002
とても暗い道を、一人で走っている。
歩き慣れたはずの道なのに、ひどく走りにくい。息もだいぶ上がってきている。それでも、足を止めるなんてとんでもない。ここで止まったら、後ろからあれに――
あれ? あれって、なんだ? いや、わからなくてもいいからとにかく走り続けなくちゃ。そして、村に帰って、みんなに笑ってもらうんだ。馬鹿なことをするからそんな目に遭うんだって。
息が途切れそうなのを絶えて、ひたすら足を動かし続ける。早く、早く、村に帰らなきゃ。
そして、ようやく村の明かりが見えた。みんなそろそろ寝静まっている時間のはずだけど、構わない。誰でもいいから、とにかく話がしたい。
ああ、ちょうど近くに木こりのおっさんがいる。おっさん、おっさん助けて!
でも、
「う、うわああぁぁっ! ば、化け物っ!」
話しかけようとした途端、こっちを向いたおっさんが叫び声を上げた。わけが分からず周りを見回すけれど、そんなものはどこにもいない。
おっさんの叫びで目が覚めたのか、周りの家の戸が開いてほかの人たちも出てきた。みんな、助けて、助けて――
「ひいいいっ! なんだこいつ!」
「いやっ、来ないで! いやあぁっ!」
揃って悲鳴を上げる村のみんな。それどころか、近寄った俺を突き放して、石まで投げてくる。なんで? どうして? みんな、どうしちゃったんだよ!?
「出ていけ! 村から出ていけ、この化け物が!」
村で一番体格が良い大工のあんちゃんが、金槌を片手に吠えた。その言葉は、明らかに俺に向けられていて、俺のほうがぞっとして、もう村から逃げ出すほかになかった。
なんだ、なんなんだ。駆けずり回りながら、泣きながら、そんなことが頭の中でぐるぐる回る。わからない。けれど、もう取り返しのつかないことになってしまったような。
そして、答えは意外なところから突きつけられた。道端で転んで、意地悪く広がっていた水たまりに倒れ込んだとき、月に照らされた水面に、おかしな物が映っていた。
俺の顔が映るはずの水面にあったのは、ふさふさの毛が生えて、とんがった耳に長い口の、オオカミの子供の顔。嘘だ。顔に手で触る。水面のオオカミも同じ動きをする。触れた顔は、確かにそこに映っているのと同じ形をしている。
「うそだ、うそだっ……」
もう、それしか言えない。こんなこと、あるわけないんだ。嘘なんだ。でも、何度顔を撫でても、俺の頭はオオカミの形をしていて、俺は――
***
深い泥沼の底から這い上がるように、俺は目を覚ました。なにか、ものすごく嫌な夢を見ていた気がする。それを払いたくて頭を振ると、
ごん、と頭をぶつけた。
「あいたっ!」
見回してみて、思い出す。俺は今、檻に入れられているんだった。そりゃあ、大きく頭なんて振れば天井に当たって当然だ。
でも、気を失う前とはあたりの様子が全然違う。というか、檻の外に大きな布が被せられていて、外がまったく見えないのだ。それに、檻全体ががたごとと揺れる。これは、荷馬車にでも載せられているんだろうか?
「おう、目ぇ覚ましたか! もう少しで着くから、それまでは大人しくしてろよ!」
この男の声は、覆いの布の向こうからだ。聞いたことのない声色。ますます状況が分からない。それに、気になることを男は言っていた。
「着くって、どこに?」
「ああ?」
俺の質問に、外の男は少し苛立ったように応えた。
「決まってんだろ、城だよ! 王様たちのいる、城!」
王様。城。それを聞いて、俺は気を失う前のことを思い出す。気持ち悪くてぐったりとしていた俺に、話しかけてきた女の子。あれが、確か姫様だったはず。そして、俺に何かになれ、と言っていた。
待てよ、ということは――
「えええっ! 俺、お城で、働くの!?」
「だああっ、騒ぐんじゃねぇよ! 馬が驚いちまうだろうが!」
「あっ、ご、ごめん!」
また檻の天井に頭をぶつけ、ついでに外の男にも怒鳴られた。けれど、それどころじゃない。俺が、お城で働く? つい昨日まで森で暮らしてたのに? 何年もまともに人に会ったこともなかったのに? オオカミ頭なのに?
