004
「なるほど、つまり父上の呼び出しはうまく切り抜けた、と」
「うん。師匠も成功だとは言ってた」
時間は夕方。俺は師匠に言われたとおり姫様の部屋に来て、この前と同じように椅子に腰掛けて姫様と話をしていた。姫様はまず王様の前でやった芸について聞いてきたから、俺はそれを説明し終えたところだ。
ただ、説明を聞いていた姫様は、なんだか不機嫌そうに見える。一見はいつもの無表情だが、ちょっと眉がいかっているような気がする。
「えっと、姫様? 俺なんか変なこと言ったか?」
「いえ、そういうことではないです」
そう応えた、ってことは、姫様自身自覚があるみたいだ。まったく、と言って姫様は俺から少し視線をずらす。
「父上は、為政者としては優れているのですが、たまに意地の悪いことをするのです。私より先にラルフを呼び出すなんて……」
ああ、なるほど。俺は姫様の道化だから、先に呼び出したかったってわけか。普段はあまり表情が読めない姫様だけど、そういうことでちょっとむくれるなんて、やっぱり可愛いところがあるもんだ。
俺の視線に気づいた姫様は、軽く咳払いする。
「その件については、良しとしましょう。ただし、今聞いた限りでは、まだあなた自身が芸をやってみせたわけではない、ということですね?」
「うん、そうなんだよ。お手玉はまだ三個が限界だしなぁ」
「ほかには、なにかベラから習っていないのですか?」
ほかに習っているもの、というと、柔軟体操くらいだ。床に腰を下ろして、全身全霊で前屈をしてみるが、
「んぐっ……ふっ……!」
「……これなら、私のほうがまだ曲がりますね」
案の定、姫様には首を横に振られてしまった。椅子に座り直す俺に、姫様は語りかける。
「ベラも言っていたようですが、芸の幅を広くすることは大切です。どんな芸でも、同じものを何度も繰り返せば、見ている方は飽きてしまうものですから」
「だよなぁ。どうしたもんか」
俺は腕を組んでため息を吐いた。そんな簡単に芸が身につくものではないとは思うものの、できれば今の内からできることを増やしていきたい。
そうして俺が考え込んでいると、姫様が小さく口を開けた。
「ラルフ、私から一つ、提案があります。聞いてくれますか?」
「おっ、聞く聞く! 何すればいいんだ?」
姫様からの提案、一体何だろう? 思わず身を乗り出した。
姫様は、珍しく口ごもると、一層小さな声でこう言った。
「……撫でてみても、良いですか?」
「……へっ?」
呆然。撫でるって、あれか? 頭をわしわしするやつか?
ちょっと顔を赤くした姫様は、ぷいと顔を振る。
「いえ、いいのです。オオカミとしての長所を考えると悪くないかと思いましたが、あなたが嫌ならば断って構いません」
「あ、いやそうじゃなくて、思いもよらなかったからさ。別に撫でてもいいよ」
それを聞いた途端、姫様は凄まじい速さで俺に向き直る。
「良いのですね? 撫でても」
「あ、うん……いいけど……」
姫様は背が低いから、俺は椅子から降りて屈んでみた。すると、
「では」
姫様の手が、やたらこわばった動きで俺の頬に伸びる。なんだか俺まで緊張してきた。
白い手袋をはめた小さな手が、俺の頬に触れる。そのまま、毛の流れに沿って指先が頬の輪郭をゆっくりと撫でた。
「これは……」
姫様は声を漏らしながら、手を何度か同じように動かす。俺はその間、余計な動きをせずじっとしていた。
ただ、何度も撫でられていると、姫様の様子が流石に気になってくる。なんというか、真剣そのものの顔で俺を撫でる姫様に、尋常ならざるものを感じる。
「えっと、姫様……どんな感じ?」
「ええ――」
返事の後、姫様は少し間をおいて、
「思ったよりも毛並みが硬いですね」
「あ、そーですか……」
まずい。答えに困る。いや、この状況だと姫様に何を言われても困りそうだけれど。
「毛をもっと柔らかくするには、どうすれば良いか……石鹸を、もっと質の良いものに変えるべきかもしれません」
「ええ……わざわざそこまでするのか……?」
「まあ、今の硬さならまだ心地よい範疇です。良しとしましょう」
そう言うと、姫様は手を引っ込めた。俺も椅子に座り直す。なんだったんだ今の?
