003
姫様の部屋から何本かの通路を進み、間にいくらか階段も下って、薄暗い一角にたどり着いて俺たちは立ち止まった。
「ほら着いたよ! さっさと入った入った!」
ベラがすっとんきょうな歓声を上げて目の前の扉を勢いよく開ける。そこは、
「……せまっ!」
物置かと思うくらい、狭くて粗末な部屋だった。石レンガで組まれているのはこの城の他の部屋と同じだが、一人で住むにしてもちょっとむずかしいような狭さだ。その上部屋の一角には、捻じくれた杖だの鈴がじゃらじゃらついた太鼓だの、何に使うのかよくわからない道具が山のように置かれている。ほかにあるのは、おそらくは寝床として使われている藁の束が一つ。窓はちょっと見上げたところにのぞき穴のような大きさのものがいくつか付いているだけだ。
「ここで、ここで寝起きするのか!? 俺とあんたの二人で!?」
「姫様がそう言ってたろ。ほら、早く入る!」
「え、うん……」
中に踏み込んでみると、その狭さがなおのことよくわかる。これ、俺とベラで足を伸ばして眠たらもういっぱいなんじゃないか?
「しかし、お前も難儀だな。森で死にかけたと聞いたが、生き延びたと思ったら道化にされるなんて。同情するよ」
「へ?」
呆然としていると、後ろから声をかけられる。
振り向くと、そこにいたのはベラだった。ただし、奇妙な道化衣装の頭巾を頭から外して、仮面もとっている。きりりとした鋭さの整った顔立ち。口元にもさっきまでの軽い笑いは残っておらず、横一文字に閉じている。
「あの、今の声って……」
「私だ。この部屋にほかにいないだろう」
声も、これまでとは全然違う。陽気でひょうきんだった声色ではなく、騎士とか傭兵とかそういう人達を思わせる、女性ながらに低く鋭い声だ。
「なんだ、声が変わって驚いたか?」
「そりゃ、そりゃあ驚くよ。なんで変えてるんだ?」
「変えてる、というより、さっきまでのが仕事のための作り声だ。今ここには道化しかいないから、いちいち声を作る必要もない」
「えっ、じゃあ、俺も姫様の前では声を変えたほうがいいのか?」
「お前の場合は、どちらでもいいかもしれないな。もともと鋭い声じゃないから」
言いながら、ベラは例のがらくたの山に歩み寄る。
「それよりも考えなきゃいけないのは、お前の芸だ。お前、何かできるか?」
「いやぁ、それが、誰かに見せるような芸なんて、俺できないんだよ」
「ま、そうだろうな。そういう修行ができそうな姿にも見えない」
ベラはがらくた山からおかしな道具を拾っては戻してを繰り返しだす。
「そうだな、文字は読み書きできるか?」
「いや、全然だ。昔はちょっとは読めたけど、もうすっかり忘れちゃって」
「ふぅむ、じゃあ」
そう言った途端、ベラが腕を振る。
「うわっ!」
何かが飛んでくる。赤い、玉? もう目の前に、
俺はとっさに手を上げて、顔面直撃寸前でそれを掴んで止めた。
「な、なにすんだよぉ急に!」
「よし、なかなかいい反応だな。それなら、できることはある」
「へ? うわっと!」
ベラは続けざまに玉を三個、四個投げてよこした。それらをなんとか取る。
「お手玉はわかるだろう? 少しずつ数を増やして、六個くらいでできるようになれば、まずまずの芸になる。しばらくはその練習だな」
「お手玉、かぁ」
確かに、これならできないこともない。なにしろ、町でお手玉遊びをしている子供を昔見たことがあるくらいだ。
「ほかにも、体をほぐす運動を毎日忘れずにやれ。お前は多分、詩を歌ったり言葉遊びをしたりするより、体を使った芸のほうが得意だろうからな」
