿下、それでは、その……」
その先の言葉が、重たくて喉につまる。だが、今のクリスにはそれを押し出すことができた。
「私は、このまま、殿下にお仕えして良いのでしょうか?」
これほど苦労してだした言葉に、しかしマグノリアは軽く笑った。
「もちろんです。これからも、気になることは教えて下さい。私も、もっとあなたの声を聞くよう努めます」
「ありがとうございます!」
この呼び出しは、それで終わった。来たときとは比べ物にならないほど、クリスの足取りは軽くなっていた。
***
「いてっ! っつつ……」
「ラルフ、流石にそれは、縫い物が下手すぎるんじゃないのか?」
日もとっぷり暮れた夜の道化部屋で、俺は自分の道化服と格闘していた。針と糸で、クリスとの決闘で破れたところをなんとか直そうとしていたわけだ。しかし、指先に刺し傷が増えるばかりでなかなかうまく進まない。
ベラ師匠は、頭を振って俺に追い打ちをかける。
「言っておくが、それくらいは自分で直せよ。道化服なんてちょくちょく破れるんだから、縫い物にも慣れておけ」
「そ、そんなこと言ったって……」
今は、どうにか胸周りの大きな破れをつなぎ合わせたところだ。あとは、右腕の破れも直す必要がある。
ところが、そこに戸を叩く音が割り込んできた。師匠が腰を上げてそれに対応してくれるが、外にいたアニーが高い声を上げる。
「あ、いたいた! ラルフさん、姫様がお呼びです。できるだけ早く来るようにって」
「げぇっ、今かよ! ちょ、ちょっと取り込んでて……」
そんな言い訳に、師匠は首を振った。
「胸元の破れがなんとかなってるなら十分だ。先に姫様のところに行け」
「は、はぁーい」
そんなわけで、急いで着替えることになった。
着替えの途中、師匠が声をかけてくる。
「おい、ラルフ。さっきの喧嘩なんだがな」
「え、あれがどうかしたのか?」
「お前、わざとガキの喧嘩になるようにしただろう?」
そう言われて、一瞬着替えが止まる。
けれど、すぐに気を取り直して、返事しながら腕を動かす。
「師匠には、バレてたのか」
「あのイノシシ騎士なら、剣がなくなればゲンコツを飛ばしてくることくらい、見ればわかる。それに道化のお前も応じれば、騎士の決闘がガキの喧嘩に早変わりだ。そうすれば、ひとまず斬り捨てられる危険はなくなるからな」
師匠がそう言い終えたとき、なんとか俺も道化服に着替えられた。ふう、と一息ついて、師匠に言ってみる。
「道化としては、あれが正解かなって思って」
「お前、やっぱりバカだろう?」
「へへっ、師匠、それって道化には褒め言葉だろ?」
「バカを言ってないで、さっさと行って来い」
「はいよっ!」
師匠に見送られて、俺は軽やかに道化部屋をあとにした。
そして、姫様の部屋でいつものように向き合って座っている。姫様は、あの形相が嘘だったみたいにいつもの無表情に戻っていた。
「ラルフ、傷の具合はどうですか?」
「ああ、全然平気だよ。ありがとう」
本当は最後に一撃食らった右腕がまだちょっと痛むけど、やせ我慢だ。姫様は、そうですか、と静かに応えた。
「いくつか話すことがあります。まず、クリスですが、先程会って話をしました」
「あー、それについてはさ、姫様」
俺は頬を掻きながら、口を挟んだ。
「あいつ、俺と一緒になってバカやっちゃったけど、姫様のことを心配してたのは確かだと思うんだよ。だから、あんまり叱らないでやって欲しい」
すると、姫様は目を軽く細める。
「ご安心なさい。なにも、呼び出してまで叱ったわけではありません。クリスには、私を案じたことについて謝辞をいれました」
「しゃじ? えっと……」
「心配してくれた礼を言ったのです。彼は、これからも私の近衛騎士として務めてもらいます」
「あ、そうなのか。ならよかった」
姫様の言葉に、胸を撫でおろした。決闘だと騒ぎ出す前の、あのクリスの表情を思うと、ただ叱るだけでは申し訳ない気がしていたから。
「クリスには、謝辞だけしたのではありません。彼が提言したように、私は時間の使い方を見直すこととしました。具体的には、あなたとの文字の学習を、少し減らすつもりです」
「うん、それについては問題ないよ」
というか、そうしてもらえるとありがたい。勉強の時間は頭を使って疲れてしまうのだ。
しかし、と姫様はつないだ。
「それであなたの学習が疎かになってしまっては問題です。そこで、あなたに渡すものがあります」
そこで、姫様は机の上に置いてあった一冊の本を手にとって、俺の前に差し出す。それを受け取ってみるが、もちろん俺には表紙の題名も読めない。
「姫様、これって?」
「星座物語の本です」
「えっ」
言葉をなくしている俺に、姫様はちょっとだけ自慢げな笑いを浮かべた。
「あなた、子供の頃星座物語が好きだったと言ったでしょう? それで、その本があれば学習意欲が湧くかと思い、図書室で借りてきたのです」
「え、でも、いいのかよ本なんて? 高いもんだろ?」
「言っておきますが、それは借り本ですよ。読み終えたら返す必要があります。いいですね」
そう言われて、俺は本をぱらぱらめくってみる。ああ、挿絵でわかる。俺の好きな英雄の話も、他に聞き覚えのある話も、しっかり収録されているようだ。
もう一度表紙を眺める。今はまだわからないその文字が、逆に応援してくれているような気がする。
「ありがとう、姫様。俺、やっぱり勉強も頑張るよ」
「ラルフ、その言い方だと、元々頑張るつもりがなかったのがわかりますよ」
「ああ、いや、そうじゃなくてさ、ええと」
しどろもどろになる俺を見て、姫様はふふふ、と笑った。
「あ!」
「おや、どうしました?」
「いや、なんでもないよ。へへ、なんでもない!」
またすぐいつもの顔に戻ってしまったけれど、今の顔が見られたのは、今日一番の収穫だった。本と一緒に姫様の笑い顔にも思いを馳せながら、俺は道化部屋へと戻っていった。
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