005
クリス・ブルーフォードは、アグレル王国王女マグノリアに、騎士として絶対の忠誠を誓っている。
二十歳のクリスより五歳も若いマグノリアは、その顔にあどけなささえ残す少女である。しかし、その幼さにも関わらず、マグノリアは女王としての器を持っている。役人たちが束になっても及ばないほどの知性、感情に流されない冷静な判断力、しかして国民への配慮を忘れない慈愛、更には見目麗しい容姿。その全てを兼ね備えたマグノリアは、誰もが認める次期統治者なのである。
クリスは、マグノリアに初めてひざまずいたそのときに、彼女のその器に圧倒された。そして、この方こそが自分が剣を捧げるべき主君なのだ、と確信した。
クリス自身、己がマグノリアの従者としてふさわしいとはまだ思えていない。名門ブルーフォード家の次男に生まれ、家督は兄に譲り、もっと知恵をつけろと周囲に常々叱咤されている身である。
しかし、だからこそ、マグノリアにこの身を捧げることこそ最大の名誉だと信じて疑わない。幼少の頃から磨きあげてきたこの剣技で、王女を一切の危険から守り抜く。彼女のために生き、そしていつか彼女のために散る。それこそが、自分にできる最大の奉公なのだ、と。
だが、その誓いに泥を塗る者が現れた。
あの、オオカミ頭の道化。急に現れたあれが、マグノリアの時間を明らかに奪っている。最近など、夕食後の時間にまであれに会いに行っている。二人揃って何をしているのかはわからないが、どうやら図書室にこもっていることだけは確かである。しかも、そこに行く上でマグノリアは近衛兵であるクリスの同伴を断ってすらいる。
けだものの頭をしたあの道化が、マグノリアの何かを狂わせている。だとすれば、彼女に剣を捧げるクリスがすべきことは、明白だ。
あれから、気高き姫を守らねば。改めてそう胸に刻んだクリスの目は、タカよりも鋭く尖り、炎よりも熱く燃えるのだった。
次第によっては、この剣に物を言わせることも辞さない。
***
「いよっ! とと……」
目の前の空間に、意識を集中させる。四つの玉が、どう飛び交うか。そして、どうつかみどう投げるか。リズムをつかんで、指先の動きをそれに乗せて。
そして、俺の前で四つの玉が踊りだす。
が、
「ふむ、よし」
意識外から飛んできた五つ目が、リズムを狂わせる。
「あ! あ、ああああ……」
たちまち玉は床にぼてぼて落ちていった。俺はそれをまとめながら、はあ、と息を吐く。
「入れてくるなら先に言ってくれよ、師匠。急に増やされたら対応できっこないって」
「途中で玉を増やすのはお手玉の技の定番だぞ。その内これもできてくれないと困る」
ベラ師匠は、俺の不満をものともせずそう言った。
昼過ぎの道化部屋で、俺と師匠は部屋着のまま向き合っていた。今俺は四個のお手玉を師匠に見てもらっている。練習の甲斐あって、四つの玉を投げ続けることには大分慣れてきた。その成果を見てもらおうと思ったのだけれど、師匠としては更に先の技を期待しているらしい。
「最初よりも様になってきたのは確かだがな、人前で見せるにはもう一歩だ。これからも練習を続けること」
「はぁーい」
生返事とともに俺は床に腰を下ろし、ついでに額を拭った。今日は少しばかり暑いのか、練習をしていると汗が滲んでくる。道化服を着込みたくない日だ。
「そう気を落とすこともないぞ。四個でうまくいったら、そこから先はいくらかの調整を効かせていけばいいだけだ。近いうちに、姫様にでも見せてやるといい」
「おっ、そうなのか?」
そう言われると、さっきまで気になっていた暑さも吹っ飛んでしまう。
「なあ師匠、俺、ちょっとは立派な道化になってきたかな? お手玉にも慣れたし!」
俺がそう言うと、師匠は苦い顔をした。
「人前で見せるにはあと一歩だと言っただろ? それにな、ラルフ。立派な道化になんて、なろうとしてなるもんじゃない」
「へ?」
言葉の意味がわからなくて、気の抜けた声が漏れる。俺が首を傾げてみせると、師匠は頭を振った。
「道化に立派もなにもない、ってことだ。まあ、その『立派な道化』ってやつを目指してみれば、お前にもそのうち分かるだろう」
「んー……?」
ますます首を傾けた、そのとき。
どんどんと、道化部屋の扉が強く叩かれる。俺は耳を立てたが、師匠が手で静止してくる。
「はいはい、そんなに叩かなくても、すぐ出るよ!」