姫様はといえば、何事もなかったかのように例の無表情に戻った。
「提案はまだあります。ラルフ、あなたは字の読み書きはできますか?」
「いや、今は全然できないや」
俺の返事が予想通りだったのか、姫様はこくこくと頷いた。
「読み書きを身につけることは、大きな進歩になります。道化でも、ふとした発想を書き留めることで技を磨けますし、歌や物語を書き記して皆に披露することもできます。今やっている訓練のほかに、字を習う時間を設けなさい」
「字を習う、か……でも、師匠にも相談しなくちゃな」
「ベラから断られたなら、私が教えましょう」
「えっ?」
この提案でも、俺はびっくりすることになった。
「いいのか? そこまでしてもらっちゃって」
「ラルフ、これは大事なことです。道化としてもそうですが、なによりあなたが元の姿に戻ったときのために。もし元に戻れたら、道化を続けるかどうかわからないでしょう? そのときに字を読み書きできれば、できる仕事が豊富になるのです」
「ははぁ、なるほど」
俺は頷きかける。が、疑問はそれだけじゃない。
「でも、姫様に時間もらっちゃっていいのか? ていうか、そういえば姫様って、普段はどんなことやってるんだ?」
「仕事としては、公務の補助といったところです。租税の量を計算したり、謁見で国民からの相談を受けたりしています」
「……つまり、なんか普段も忙しいんだよな? やっぱり時間割いてもらっちゃうのは、悪いような」
だが、姫様は顔色一つ変えずに、さらりと返事した。
「心遣いはありがたいですが、問題ありません。公務の間に休憩の時間はありますし、そもそも夕方にはその日の仕事を終えています。夕食の後ならば時間は十分にありますから、そのときあなたに字を教えられるわけです。良ければ、明日の夕方にでも始めますか?」
「うん、姫様が大丈夫なら」
俺は、頭を下げた。
「お願いしようかな。ありがとう」
顔を上げると、やっぱり姫様はほとんど無表情で、でも心なしか機嫌良さそうにこう言った。
「前にも言いましたが、道化の主人として当然のことをしているだけです。気にしないように」
道化部屋に戻った俺は、ベラ師匠に早速読み書き学習のことを相談した。その返事は、
「ああ、行ってくるといい。姫様直々に教えてもらえるなんて、いい機会じゃないか。あの子は年の割に賢いから、よく教えてくれるだろう」
思いの外色好い返事だった。
「ただし、ほかの練習も忘れずにな」
師匠の言葉に従って、一夜明けてから俺はみっちりと柔軟体操とお手玉の練習をした。そして、日が沈みだした頃に道化部屋を後にした。
姫様と待ち合わせているのは、城の中の図書室だ。場所は師匠に聞いていたから、迷わずに進める。
問題は、図書室前の通路に着いてからだった。先に進もうとすると、背の高い女の人に呼び止められる。
「あ、あなたは道化ですね? 図書室に一体何の用ですか?」
「え? 姫様と、字の勉強をする約束があって」
「殿下と?」
女の人は、眉をひそめた。俺の姿(というか、オオカミ頭)にちょっと怯えているようにも見えたけれど、はっきりとした声で俺を止める。
「見たところ、その殿下と一緒ではありませんね。本当にそのために?」
「そうだよ。嘘なんかじゃないって」
「とにかく、ここは書物を収めて人々がそれを読む場所です。無闇に道化などを通して騒がしくさせるわけにはいきません。殿下がいらっしゃるまで、ここでお待ち下さい」
「そ、そんなぁ」
女の人が、入り口の通路で通せんぼした。きっと、これを無理に押し通ればそれこそ騒ぎになってしまう。俺は言われたとおりに立ち止まらざるを得なかった。
幸いなのは、その後いくらもしないで姫様が来てくれたことだった。