「体を、ほぐす?」
「例えばな」
首を傾げた俺の前で、ベラは床に座って足を大きく開いた。その間に、上体を曲げて肘を床につける。
「おおー! すげえすげえ!」
「他人事だと思うなよ。これくらいにはなっておかないと先がないと思え。ほら、ちょっとやってみろ」
「え? ええと、こう?」
俺もベラの真似をして、床に座って両足を開く。でも、この時点でベラほどに足を開けていない。
そして、肝心の上体の方はというと、
「ぐぎぎぎぎっ、ぬ、ぐうううっ……」
まるで曲がらなかった。肘が股の間に入りもしない。ベラが肩を落としてため息をつく。
「こりゃあ、先に教えておいて正解だったな。でももう少し、ほら、もっといけるだろ」
「あががががが! お、押さないで、いだだだだだっ!」
「いいか、お手玉だけじゃなく、この運動も毎日やれよ。体が柔らかくなれば、できる芸の幅がぐっと広がるからな」
「は、はい……わがりまぢだ……」
そう返事をしたとき、部屋の戸がこつこつと鳴った。ベラは俺を解放すると、すたすた歩いていってとを開ける。
すると、高くて明るい声がした。
「はーいベラさん。お食事お持ちしましたよ」
「ああ、どうも」
立っていたのは、一人の女の子だった。あどけなさの残る顔立ちで、肩の上で切った黒髪の少女。見覚えのあるエプロンを着ている。
その子は片手に載せていたスープ入りの皿をベラに渡し、そしてふと、俺と目を合わせると
「ひゃいいいいいいっ!?」
悲鳴を上げて後ずさった。
「おっ、オオカミ? 人? えっ、ええっ!?」
「ああ、すまないな。特に話していなかったか。こいつは今日から道化としてやっていく、ラルフだ」
「ど、どうも」
ベラに簡単に説明されて、俺も軽く頭を下げる(上体がまだ痛いけれど)。エプロンの女の子は腰が引けた様子で少し離れたところで部屋を覗き込んでいた。
「ラルフ、この子はアニーという。城の召使いで、道化部屋に食事を運ぶ係だ。この子の機嫌を損ねたら食事にありつけないと思え」
「べ、ベラさん! 私そんなことしませんよぉ! ええっと、ラルフ、さん? は、はじめまして……」
ネズミの鳴き声みたいに小さくそう言いながら、女の子、アニーは俺に会釈した。
「アニーもそんなに怖がることはない。私が見たところだとこいつは人を襲うようなやつじゃないし、爪も切られてる」
「え?」
ベラの言葉を聞いて、俺は自分の手を見る。
「ああああっ!? 爪、爪切られてるぅっ!」
「今気付いたのか……当たり前だ、獣の爪なんかつけてたら危なっかしくて城におけるわけないだろう」
「ふっ、ふふっ」
そこで、笑い声がした。見てみると、アニーがこちらを見ながら噴き出している。
「怖がってごめんなさい、ラルフさん。よろしくおねがいしますね」
そう言って、アニーは柔らかく笑ってくれた。しかし、すぐにはっとしておろおろしだした。
「どうしましょう、スープ一皿しかもらってきてませんでした。これじゃお二人に食べてもらえませんね」
「あ、そうなのか? うーん、どうするのかいいか……」
そこで、大きな音がした。俺の腹から、ぐぅ〜っと。
ベラがまたため息をつく。
「いいさ、ラルフ、お前が食べろ」
「えっ、いや、今のは……」
「腹が減ってるんだろう? どうせ、狩場で捕まってからろくに食事をしてないんだろうから、なにも悪びれることはない」
「い、いいのか……?」
なんだかもう、俺にはベラが輝いて見えて、
「ありがとう! ベラ、いや、師匠!」
そう言っていた。ベラ――師匠は眉をひそめて後ずさる。
「お、おい、なんだ急に」