道化服は着ないまま、師匠は声だけ変えて、扉を開く。
そこにいたのは、甲冑に身を包んだ一人の騎士だった。ただし兜は脱いでいて、短い髪のあんちゃんの顔が見える。そのあんちゃん騎士は、ぎろっと鋭い目で俺の方を見る。
「オオカミの道化、殿下がお呼びだ。今すぐ来い」
「うおっ、お呼びがかかったか」
「姫様がお呼びなら、あたしは関係ないね。ラルフ、行っておいで」
師匠はそう言うとゆうゆうと道化部屋の奥に戻る。俺は大急ぎで道化服を着ると、部屋から飛び出した。使いの騎士はふいっと俺から視線を外すと、何も言わずに歩きだす。
「おっと、待ってくれよ!」
「うるさい、黙って来い」
いやにつっけんどんな態度だ。とは言え、道化相手ではこれが普通なのかもしれない。そう思い直して、言われたとおり口をふさいでついていく。
しかし、いくらか進んだ通路の途中で、騎士は足を止めこっちに振り返った。その目は相変わらず鋭く、俺はちょっと身を引いてしまった。
あんちゃん騎士は、低い声を出す。
「殿下に通す前に、貴様に聞きたいことがある」
「な、何だよ急に」
「貴様、なにを企んでいる?」
「……は?」
企んでいる? さっぱりわけがわからない。
「何の話だよ? 俺が何を企むっていうんだ?」
「とぼけるな。ここのところ、貴様が殿下にべたべたついて回っていることはわかっている」
そう言われて、思い出した。こいつは、姫様の周りでよく見る近衛騎士だ。それなら確かに、俺が姫様のところにちょくちょく顔を出している事も知っているだろう。
でも、この騎士が言っていることを聞くと、俺のほうが姫様にくっついているみたいじゃないか。俺は呼ばれて顔を出しているのに。
「勘違いだよ。俺は道化なんだから、呼ばれずに姫様のところに行くことなんかない。ほら、今だってそうだろ?」
「ふん」
俺は思ったとおりに返事したけれど、近衛騎士は余計に目を鋭くする。
「言いたくないなら、この場ではここまでにしてやる。だが、これ以上貴様の用で殿下のお時間を取るようなことは許さん」
「……えっと、つまりどういうこと?」
「これから貴様を殿下の元へ連れて行く。そこで、貴様の口から殿下に、あまり関わらないようお伝えしろ」
「は? え、なんで俺が?」
ますます混乱してきた。頭を捻っていると、近衛騎士は鼻で笑った。なんなんだこいつ。
「貴様自身がそう伝えたなら、改心に免じて今回は見逃してやる、ということだ。それができないと言うのなら、後で俺から殿下に進言する。それでも貴様が殿下にまとわりつくなら、斬り捨てるまでだ」
「え、えぇ……?」
要するに、この人は姫様と俺が関わり合わないようにしたい、ということらしい。しかし、斬り捨てるって、そこまで言われるような悪いことをした憶えなんて、俺にはまったくない。
けれど、このまま俺の方から突っかかっても、きっと騒ぎになるだけだ。ひょっとしたら、道化なんかが騎士様に歯向かうこと自体、城の中でひんしゅくを買うかもしれない。
だから、近衛騎士の言葉にひとまず頷くほかなかった。
「わかった。姫様に一応言ってみるよ。でも、姫様がどんな反応するかはわかんないからな?」
「それでいい。殿下ならば、それで十分貴様との関係について考え直されることだろう」
近衛騎士は言いながら頷くと、通路をまた歩き出す。俺はため息をついて冷や汗を拭った。
騎士に連れられてきたのは、謁見の間だった。赤い幕で壁を覆い隠した部屋の中央の、高い背もたれのついた豪華な椅子。姫様はそこに腰掛け、肘掛けにもたれていた。騎士と俺が近づくと、顔を上げる。いつもの無表情よりも、目がとろんとしていた。
「クリス、ありがとうございます。持ち場に戻ってください」
「承知いたしました」
姫様の一言で、クリスと呼ばれた近衛騎士は一礼をして数歩離れたところに立った。けれど、その未だ鋭い視線は姫様、いや俺に向かって来ている。
それに気付かないふりをして、俺は姫様に歩み寄った。
「姫様、なにかあったのか? なんだかすごく疲れてるみたいだぞ」
「ラルフ」
言うが早いか、姫様は俺の頬に手を伸ばしてきた。
「えっ、ちょっ、姫様!?」
「少しだけ、撫でさせてください。謁見で骨の折れる話を受け、少々疲れました」
「あー、な、なるほどな?」
言ったとおり、姫様は俺の毛並みを両手でわしわしと撫で回す。ああ、年の割にしっかりした人ではあるけど、やっぱりまだ子供なんだよな。なんだかこっちが撫でてやりたい気になる。