「ラルフ、待たせてしまったようですね。早速中に入りましょう」
「姫様、それがさぁ」
俺が姫様に声をかけると、さっきの女の人が駆け寄ってくる。
「殿下、この道化が殿下と一緒に図書室を使いたいと申しておりますが」
「サラ、この者の言うとおりです。図書室内では騒がないように、私からも話をします。通っても、構いませんか?」
サラと呼ばれた女の人は、一度俺のことを睨んでから「それでしたら」と脇に逸れた。姫様が軽く会釈して通路を進んだから、俺もそれに続く。
俺がすぐ後ろにつくと、姫様は小声で言った。
「サラを、悪く思わないでください。彼女は、司書としての責務を果たそうとしただけですから」
「それはいいんだけどさ、姫様、もしかして道化って、立場がかなり低いのか?」
姫様は、それに答える前に少し間を開けた。頭がちょっとうつむきがちになる。
「はい。お世辞にも高くはありません。道化は、『飼われている』ようなものと考えるのが一般的です」
「ははは、じゃあ俺は姫様の『飼い犬』ってとこか」
「ラルフ」
思わず乾いた笑いを漏らした俺に、姫様はこっちを向かないまま声を出した。
「きっとこれからも、道化という立場はあなたに苦労を強いるでしょう。人として扱われないことすらあるはずです。あなたをそんな立場にした私を、恨みますか?」
「えっ」
姫様について歩いていた足が、止まる。
でも、すぐにその小さな背中の後を追った。
「そんなわけないって。あのとき、姫様がああしてくれなかったら、檻の中でそのまま死んだっておかしくなかっただろ? だったら、どんなことになっても死ぬよりはましだ」
そう言い切ると、うつむきがちだった姫様の頭が、少し上がる。
「そうですか、なら、良いです」
そして、次の言葉はもういつもどおりの姫様に戻っていた。
「さあ、この扉の向こうが図書室です。サラも言っていたとおり、騒いではなりませんよ」
重そうな木の扉を姫様の手が押し、それを俺も手伝うと、
「お、おおおおっ!」
扉の向こうは、驚きの光景だった。
書物をぎっしりと詰めた本棚が、数え切れないほど並んでいる。二階まで吹き抜けになっているが、その二階にも同様に本棚が並んでいた。部屋の中央にはひらけた場所があり、そこに用意されたいくつもの机には、本を読んでいる学者のような人たちがぱらぱらと座っている。
「すっごいな! 本って、高価なんだろ? それを、こんなに!」
「こら、騒いではだめです!」
「あっ、ごめん」
俺が口を閉じたのを確認すると、姫様は再び歩き出す。
「アグレル王国が成立する際、政治や律法、宗教に関し多くの書物が寄贈されたといいます。それを集めたのがこの図書室です。今も、役人や貴族に有用と判断された書物は国で買い取り、ここに収められています」
そう姫様は説明してくれたが、俺は立ち並ぶ本に圧倒されて耳を傾けていられなかった。足を踏み込むごとに濃くなるインクのにおい。本当に、別世界に来たみたいだ。
姫様と俺は、まず本棚の林を練り歩いて、いくつかの本を引き抜いた。それを抱えて、中央に並ぶ机の一つに陣取る。持ってきた本を姫様は机の上に置き、表紙をめくった。そして、一枚の紙とペン、それにインク瓶を俺の前に置く。
「さて、それではいきますよ」
「は、はい!」
そうして、俺と姫様の文字教室が始まった。
それからいくらかした後、俺は机の上にぐったりと伏せていた。
「ひい……ひい……」
「まあ、こんなものなのでしょうね……」
姫様の教え方がいいのか悪いのかはわからない。けれど、とにかく文字の種類が多い。半分も覚えられたかわからないのに、頭が破裂しそうだ。
「仕方ありません、今日はこれくらいにしましょう」