「ほんと、これからも世話になると思うけど、よろしく、師匠!」
「ま、まぁ、好きに呼べばいいが……」
「ふふふ、あははっ!」
部屋の出入り口で、アニーが隠す様子もなく笑う。
「道化部屋、賑やかになりそうですね!」
「んで、せっかくもらっといて何なんだけど」
スープを早々に飲み干した俺は、げんなりと息をついた。
「なんか、少なくないか……? 夕食、これっきり?」
「そのとおり。大して腹が膨れるものでもないから、そんなに恩義を感じなくていい」
「いや、そこは曲げたくはないけどさ」
アニーからもらったスープは、もらってみたら随分と薄い色で、おまけに浅い皿の半分にも満たない量だった。具はといえば、ニンジンの皮と、キャベツの芯、ほとんど肉のついていない骨くらいだ。
「師匠は、毎日これだけしか食べないのか?」
「基本的にはな。流石に明日からは私とお前の二人分は用意されるだろうが、それぞれの量は今日もらったのと同じくらいだと思う」
「お城の人って、もっと豪勢なもの食べてると思ったんだけどなー」
「ほかの奴らはそうかも知れないが、少なくとも私たち道化には、余り物を使った『餌』程度のものが出るだけだ。覚えておけ」
はぁ、ひもじい。量だけで言えば、森で動物を捕まえて食べていたほうが多そうだ。けどまあ、アニーに感謝してから俺は空になった皿を道化部屋の外においた。
そこで、ふと気づく。
「なあ師匠、道化って、いっつもその道化服を着てなきゃいけないのか?」
「ん? まあ、そうだな。この部屋から出るときは、許しが出ない限りは道化服を着ていることになっている」
「それじゃあ、この部屋では?」
「ああ」
ベラ師匠は、そこでやっと気づいたようだった。
「そういえば、着替えるのを忘れていたな。なら、とっとと脱ぐか」
「えっ」
そう言うと、師匠はおもむろに道化服を脱ぎ始めて――
「ちょっ、ちょっ、ちょおっと待って!」
「うん?」
「俺、俺は壁の方見てるから! だから着替えはその間にやって!」
俺はわたわたと部屋の隅の方に行く。見えてない。まだ見えてないから大丈夫!
「なんだ、そんなことか。別に、見てもいいぞ。つまらないものだからな」
「そんなわけあるかって! とにかく、早く!」
「はいはい」
さもくだらないといった声がする。仕方ないだろ、俺は何年も森暮らしでそういう刺激からずっと遠ざかってたんだから!
「おい、もういいぞ」
「え、早くないか?」
「まあ、道化服を脱いだだけだからな。部屋着の上に道化服を着てたわけだ」
「はぁーん、なるほど」
そこで、俺は振り向く。それなら、もともと目をそらす必要もなかったかな――
師匠を見て、俺は凍りついた。
「え、師匠、それは」
「これか?」
俺が凝視していて、師匠が指差したのは、胸だ。
師匠は今、白い布をさらしのように巻いている。下半身は腰回りに、上半身は胸周りに。でも、その胸の部分は、平らだった。
いや、単に胸が小さいとか、そういうことじゃない。そこに垂れているはずの乳房が、まっ平らになくなっている。まるで、切り落とされたように。
師匠は、自分の胸を見ながら、悲しそうでもなく、つらそうでもない声で応えた。
「ラルフ、姫様からは、道化でいる間は芸を磨き続けろと言われていただろ」
「う、うん」
「それは、そのとおりだ。さっきアニーの機嫌を損ねたら食事にありつけないと言ったが」
そこで、俺に目を合わせる。
「国王陛下のご機嫌を損ねれば、下手すれば食事がなくなるどころじゃない、っていうわけさ」