それに、まだ気になることはある。いや、一番気になっていることがある。姫様の言った、あの言葉。あれが一番わからない。
「じぇすたー、って、なんだ……?」
そんな疑問に答えてくれる人もいないまま、結局俺は外の男の言うとおり静かにしているほかになかった。
檻の中で寝そべっている間に、お城には着々と近づいているようだった。はじめに感じていたごつごつとした揺れは、時間が経つにつれて小さくなっていく。外から聞こえる音も、鳥の鳴き声や葉が風でこすれるさらさらした音ばかりだったのが、いつの間にか人の声や足音のほうが大きくなっていた。
それで、俺はだんだん落ち着かなくなってきた。何しろ、お城どころか王都にだって来たことがなかったのだ。お城となると、やっぱり豪華できらきらしたところなんだろうか。きっと、人も俺の故郷の村よりずっとたくさんいるんだろうな。難しい顔をした役人とか、ふわふわした服で着飾った貴族、鎧をまとって剣を携えた騎士。そんな人たちがいる所で、俺は一体どんなふうに働けばいいんだろう? こんなオオカミ頭で、なにができるんだろう? ああ、胸がざわざわする。
と、そこでばさりと大きな音がして、突然周りが明るくなった。布が取り払われたのだ。思わず目を閉じた俺は、奥歯を噛み締めながら、ゆっくり目を開いた。
目に入ってきたのは、床も壁も天井も石レンガの部屋。壁にはランプがかけられていて、部屋は小さな窓しかない割に明るい。檻の周りには、エプロン姿の女の人が、五人。俺の姿を見て、小さく悲鳴を漏らしたり口を手で隠したりしている。
ここ、お城なのか?
後ろでかちゃり、と音がする。振り返ると、檻の柵が開いていた。外に出ろ、てことか? なんとか這ってそこまで動く。
そこで、檻の外に出した手を、むんずと掴まれた。息を呑む暇もなく、その大きな手に引きずり出される。
そこにいたのは、恰幅のいいおばさんだった。ほかの女の人たちと似たエプロンをつけて、頭にはひらひらした帽子をかぶっている。
おばさんは、俺を上から下まで眺めて、ふんと息をついた。
「あんたが、ラルフだね?」
「え、うん」
「よし。みんな、準備はいいね?」
「はい、ハンナさん!」
おばさんの掛け声に、周りの女の人たちが気合いの入った返事をする。それと同時に、おばさんも俺に向き直ってなにかの構えをとった。
なんだこれ?
「あの、おばさん、これってなんの……?」
「すぐにわかるよ。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢するんだね」
「えっ」
「姫様直々のご命令だ! どれだけ汚れた毛玉だろうと、このあたしがきれいにしてやるから、覚悟おし!」
「えっ?」
「よおし、まずは水っ!」
おばさんのその声とともに、
「はいっ!」
周りにいた一人の髪をまとめた女の人に、冷たい水を手桶でぶっかけられた。
「ふいいいいっ!」
そこへ、片手にたわしを持ったおばさんが掴みかかってくる。
「うわっ!」
「暴れるんじゃないよ! 次、石鹸!」
「はいっ!」
「よし、そらっ!」
「うひいいいいっ!」
俺を取り押さえたまま、おばさんがたわしでごしごしと俺の体を洗いだした。そこら中に泡がたち、おばさんと俺はそれに取り囲まれる。
「わっ、うわっ! し、しみるしみる!」
「目を閉じておいで! ついでに口も閉じな、泡を飲んじまうよ!」
「で、でもこれっ、うひゃあっ!」
おばさんが一層強い力で俺の背中を磨きだす。
「いっでででで、おばさん、痛い、痛い!」
「黙ってな! もう、洗っても洗っても汚れが出てくるじゃないか! 一旦水だ!」
「はいっ!」
「ひあああああっ!」
「う、ううう……」
「ま、こんなもんだろうねぇ。まったく、久々の大物だったよ」
そんなわけで、取っ組み合いながらのおばさんの洗い物が、なんとか終わった。一仕事終えて晴れ晴れした顔のおばさんの横で、俺は与えられたタオルを使って全身を拭いている。うう、体中から石鹸のにおいがする。当分落ちないだろうなぁ、これは。