「終わり? 終わりか? ふうぅぅっ!」
「ラルフ、今日練習した文字については、道化部屋に戻ってからも復習しておくのですよ」
「わ、わかってるって。とほほ……」
思いっきり伸びをした俺に、姫様はすかさず言葉を差し込んでくる。城の人たちは、みんなこんな苦労をして文字を身につけたのだろうか。素直に尊敬する。
と、そこで、
「おや、殿下。このような時間まで、いかがされたのですかな?」
そんな声が飛んできた。声のした方を見ると、立派なひげを生やしてがっしりとした体のおじさんが一人。なんだか、変わった香りのする人だ。
その人を見ると、姫様はいつもより高い声をあげた。
「先生! お久しぶりです」
「先生?」
姫様は俺に向き直ると、おじさんに手を添えて紹介してくれる。
「ラルフ、こちらはバトレイク侯爵、グレゴリー・ゲイブリエル殿です。私が勉学していた頃、この方からご指導を受けていました。ご挨拶なさい」
「あ、うん。はじめまして、俺は」
「殿下お付きの道化、ラルフ君、だろう? 知っているよ」
「へっ?」
挨拶を遮って、おじさん、侯爵様は笑った。俺と姫様は二人揃って目をぱちくりさせる。
「昨日の見世物は、楽しませてもらったよ」
「……ああ! 昨日の食事の時の!」
思い出した。何人も並んだ貴族たちの中に、確かにこの人もいた覚えがある。
「なるほど、昨日の会食でラルフのことを見ていたのですね」
「そうですとも。ベラの芸を楽しみにしていたら、思わぬものを見られました」
侯爵様と姫様は、和気あいあいと言葉を交わす。そのほとんどの内容は難しすぎて、俺にはさっぱりわからなかったけれど、姫様がこの人との話を本当に楽しんでいることだけはわかる。何しろ、はっきりと笑った姫様を見たのは、これがはじめてだったんだから。
しかし、
「そういえば、先生もこんな時間まで、ここで何をされていたのですか?」
「はは、魔法研究所の立地に良い場所がないか、探しておりました」
そう侯爵様が返したとき、姫様の顔はすっとくもってしまった。
「そうでしたか」
「なに、殿下がそう困ることではありますまい。私としては、殿下も陛下もご納得下さるよう、精一杯のご提案をさせていただくだけですからな」
ははは、と侯爵様はまた笑って、俺の方を見る。
「そういえば、ラルフ君。君はいったいいつからその姿なのかね?」
「え、いや、それが憶えてなくて」
「憶えていない?」
「先生、ラルフは長い間森で人から姿を隠して生きてきたのです。だから、正確な年数がわからなくなっています」
「ふむ、そういうことか」
そこで、侯爵様は顎を撫でて、
「もしかしたら、ラルフ君のことでも、お力になれるかもしれませんな」
かすかに笑って、そう言い結んだ。
「では、私はこれで失礼しましょう。殿下、またお話いたしましょう」
「はい、先生もごきげんよう」
結局、侯爵様は最後までにこやかなまま、図書室から出ていった。それを見送る姫様は、笑顔ではあったけれど、なにかが引っかかっているようにも見える。
「なあ姫様、どうかしたのか? さっきまで楽しそうに話してたのに」
その問いに、姫様はふむ、となにかを考えてから、
「図書室が閉じるまでもう少しありますし、あなたにもこの国の状況について話をしておきましょう」
「えっ、俺もう文字覚えるので頭使っちゃったんだけど」
「そう言わず、聞いておきなさい。あなたにも無関係のことではありませんから」
そうつなげた。
さて、と話し始めた姫様の第一声は、俺の度肝を抜いた。
「まず第一に、この世界には魔法が実在します」
「はぁ?」
「ラルフ、静かに。このことは、この国でも限られた人間しか知りません。まあ、城の中では知っているもののほうが多いでしょうが」