俺は、ごくりとつばを飲んだ。さっき飲んだばかりのスープの味が、口の中からさっぱりと消えてしまった。
その日の夜から、道化の修行が始まった。
俺がやるのは、まずは柔軟体操。前屈だけじゃなく全身の運動を師匠に教えてもらい、それをかわるがわるやっていく。
それと、お手玉の練習。玉を上に投げて、左右の手で交互に受け止める。
とりあえず、それを三日ほど続けた成果としては、
「ふんっ! ぬううぅぅっ……」
「……この短期間で大きく変わるわけもなし、か」
「いや、でも……! ぬんっ、ほら、ちょっとは……!」
「変わらん変わらん」
柔軟体操はこんな感じ。お手玉の方はというと、
「ほっ、よっと」
「三個なら安定してできているな。なら、ほら」
「おわわっ! 急に増やされちゃ無理だって!」
「四個はまだまだと」
ベラ師匠はそう言って額に指を立てる。道化の格好で悩んだ仕草をするのはちょっとおかしかったけど、今の俺に笑っているような余裕はない。
「ううう、ごめん師匠。練習はやってたんだけど」
「気にするな。想定の範囲内だとも。それより、ほら、これが届いたぞ」
さっきから師匠の足元にあったものを拾い上げ、俺の前に出す。
「えっ、これって」
「お前の道化服だ。着てみろ」
「おおおっ! 着る着る!」
師匠と同じように、部屋着に使っているタオルを巻いたまま道化服に袖を通す。ちょっと変わった着方で戸惑ったけど、尻尾を出す穴まで空いているのは嬉しい。
そして、着てみた結果。
「まあ、似合ってるんじゃないか?」
「……これが似合ってるって、あんま喜べないなぁ……」
赤と黄色で染められた、丈が合っているのにだぼだぼの服。頭巾についた二本の角や、節々についた鈴は師匠のものと同じだ。
要するに、どこからどう見てもへんてこな服ってことだ。
「届くまではわくわくしてたけど、実際に着ると、なんか、なぁ……」
「愚痴をこぼしている暇はないぞ。さっそく仕事だ」
「えっ」
腹の中がひゅっと浮いたような感じがした。師匠の方は淡々と話しを続ける。
「道化服を姫様から受け取ったときにな、国王が昼食時に道化を呼びたがっていると言付けられた」
「それって、師匠だけ呼ばれてるんじゃないのか?」
「いや、国王は、私とお前の二人を呼んでいるらしい。まったく、本当に趣味の悪い御仁だ」
「えええ……」
そんなことを言われても困る。さっき師匠に見せたとおり、俺はまだ芸らしい芸ができないのに。それに、陛下の機嫌を損ねた末路を知ってしまっている以上、失敗が許されないこともわかっている。
「そう不安がるな。あの人といえど、城に入って間もない道化に高望みなんて流石にしないだろう。今回は、私が主導して芸をする。お前は、私の言うとおりに補助をしてくれればいい」
「補助……て、何をすればいいんだ?」
「今考えてる。国王の前に着いたら教えるから、先に移動するぞ。国王を待たせて得することなんてなにもないんだ」
「わ、わかったよぅ……」
ベラ師匠は、鈴をりんりん鳴らしながら道化部屋を出ていく。俺もそれについていった。
いくつかの階段と廊下を通り抜けて、俺達は大きな扉の前に立っていた。
「さて、この扉の向こうに国王と貴族たちがいるわけだ」
「き、貴族もいるのか?」
「客が何人いようがあまり関係ない。それよりも、ラルフ」
師匠は小声で耳打ちした。
「とにかく、今回お前は立っているだけでいい。身動きしないで立っていれば、あとは私が芸にしてやるから」
「う、うん」
俺が頷くと、師匠はよし、と意気込んで、扉を叩いた。
「陛下? あたしだよ! お呼びだろう?」