毛足が長くてなかなか乾かない俺の毛も、どうにか湿っけがとれてきたところで、こつこつと靴音がした。この部屋の出入り口に姿を現したその人を見ると、おばさんは、あらまあと声を漏らした。
「姫様ったら! 申し訳ありませんねぇ、そろそろお呼びに伺おうと思ってましたのに!」
「ハンナ、もう終わりましたか?」
「ええ、毛も乾いてきた頃みたいですしね」
「ありがとうございました、助かります」
「いいんですよ! たまには、これくらい手強いのが来たほうがハリがあるんですから! また何かありましたら、なんなりとお申し付けくださいまし」
おばさん(ハンナというみたいだ)と立ち話をしていたのは、例の女の子、姫様だった。でも、昨日見たのとはちょっと違う。今の姫様は、ひらひらしたドレスを着ていて、昨日よりも華やかな感じだ。同じなのは、やっぱりとびきりかわいい顔立ちと、その割に静かな表情。それに、深い青色の瞳。
俺が見ていたのに気づくと、姫様はこっちに歩み寄ってきた。
「この後は、服のための採寸をします。そのタオルを体に巻いて、ついてきなさい」
「あ、うん」
「それでは、行きますよ。ハンナ、ご苦労さまでした」
「いいえ、姫様も」
かかとの高い靴をこつこつと鳴らしながら、姫様が部屋を出ていく。俺も、タオルを体に巻き付けながらそれに続いた。
それから行ったのは、お城の奥まった場所にある部屋だった。明るい色のレンガで形作られた、広々とした部屋。天井付きのベッドがあり、他にも背の高いタンスや鏡、いくつかの本の乗った机がある。窓も大きくて、少し傾いた日の光が部屋の中を照らしていた。柱だの壁だの、そこかしこが植物のツタのような彫刻で飾られている。ここが、姫様の部屋なんだろうか。
ちょっとすると、眼鏡をかけた男(多分、仕立て屋だ)が来て、俺の体をいろいろと測って行った。一度仕立て屋と一緒に部屋を出た姫様は、すぐに戻ってきて、木でできた戸を閉めると俺に向き直った。
「仕立て屋の話だと、あなたの道化服が出来上がるのは三日後とのことです。それまでは、そのタオルを使っていなさい」
「え、新しく服、作ってもらえるのか? お下がりとかじゃなくて?」
「あなたの体が入るような道化服は、この城にはありません。新しい服も、用意できるのは一着だけですから、あまり乱暴に扱ってはいけませんよ」
「いや、作ってもらえるだけで俺はありがたいや」
「そうでしたか」
言いながら、姫様は机に添えられていた椅子の一つを俺に勧めてくれた。クッションが付いた椅子に腰を下ろすのなんてちょっと気が引けたけれど、せっかくだからそっと座ってみる。姫様も、もう一つ椅子を用意して腰掛けた。
「これからいくつか質問をします。あなたの答えは父上にも報告しますから、そのつもりで。ですが、まず一つ」
背の低い姫様は、やっぱり静かな表情のまま、見上げるようにしてこっちに視線を注いでいる。ちょっと胸がどきっとして、俺は少しだけ視線を姫様の目からはずした。
「脚の具合は、どうですか?」
「え?」
そう言われて、俺はひょいと耳を立てた。
荷車で運ばれていたときに、気が付いてはいたんだ。気を失う前にはもうだめかというくらい気分が悪かったのに、目を覚ましたら全く気にならなくなっていたこと。それに、右脚には包帯が巻かれていて、もう血が流れなくなっていた。そういえば、ハンナおばさんも俺を洗うとき右脚にだけは乱暴しなかった気がする。誰かが手当してくれたんだろうとは思っていたけれど。
「もしかしてこれ、姫様が手当してくれたのか?」
「いえ、実際に手当をしたのは狩人です。彼のほうが、こうした怪我への対応を心得ていますから。私は、手当をするよう頼んだだけです」
「あ、そうか……でも、ありがとう。もうだいぶ良くなった」
俺が頭を下げると、姫様は首を軽く横に降った。
「あなたを引き取ると言ったのは私です。道化の主人としては、当然のことです」
「そういうもんなのか?」
「ええ、そういうものです」