「魔法って、あれか? 火の玉を飛ばしたり、姿を透明にしたりする、あの魔法か?」
「実際にそういった魔法があるかどうかは知りませんが、あなたの想像するような魔法に近いと思います」
姫様の声は、真剣そのものだった。けれど、にわかにそんなことを信じろとういのは無理な話だ。
「そんな、俺は魔法なんて見たことないぞ?」
「それはそのはずです。このアグレル王国内では、魔法の研究や習得は教会が独占していて、無闇に一般に出してはならないことになっていますから。さらに、教会の内部でも研究に専属する者以外は魔法に触れる機会もないはずです」
その話を聞いて、俺は昔通っていた教会の神父様を思い出した。穏やかで優しい人だったけれど、あの人も魔法を使えたりしたのだろうか。
「ですがここ最近、この教会による独占を終わらせよう、と主張する一派が国内に現れています。彼ら『魔法急進派』の主張は、教会とは無関係の研究施設を建て、一般の国民にも所属可能とするべき、というものです」
「それって、つまり、誰でも魔法を使えるようにする、っていうことか?」
「そうです。それが彼らの最終的な理想のようです」
姫様はいまだ硬い顔のままだ。でもそれは、
「それ、すごいことじゃないのか? 小さい子供でも簡単に火を焚けたり、もっとすごいこともできるようになるんだろ?」
「ええ、そのとおりでしょうね」
俺の感激を聞いて、姫様は目を伏せて頷く。しかし、
「だからこそ、私は『魔法急進派』には反対しています」
「えっ? なんで?」
だからこそ、ってどういうことだろう?
また目を開いた姫様は、一層真剣味を増していた。
「急速に生活の利便性が向上する、ということは、それだけ危険も増えるはずだからです」
「……ええと?」
「ラルフ、例えば、小さな子供が魔法を習得し、火の玉を出せるようになったとしましょう。これは確かに便利なことです」
「そうだな。めちゃくちゃいいことじゃないのか?」
「ですが、想像してみてください。もしその子が、ほかの子供と喧嘩をしたら、どうなるか」
「どうなるって、……え? まさか」
「そう。もしその子供が怒りに任せて相手に火の玉をぶつけたら、相手の子供はそのまま火だるまになるでしょう」
それだけではありません、と姫様は続ける。
「その子供が焚き火をしようとして、誤って周囲の草木に火をつけてしまえば、あたり一面にその火が燃え移り、焼き払われてしまう。いえ、もし誤りでなく、悪意を持ってその力をほかの人間に対してふるったなら、相手には抵抗するすべもないのです」
背筋がぞっとする。言われてみれば、ありえない話ではない。
「そうしたことを防ぐためには、国をあげて取り締まりや規則をしき、人々に道徳を学ばせる必要があります。無闇にふるってよい力ではないことを、理解してもらわねばならない。それには長い時間が必要だと、私は思うのです」
そこまで言って、姫様は一息つく。俺は、なんだか息を止めてしまう。
「ですが、魔法急進派の中には、一刻も早く教会から離れた研究を始めるべきだ、と主張する者もいます。隣国に先を越されてはならない、そうなってしまえば戦争で勝ち目がなくなると」
「……なんか、姫様の話もわかるけど、戦争って聞くと、ちょっと怖くなるな」
「ええ、そうでしょうね」
そう言った姫様の目は、なんだかおばあさんのようにしょぼくれて見えた。
「この議論については、国内でも意見が一致せずにいます。そして、父上や私は急進派に反対する立場ですが、バトレイク侯爵は急進派の筆頭です。つまり、私とバトレイク侯爵は政治的に対立している、ということです」
「な、なるほど……」