師匠が道化の声でそう言うと、扉の中から低い声で返事がした。
「よし、入れ」
「はいはい、よっこいせっと!」
ぎいい、と重い音を立てて、両開きの扉が片方だけ空いていく。
中は、随分ときれいな部屋だった。まず目に入るのは、白い壁に立派なシャンデリアの明かり。広々とした部屋の中央には奥まで伸びる長いテーブルが置いてあり、その片側には空の皿を前にしてさも偉そうな男の人達がずらりと並んで座っている。一番奥でこっちを見て座っているのは、おじさんかおじいさんか微妙な歳に見える人が座っていた。椅子が一番豪華だから、たぶんあの人が王様なんだろう。となると、それ以外の並んだ男たちはみんな貴族か。
ベラ師匠は、男たちの視線をものともせず、軽い足取りで貴族たちがいない方のテーブル沿いを進んでいく。覚悟を決めて俺もそれに続くと、貴族たちがどよめきだした。
「陛下、これは一体なんですかな?」
「ま、魔物ではありませんか!」
「まさか陛下、魔法でもお使いになったので?」
口々にささやく貴族たちに、王様は笑ってみせる。
「諸君、これが先程話した、先日の狩りで得た大物だ。この面妖な人外を、我が狩人が見事射抜いた。これは今、我が娘マグノリアの道化をしているのだよ。ベラ、紹介して差し上げろ」
王様がそう言うと、師匠は貴族たちにうやうやしくお辞儀した。
「皆様、お久しぶりだね! あたしはいつもどおりのベラさ。そしてこいつは」
言いながら、師匠はぱんと俺の背を叩く。
「うひっ!」
「姫様から賜った、あたしの大事な絨毯さ!」
その言葉に、貴族たちの何人かが小さく笑いを漏らす。
「しかしね、こいつはただの絨毯じゃないんだよ。なんと、大層なことに名前がある! その上、言葉まで喋れると来たもんだ! そのせいであたしは、こいつに足を乗せるたびに文句を言われちまうってわけ! ほら、自分の名前を言ってごらん!」
もう一回背中を叩かれて、俺はぴんと背筋を伸ばした。
「あ、え、ら、ラルフです! よろしくお願いします!」
この挨拶に、貴族たちはまたも笑いをこぼした。
「ずいぶんと、腰の低い魔物でありますなぁ陛下!」
「我らが陛下には、魔物すらひれ伏すということか!」
「王女殿下も、またずいぶんと滑稽なものを手にされたものだ!」
なんだかよくわからないけれど、俺の挨拶でさらに貴族たちは喜んでいるらしい。
王様は、笑顔でぶどう酒の入ったグラスを揺らしている。その中身を軽く口に含んで、師匠の方を見た。
「さてベラ、今日はそいつと一緒になにか一つ見せてくれるんだろう?」
王様の言葉に、師匠は仮面の奥でにぃっと笑う。
「そのとおり! こいつが絨毯のほかになんの役に立つか、あたしは精一杯考えたのさ。そしたら、良い使い道を思いついたからね、それをお見せしよう!」
そう言うと、師匠はまずどこからともなく袋を取り出した。その中に手を突っ込んで取り出したのは、一つのリンゴだ。
「この、うまそうなリンゴ! あたしとしては、ぜひこの場の皆様にご賞味いただきたいところだけどね、なんと困ったことにナイフがない! 陛下に一度おねだりしてみたけど、けちんぼなことに全く取り合ってくれないのさ」
「道化なんかにそんなもの、渡すわけがなかろう!」
貴族の一人が笑いながら野次を飛ばす。師匠はそれに取り合うでもなく、俺の方を向いた。
「そこで、あたしは閃いた! まずは、このリンゴをこいつの上に置いてだね」
言いながら、師匠はちょっと背伸びをして本当に俺の頭にりんごを乗せた。俺はちょっと身を縮めたが、頭巾の角の間にすっぽりリンゴが収まったようだ。