あっさりとそう返して、姫様は続ける。
「他の質問に移りましょう。あなたは、あの森で何をしていたのですか?」
「あのときは、暗くなってきたから星を見に出てて」
「いえ、そういうことではなく、あの森にいた目的のことです」
「んーと……」
そう言われると、俺はちょっと答えが苦しい。
「俺、こんななりだから、普通の人がいる場所じゃ生活できないんだ。だから、森の中で暮らしてた」
「しかし、私も父上も、よくあの狩場には行っていますが、あなたのことを見たのははじめてでした。これまでは、別の場所にいたのですか?」
「うん。人に見つかって騒ぎになったら、同じ場所にいられなくなる。だから、そのたびにねぐらを変えてたんだ」
「なるほど」
言いながら、姫様は頷く。納得はしてもらえたようだ。
それから、一度俺から目をそらして、黙ってしまった。なんだろう、と思っているうちにすぐ視線を俺に戻し、口を開く。
「これが最も気になっていたことですが、その体は、どうしたのですか? 生まれつきですか?」
そうだよな。それ、絶対に気になるところだよな。今度はなんだか俺が納得してしまった。
でも、これはさっきよりももっと答えにくい。
「実は、俺もよくわかんなくって」
「ふむ? 憶えていない、ということですか?」
「うん。ええと、小さい頃、星を眺めたくて夜に村の外に出たんだ。その日は夜に村から出ちゃいけないってお触れが出てだんだけど、親が寝たあとで、こっそりと。それで、いつも行ってた丘に登ったところまでは憶えてる。でも、気づいたらこの格好で、村から追い出されちまった。丘に登った後何があったのかは全然わからない」
「待ってください。その姿になったのは、つまり、子供の頃なのですか?」
「そうだな、確か八歳か九歳だった。ただ、今は自分の歳がわかんないから、こうなってからどれくらい経ったのかもさっぱりだ」
「……そうでしたか」
ああ、話していて胸が沈んでいく。こんな気持ちは、もう元に戻れないと諦めたとき、忘れたはずだったのに。
星を見上げるのは、この姿になって間もないあいだにやっていた、お祈りだった。大好きだった星座物語の英雄。そのきらきらした力強い星に、どうか自分を助けてくれ、元の姿に戻してくれと、手を合わせていた。晴れた日は毎日夜空を見上げて英雄の星座を探していた。
しかし、何ヶ月そうしようが、何年経とうが、奇跡は起きなかった。もういいやと諦めたのは、いつのことだったろう。することもないし寂しいからと、星を眺めるのは止めなかったけれど、すがったってどうしようもないことだけは理解できてしまった。そして、本物のオオカミみたいに森で生きていくことにした。
でも、まだ諦めきれないところが、どこかに残ってたってことか。そうだ、檻の中で見ていたあの夢は、きっと――
「ラルフ」
その声に、はっとした。姫様が、こっちを覗き込んでいた。いつの間にか、俺は座ったまま前かがみになっていたらしい。部屋の中は、暮れ始めた日で柔らかく照らされている。
「ご、ごめん。ちょっとだけ、昔のことを思い出してただけだ。大丈夫」
「いえ、質問はこれで終わりにしましょう。ご苦労でした」
そう言って、姫様は軽く頭を下げる。いやいや、と俺もつられて同じ動きをした。
頭を上げた姫様は、少し鋭い目になっていた。
「ラルフ、私はあなたが少しでも元の生活に戻れるよう、働きかけてみましょう。ですが、今はまだ何もできない状態です。あなたをもとに戻すとなると、おそらくはまっとうな方法だけでは実現できないはずです。だから、元に戻れるまではあなたには道化として生活してもらうほかありません。苦労をかけるかもしれませんが、ここは耐えてください」
「ええと、それについてなんだけど、姫様」
俺は頭をかきながら、例のことを尋ねてみることにした。
「姫様が言ってた、『ジェスター』って、何なんだ? 俺、そんな仕事聞いたことないよ」
すると姫様は、口を横にぐっと閉じた。そして、一瞬目をそらして下を向く。どうしたんだろう?