それなら、さっきの姫様の「引っかかったもの」がなんなのかわかる。自分の先生と対立していることになるのだから。
「ただし、バトレイク侯爵は急進派の中でも穏健な方です。研究を急げと迫る一派をなだめて、父上や私に譲歩の姿勢を見せている。あの方がいるからこそ、国内でこの議論が成り立っていると言っても過言ではありません」
なんだか、あの侯爵様は俺が思っていた以上に偉い人のようだ。姫様としては、敵ながらあっぱれ、といった感じなんだろうか。
そこでふと、疑問が湧く。
「なあ、姫様と侯爵様の関係についてはわかったけど、俺が無関係じゃない、ていうのはどういうことなんだ?」
この言葉に、姫様はがくりと頭を下げた。
「できれば、ここまでの話だけでも関係あるものだと思ってほしかったのですが」
「ご、ごめん」
姫様はため息交じりに、まあ良いでしょう、とこぼした。
「あなたに関係するのは、その姿です」
「んー、つまり……?」
「あなたのその姿は、おそらく魔法によるものであろう、ということです」
「えっ!? あ、ああ! なるほど!」
流石にこれには、俺もピンときた。姫様も頷く。
「そう。魔法でも絡んでいなければ、人の姿を人でなくすることなど考えられないのです。ラルフ、あなたはおそらく失った記憶の中で、誰か魔法を使える者に接触し、その者によってオオカミに姿を変えられたのだと、私は考えています」
「ひゃあぁ……」
俺は息を漏らすことしかできなかった。さっき姫様が語った難しい議論が、俺のこの姿にも関わってくるなんて。
「きっと、魔法の研究が進むことは、あなたの姿をもとに戻すことにもつながっているでしょう。先程バトレイク侯爵があなたに『力になれるかもしれない』と言ったのも、そういう意味だと思います。しかし、もしかしたらそれは、あなたと同じ姿のものを増やすことにもなるかもしれない。そのことは、覚えていてください」
聞いていて、頭が痺れたようになってきた。それが、難しい話を聞き続けたせいなのか、その内容が俺に関わっていることを知ってしまったせいなのかは、疲れた頭では判断できなかった。
姫様の説明が終わったところで、俺たちは図書室から出ることになった。図書室からの通路で、俺はあるきながら大きくあくびをした。
「ふああぁぁ、なんか今日は、めっちゃくちゃ頭使っちゃったなぁ」
「この程度であれば、毎日使うべきですよ。それと、文字の復習を忘れないように」
姫様の差し込みにも、今は弁解する力がない。
が、そう言った姫様は途中で足を止めた。
「あれ? どうしたんだ?」
「今、気付いたのですが」
姫様は、どこかぽかんとした顔つきになっている。
「ラルフ、あなたは文字をほとんど覚えていませんでしたが、こうして話をすることは問題なくできていますね?」
「あぁ、それについてか」
実は、これの原因には心当たりがある。
「多分、星座物語のおかげだと思う」
「星座?」
姫様の声が、高くなる。俺の持つ趣味としては意外だったんだろうか。
「小さい頃、町の神父様から聞いた星座物語の英雄が大好きでさ。一時期は星に向かってお祈りもしてた。この姿になってからもあの話を思い出したりしてたから、話す分には言葉を忘れなかったのかな、って思ってる」
「そうでしたか」
姫様は、顔を軽くうつむかせて、顎に手を当てる。
「あなたに物語をたしなむ趣味があったとは、意外でした」
「それ、はっきり言っちゃうのな……」
「いえ、いいのです。なるほど、なるほど」
このとき、姫様はまたすごいことを考えていたのだけれど、例によって疲れていた俺は、そんなことに気付かないまま姫様を送り届け、そして道化部屋に着くとばったり眠ってしまったのだった。