その瞬間に、師匠は早口で俺の耳に囁いた。あの、道化部屋での低い声で。
「心配するな。今から使うのはおもちゃだし、私は絶対外さない」
そして、リンゴを乗せた俺を、師匠は部屋の奥の方に押しやって、自分はテーブルの真ん中あたりに戻る。
「そして、ここで取り出しましたるは、これさ!」
もう一度袋に手を突っ込んだ師匠の手に握られていたのは、一対の弓矢だった。
貴族たちが再びどよめく。
「皆様、心配ご無用! これは、陛下から賜った特別な弓矢でね。こんな感じに、人の体になんて刺さりやしない。しかし、リンゴだけはきれいに割ることができるという、ご都合が非常によろしいものなのさ!」
師匠は屋を握って、矢じりを手のひらにぐりぐり押し付けるが、なるほど確かに血が出る様子はない。
でも、よりによって弓矢だ。これから師匠がやりそうなことを考えると、俺は急にのどが渇いてきた。だって、矢で射抜かれたのはついこの前なんだ。あのときのことを思い出すと、傷はふさがったはずの右脚がうずいてくる。
そんな俺の都合はお構いなしに、師匠はやっぱり部屋の反対側に移動した。
「この、リンゴだけを割ってくれる弓矢。その瞬間を、とくとご覧あれ!」
師匠が、弓に矢をつがえた。体から汗が噴き出してくる。貴族たちは、特に何を心配するでもない顔で師匠の方を眺めている。王様もそうだ。俺を心配して止めろと言う気配なんて、誰にもない。
そして、弓は引き絞られ、
「よっ!」
放たれた。
矢が真っ直ぐに飛んでくる。矢じりは丸く見えるが、飛ぶ勢いは強い。それに、俺の頭の方をめがけて矢は飛んでくる。嫌だ、避けたい。でも、動くわけにもいかない。芸の失敗は許されない。
俺はぎゅっと目を閉じて――
目を開けた時、あたりは時間が止まったようになっていた。貴族たちも王様も、師匠ですら口をぽかんと開けたまま動かない。
矢の飛んできたほうを恐る恐る見ると、俺の右手が、飛んできていた矢を握って止めていた。
まずい、とっさに止めてしまった。よく見れば、矢の軌道からして確実にリンゴに当たっていたはずなのに、俺が止めたら台無しじゃないか。
「えっ、あっ、いや、これは、その……」
言い訳を考えながら口にするが、もちろん具体的なものは思いつかず、わたわたとした声だけが漏れる。
止まった時を再び動かしたのは、師匠の声だった。
「はあぁ〜〜っ、なんてことだい! 『絨毯だけじゃなく台としても使える』って言ってやろうと思ったら、あたしのリンゴ割りを邪魔するだなんて! これじゃ、台としても使えっこないや! こりゃどうしようもない!」
「それならな、ベラ」
師匠に続いたのは、王様だった。その顔には、いたずら好きそうな笑いが浮かんでいる。
「これでもやって、台のご機嫌をとってみるがいい。ほら、受け取れ」
王様は、テーブルの上に余っていた焼き菓子を半分に割って、師匠の方に投げた。一度床に落ちたそれを、師匠は大げさな動作で拾い上げる。
「これはこれは! さっきはけちんぼなんて言っちまったけど、我らが陛下は実はお心の広い方だったみたいだね! ああ、ありがたい!」
師匠が拾っている間に、貴族たちの間にさっきとは違ったざわめきが広がる。ただ、芸が失敗だと笑う者はどうやらいない。
これは、成功ってことか?
「は、ははは……」
緊張の糸が切れて、口から力の抜けた笑いが漏れる。
と、
「んむぐっ!」
「さあほら、お食べ! ほらっ!」
すぐ近くまで来ていた師匠に、焼き菓子を口の中にねじ込まれる。なんだか、仮面の奥の目が大分つり上がっていた。え? これ、どういうこと?