けど、今はそれ以上に気になるものがある。姫様に撫でられながら、近衛兵のクリスの方にちらっと視線をやってみた。
うわあ、思ったとおりだった。こっちを凄まじい迫力で睨みつけてきている。歯を噛み締めて、それこそ獣のように襲いかかってきそうだ。さっき拭った冷や汗がまた頬を伝うのを感じた。
「な、なあ姫様、ちょっと話があって」
「いえ」
俺が言いかけると、姫様は手を引っ込めてふうと一息ついた。
「ラルフ、ありがとうございまいました。これでしばらくは大丈夫です。私は謁見の続きをしなければなりません。あなたは、壁際で幕の裏に控えていなさい。必要になったらまた呼びますので」
「あ〜、そ、そっか〜。わ、わかりました〜」
真顔に戻った姫様に軽く礼をして、そそくさと壁際に避難する。クリスの方をまた見ると、俺と目があった瞬間にあいつはちっと舌打ちをした。姫様に話を切り出せなかったのを責めているんだろう。とにかく今は、クリスの視線から逃げる。
俺が幕の裏に隠れると、いくらか間を置いてから、謁見は再開したようだ。聞き慣れない声と姫様の声のやり取りが始まる。
あるやり取りは、
「ああ、王女殿下! ご機嫌麗しゅうございます。私は城下町の金貸しでございます。借金の返済について借り主と衝突しており、ぜひとも殿下のお知恵をお借りしたく存じます」
「わかりました。詳しい説明をお願いします」
「ありがとうございます! そもそもは昨年の――」
また、あるやり取りは、
「姫様! オレは田舎の百姓なんですが、聞いてくだせぇ! 領主様からの税の取り立てが、厳しくってかなわないんでさぁ!」
「ふむ、わかりました。まず、村の名前から教えて下さい」
「おお、ありがてぇ! オレはアストベルの村に住んでんだが――」
さらに、あるやり取りといったら、
「姫様、お会いできて光栄です。近頃、私の妻が出産を控えています。そこで、生まれてくる子の名前に付きまして、ご意見いただきたいのですが」
「そうですか、おめでとうございます。候補はもうあるのですか?」
「ええ。しかし、私と姑とで意見が合わなくなってしまい――」
とまあ、金の絡んだ難しそうな問題から、そんなの近所で井戸端会議でもして決めろと言いたくなるような相談まで、ありとあらゆる話が寄せられていた。それを、姫様は一人でさばき続けていた。
尋常でないのは、その数もだ。後から後からひっきりなしに相談者が現れる。一人の相談を片付けたら、姫様はろくに休む時間もなしに、次の相談者と話し始める。それを何度繰り返したのか、俺は途中から数えるのを諦めてしまった。
そして、ずっと薄暗いところにただ突っ立っていて、うつらうつらしだしたとき、
「ラルフ、もう大丈夫です。出てきなさい」
姫様に呼ばれて、俺は幕をめくった。
いつの間にか、あたりには夕日が差している。その中で、姫様は例の椅子に腰掛けたまま俺を待っていた。そこに小走りして近寄る。
「姫様、もう終わったんだよな?」
「ええ。今日の謁見は終了です」
「殿下、お役目お疲れ様でございました」
クリスも寄ってきて、姫様にうやうやしく頭を下げた。それを見て姫様は薄く微笑む。
「クリス、あなたもご苦労さまでした」
「もったいないお言葉です。私は殿下のお側におりましただけですので」
「そうだよな。姫様、いちいち騎士様を突っ立たせなくてもよかったんじゃないか?」
その言葉に、クリスがまたきぃっと牙を向いてくる。
「道化、貴様は黙っていろ!」
「落ち着いてくださいクリス。ラルフ、これは備えなのです。謁見する者の中に、良からぬことを企む者がいても、アグレルで指折りの剣士であるクリスがいれば対処可能ですから」
姫様の説明に、俺は息を呑んだ。この国で指折りの剣士。俺は、そんなやつに斬り捨てるなんて言われたのか。
いや、今はそのことは忘れよう。俺はもっと気になっていることがある。
「姫様、疲れてないか? すごい人の数だっただろ?」
「私なら問題ありません。あなたを呼んで一息入れたのが正解だったようです」
「殿下、そのことにつきまして、失礼ながらお話がございます」
来た。クリスがますます頭を低くして姫様に話しかけた。一方の姫様は、きょとんとしている。
「ラルフを呼んだことについて、ですか?」