しかし、すぐにまた俺に目を向けて、口を開いた。
「『ジェスター』とは、宮廷に仕える道化師のことです。道化師については、わかりますか?」
「うーん、さっぱりだなぁ……」
「簡単に言うなら、芸を見せて周りを楽しませることが道化師の仕事です。宮廷道化師は、王族などの宮廷の者を楽しませる道化のことです。詳しいことは、この城のほかの道化を呼んでいますから、そのとき聞くと良いでしょう」
「ええと、芸人みたいな感じなのか?」
「ええ、最初はそう思っておいてかまいません」
芸人、と聞いて、ちょっと複雑な気持ちになる。俺に、人に見せられる芸なんてあっただろうか? まあ、難しそうな役人の仕事よりは、まだ合っていそうだけれど。
「今呼んでいる道化に、あなたの指導を頼むつもりです。その者に師事すれば、何をあなたの芸とするか、どのように芸を磨くか、わかるはずです。道化でいる間は、芸を高めるよう努めてください」
「つまり、これからはその、芸の練習をしたり実際にやってみせたりして生活する、ってことなのか?」
「そうです」
わかったような、わからないような。とりあえず、その「もうひとりの道化」って人に会う他なさそうだ。これで一応納得しておこう。
と、最後に一つ、気になっていたことを思い出した。
「なあ姫様」
「どうしました?」
「なんで姫様は、俺にこんなに世話を焼いてくれるんだ? 俺をはじめて見たときも、狩人のおっさんよりも怖がってなかったみたいだし」
これを聞いて、ほんの少しだけ、姫様の表情が変わる。なんというか、今度はちょっと笑ったような。
「私は、ゆくゆくこのアグレル王国の王位を継ぐ者です。だから、この国の民のために働くのは当然。そして、あなたはその姿でも、言葉を理解し私と話をしました。なら、あなたも民の一人。見捨てるような真似はしません」
「うーん……?」
「……簡単に言うなら、王族だから自分の国の民を助けるため働いているだけだ、ということです」
「ああ、そういうことか。ありがとう!」
「いえ、あなたがそれでいいのなら別に良いですが」
ようやく姫様の言っていることがわかったような気がして、少し胸が軽くなった。なんだか今度は姫様が渋い顔になっているけれど。
そのとき、部屋の戸が叩かれた。それを追って、声が飛んでくる。
「姫様? あたしだよ、ベラ! そろそろお話は終わったかい?」
「あら、待っていたのですか? お待ちなさい、今開けます」
姫様は素早く椅子から立ち上がり、戸を開いた。そして、外にいた人を部屋の中に招き入れた。
それは、奇妙な人だった。
緑と紫で染め分けて、ところどころに鈴がついた派手な服に身を包んでいる。頭にかぶった頭巾は左右に別れて垂れた角のようなとんがりが付いていた。そして、顔の上半分は仮面で隠されている。背丈は、俺より少し低いくらいに見えた。声からして、女の人だろうか。
変ちくりんなその格好に俺がぽかんとしていると、姫様が話し始めた。
「ラルフ、こちらが先程話していた、この城の道化です。名前はベラ。父上、つまり国王に仕えています」
「おやおや、姫様ご丁寧にどうも! これなら、あたしが自分の名前を忘れちまっても安心だ! にしても」
ベラという道化は、ちょっと身をかがめて下から俺を覗き込む。服についた鈴がりんりん鳴った。
「こいつはまた、えらくへんてこなやつだね! これ、毛皮を被っているのかい?」
「ベラ、こちらがラルフです。私の道化となる者です。これから指導をお願いします」
「あ、よろしくお願いします!」
俺も、気を取り直して頭を下げる。すると、ベラは手を叩いて笑いだした。
「すごいすごい、動いた上に言葉まで話したよ! 置物じゃないってことだね。でも、あたしにこいつの指導をしろって? そいつは随分難しいことを言うね! こいつなら、突っ立ってるだけで見物客がわんさか来そうじゃないか! ああ、かわいそうなあたし、これじゃ道化の仕事をすっかりとられちまいそうだ!」
ぺらぺらと言葉が流れ出る。全部聞き取るのが大変なくらいだ。でも、言っていることがどこかずれているような。この妙な感じはなんだろう?
姫様はと言えば、特に何を気にすることもなく、平然としている。
「父上からは、道化用の部屋を増やしはしないと言われていますので、ベラとラルフは今の道化部屋を一緒に使ってください」
「なんだって? あたしの寝床がますます狭くなっちまうよ! いやでも、こいつが絨毯になってくれれば、ちょっとは部屋が洒落て見えるかもね。毛並みはちょっと硬そうだけど、足拭きくらいにはなりそうだし」
「えっ、そ、そんなぁ!」
「おっと忘れてた! こいつは喋るんだったね。それじゃ、足を拭くたびに文句を言われちまう! でも、ろくな足拭きにもなれないやつが、あたしみたいな立派な道化になれるかな?」
「そこは、あなたの指導次第です。よろしく頼みますよ」
「はぁ、そうきなすったか! ええっと、道化の指導ねぇ。ぬいぐるみとの喋り方、逆立ちしながら歌うやり方、司教様の禿頭の磨き方と……」
緑と紫の道化は、指を折りながらおかしなことを次々挙げていく。それを見て姫様はふうと一息ついた。
「私からの話は以上です。ベラ、ラルフを道化部屋に通してください。それと、ラルフの道化服が届くまでの世話も頼みます」
「はいはい、わかりましたよ! それじゃ絨毯、おいで! あたしの自慢の寝床にご案内だ!」
「あ、うん!」
ベラは俺に手招きすると、鈴を鳴らしながらすたすたと歩きだした。俺もそれに続いて姫様の部屋を出ようとする。
部屋の出入り口で一度だけ振り返ると、姫様は窓からの夕日を背にして、じっとこちらを見つめていた。