「陛下からはいいものを賜ったけど、あたしとしては、ちょおっと台のしつけをしたいところだね!」
「え、し、師匠。何言って」
俺の目の前で、師匠がまた袋をあさりだす。今度取り出したのは、長いロープだった。
例のリンゴはまだ俺の頭巾に収まったままだ。この後起こることは、いやでも想像がつく。口の端が引きつった。師匠は両手に持ったロープをびんびんと張って、凄絶な笑いを浮かべている。
「ふふふふふふ……」
「は、は、ははははは……」
「ひどいんじゃないか!? あんまりなんじゃないか!?」
「そう喚くなって。うまく行ったんだからいいだろう」
道化部屋に戻った俺は、開口一番に師匠に訴えかけた。しかし、道化服をさっさと脱いだ師匠の方はさも興味なさげに、王様からもらったもう半分の焼き菓子を頬張っている。
「まぁ、私としても配慮が足りなかったのは謝るさ。お前、矢で射抜かれてたんだったな」
「だったら、あんなに固く縛らなくたっていいだろ!? しかも、目隠しまでしてまたリンゴの台役なんて、いつ矢が来るかわからなくって、ほんとに気が狂いそうだったんだからな!」
「うるさいなぁ。私からも言っただろ、絶対外さないって。お前が心配することなんて、はじめから何もなかったんだよ」
焼き菓子を飲み込むと、師匠は軽くあくびをした。昼過ぎの道化部屋には、春の暖かい光がちょろっと入ってきている。
「そんなことよりも、問題はお前の方だぞ」
「そんなこと?」
縛られて矢がぶっ刺さるかもしれなかった俺の抗議は、師匠に軽く流される。
「お前に、あんなことができたとはな」
「あんなことって?」
「矢を掴んで止めただろう。あんな真似、普通の人間じゃとてもできないぞ。どうやった?」
「え、うーんと……」
どうやった、と説明を求められても、俺に言えるのは、
「師匠が弓の弦を放して、矢が飛んでくるのが見えて、ああそろそろだなって思ったら、矢を掴んでた」
自分が感じたことをそのまま話す以外にない。
その説明を聞いて、師匠はこれまでで一番大きいため息を付いた。
「あのな、普通の人間はまず、矢が飛んでくる動きを目で追えない。速すぎて見えないんだ」
「え? そうなのか?」
「それに、よしんばそれが見えたとしても、飛んでくる矢を掴むなんて動きはとれない。掴もうとした瞬間矢が通り過ぎるのがオチだ」
そこで、頭を振ってから、俺に向き直る。
「お前は見た目だけじゃなく、感覚までオオカミに似ているのかもしれないな」
「それって……」
「訓練さえすれば、お前はほかの人間には真似できないような芸当が身につくかもしれない、ってことだ。案外、道化としての才能はあるのかもな」
才能がある、と言われた。つまりこれは、褒められているんだろうか? いまいち理解できないまま、俺はとりあえず頷いてみる。
それを見ると、師匠はぐっと伸びをした。
「なんにせよ、計画違いはあったが、今回の仕事は成功だ。私もお前も褒美をもらえたからな」
「あ、やっぱりそうなんだな! ほんと、よかったぁ……」
「ラルフ、道化としてこれは覚えておけ」
胸をなでおろした俺に、師匠は声を低くして言った。
「道化はな、見られたら勝ち、ていう勝負をすべきだ。芸でも歌でも、やってることに周りが惹きつけられたら道化の勝ち、そう言う勝負だ。それ以外の方法で周りに勝つなんて、道化には無謀だと思え」
「うーん……?」
また、ちょっと難しいことを言われている気がする。でも、王様の前でやったことを思い返すと、少しだけわかるような。
俺が頭を捻っていると、師匠は目を閉じて静かに言う。
「今すぐにわからなくてもいい。ただ、覚えていろ。道化を続けるうちに、どうすれば自分の立場が崩れないか、わかってくるはずだ」
「うん、わかった……多分」
「お前、それはわかってない返事だぞ」
師匠が肩をこけさせ、やれやれと首を振った。
「まあ、いいさ。私は少し横になってるから、その間お手玉の練習なり体操なりしておけ。あと、姫様が夕方くらいにお前を呼びたがっていたから、そのつもりでいろよ」
「はぁい」
返事をすると、師匠は寝床用の藁に寝っ転がる。俺は、ふうと息をついた。
今のが、道化の初仕事。俺自身がなにか芸をやったつもりはなかったけれど、なんとか乗り切ることができたみたいだ。このことについて、姫様にもお話してみようか。すこし胸が晴れたような気がして、俺は軽く笑った。