「左様にございます。このところ、殿下はその道化めに多くのお時間を割かれているご様子。しかし、道化などに殿下のお時間をくれてやるなど、由々しきことかと存じます。今後は、その者などにお気を使われず、殿下ご自身のお休みにあてられるとよろしいかと」
頭を下げたまま、クリスは小難しそうなことをずらずらと言う。それを聞いて姫様は、ふむ、と息をついた。
「クリス、あなたが私のことを案じてくれるのはありがたいことです。確かに、今日の謁見では疲れが出てしまいました。私は、時間の使い方を考えるべきなようです」
「それでは、」
「ただし」
顔を上げたクリスに、姫様は目を合わせる。あの、深い色の瞳がクリスを捉えている。
「ラルフの手助けをすることも、私の責務の一つなのです。この者を道化としたのは私なのですから。この国の民の一人を道化に貶めたことの責任を、私は果たさねばなりません」
「殿下! しかしそれでは――」
「安心してください。あなたが言ったように、休みの時間を増やし無理のないよう努めます。今日はもう、夕食をとって休むこととしましょう」
そう言うと、姫様は謁見の椅子から立ち上がった。本当に、今日はもう部屋に戻るみたいだ。
クリスの方はと言うと、ひどい顔をしていた。俺が言うのもなんなのだけれど、土砂降りの雨の中おいていかれた犬みたいな目だ。
こいつの言っていたことはいちいち難しくてあまり理解できていないけれど、姫様のことを心配していたことだけはわかる。そのために俺を引き剥がす、ていうのはもちろん納得いかない。でも、あくまでこいつは姫様のことを考えていただけだったんじゃないか。そう思うと、こんな目をさせていることには胸が痛む。
立ち上がった姫様に、クリスは慌てて言った。
「お待ち下さい! お部屋までお送りします」
このときもひどい顔のままだったから、俺はつい、
「いや、俺が送っていくよ。お前も疲れただろうし、休んだほうがいいって」
そう言って、姫様について行こうとしてしまった。
その途端、
「道化、貴様っ!」
低い唸り声とともに、俺は腕を引っ張られた。
「うわっ!」
「クリス? どうしたのですか!?」
腕を引っ張ったのは、クリスだった。その顔は、さっきまでとはまるで違う。それこそ威嚇するオオカミのように鼻頭にしわを寄せ、つり上がった目がぎらぎら光っている。そして、噛み付くような動きの口で、クリスは吠えた。
「失礼ながら、殿下! こやつのしつけまでは手が回られていないご様子! ならば、私がこれからこの無礼者に、しっかりと礼儀というものを叩き込んでご覧に入れましょう!」
言い切ると、イノシシの突進みたいな勢いで、俺の手を引いて走り出す。
「ちょ、ちょっと待てよ! どこ行くんだ、っていうか、いてててて!」
「口を閉じろ道化! 目にもの見せてやる!」
階段を降り、いくつかの通路を通り抜けて、急に外に出た。ここは、城の中庭だ。その一角、兵士の訓練用の更地に、俺の体は叩きつけられる。
起き上がるより前に、クリスの叫びが夕闇の中庭に轟いた。
「さあ、決闘だ! 貴様などが殿下のお側にいるべきでないことを、今ここで証明してやる!」
***
クリス・ブルーフォードは、アグレル王国王女マグノリアに、騎士として絶対の忠誠を誓っている。
日々鍛錬した肉体も、磨き続けてきた剣技も、城で恥をかかない立ちふるまいも、全てはマグノリアのためのものだ。だからこそ、自らに誇りを持ってこの王城に立っていられる。
それをこうも汚されて、我慢などできるはずがなかった。
「休んだほうがいい」だと? 道化などに心配されるような軟弱な肉体ではない。「俺が送っていく」? 道化などに取って代わられるような薄い忠義では、断じてない!
そう考えたときには、やつの腕を掴んでいた。そして、やるべきことが頭の中に燦然と輝やいていた。
決闘だ。騎士道の真髄たる戦いで、この無礼者を裁いてやる。自分が、マグノリアが間違ってなどいないことの証立てだ。磨き上げた剣技で、今こそ自分たちの正義を示すのだ。
中庭の更地に道化を放り投げたクリスの目には、その道化など訓練用のデク人形にしか見えなかった。こんなものを斬ることは容易い。そして、斬らねば己の沽券に関わる。ならば、立場いやしい道化であろうとも、この剣の錆にしてやろう。
次第によっては、刺し違えることも、殺すこともいとわない。