001
強い風が窓を激しく揺らし、狩人はびくりと肩を縮めた。
窓の外に目をやると、広がるのは黒々とした夜の森。木々の枝葉がざあざあ鳴りながら揺れているが、影が波打つばかりで、その向こうにあるはずの月も星もまるで見えない。震える視線を小屋の中の粗末なテーブルの上に戻すと、古いランタンの中で炎が頼りなく揺らめいている。今はこの弱々しい炎だけが自分の慰めなのだと思い返すと、細い細いため息が出た。
なにも、この夜自体が狩人を震えさせているわけではない。彼だって、父の後を継いでからそれなりの年月をこの森で過ごしてきた。この小屋で夜を越すのだって何度もしてきたことだ。慣れた森なら一人であっても夜闇など恐ろしくない。
だというのに今は、胸が凍えているかのように震えが止まらない。
その原因の方に、恐る恐る、視線を投げる。
本来なら生け捕った動物を入れるはずの檻に押し込んだ、おぞましい怪物。確かに弓矢で射抜いたはずのそれは、しかし今も弱い呼吸をして、ぐったりと横たわっている。
体中に豊かに茂った毛皮、長い鼻先に尖った耳。それだけならどう見たってオオカミである。そのはずなのだ。
なのに、そいつの体つきは、骨格は、紛れもなく人間のものだった。
オオカミ男。寝物語に聞いていた魔物が、檻の中にいる。現実ではありえないはずの存在が、この小屋の中で息を潜めている。狩人は視線をランタンに逃して、頭を抱えた。ああ、逃げ出したい。今すぐにこんな場所を抜け出して、村の自宅で布団にくるまりたい。そして、朝日を浴びて目を覚まして、あんなものは悪い夢だったのだと笑ってしまえたら。
息をついたとき、小屋の扉が錆びた音を立てて開いた。
「陛下! 姫様!」
小屋のものとは比べ物にならない立派なランタンを手に、背が高く、がっしりした体型の初老の男が立っていた。このアグレル王国の王、フレデリクである。
そして、その後ろに控える、小柄な少女。マグノリア姫。髪も肌も色が薄く、狩りのための軽装をまとった体はろうそくのように細い。
国王の姿をみとめると、狩人は椅子からぎこちなく立ち上がり、小走りに駆け寄って深く頭を垂れた。
「陛下、申し訳ねぇです。せっかく狩りにお越しいただいたってのに、こんなもんが出ちまって」
「なに、お前のせいではないだろう。それに、無茶を言って魔物を生け捕りにさせたのはこちらだ。無論、お前だけでなく我が騎士団の働きもありはしたが、お前にしても急の命に応じてくれたのは助かったぞ。よくやってくれた」
「とんでもねぇですよ! それで、その、あいつはどうしちまいますか?」
狩人の問いに、フレデリクは顎をさすった。
「本来なら、悪魔や魔物の類は教会に引き渡して、儀式を通して裁く決まりになっている。だが、今回はこちらにも都合があってな」
そう言うと、フレデリクは背後に立っていたマグノリア姫に目を移し、
「さあ、マグノリア。好きにやってみなさい」
その言葉とともに、人形のような少女がすっと歩み出て、狩人の前に立った。彼女の深い青色の瞳は、小屋の中に渦巻いていた嫌な空気などには微塵も侵されず、まっすぐに狩人を見つめていた。
「魔物、というのはどちらですか?」
「へ、へえ! あれ、あれでさあ!」
狩人は、マグノリア姫を見たまま、指だけを檻に向ける。もう、あれを視界に入れたくはなかった。
すると、姫の足が動いた。あの、見てはいけないものの方へ。
「ひ、姫様!?」
「大丈夫です。心配いりません」
「お、お止めなせぇ! そんな化け物なんかに」
「まだ、化け物かどうかはわかりません」
狩人の声も虚しく、姫はとうとう檻のすぐ前に着き、身をかがめてその中を覗き込んだ。
「すまないな。だが、ここはマグノリアに一旦任せてもらいたい」
「へ、陛下まで!」
国王は、ランタンをテーブルに置いて腕を組み、姫君に目を注いでいた。若い頃には勇猛で知られた王は、老年に差し掛かった今も表情に精悍さを残しており、娘に向けられた目はタカのような鋭さだった。
「その子は、言い出すと聞かないからな。それに私も、娘の目がどれだけ効くか、確かめておきたいのだ」
「そんな……」
狩人は、国王と姫の間で目を泳がせる他になかった。その耳には、姫が檻の中に投げかける言葉など、入っていなかった。
***
まったく、ひどい話もあったもんだ。
そのとき、俺は森の中で夕暮れ時の散歩をしていたんだ。暗くなり始めた空に一番星が光っていて、それを見上げてちょっといい気分になっていた。明日も晴れそうだなって思いながら。
そうしたら、突然風切り音がして、そっちを向いたら矢が飛んできていて、驚いてる間に右脚にぐさっと刺さった。痛いし、血は止まらないしで倒れ込んだら、周りがざわざわしだして、鎧を着込んだおっさんたちに取り囲まれた上に散々殴られた。で、気づいたら薄暗い小屋の檻の中だったってわけだ。
でもまあ、仕方ないかもな。俺の見た目じゃ、オオカミ男だって騒がれて当たり前だ。だって、本当にそうなんだから。
ふさふさの毛が全身に生えた、オオカミ頭。小さい頃から着ていた服なんてとうに破れてなくなっていたし、遠目でも人間になんてとても見えやしない。かといって、二本足でほっつき歩いていれば普通のオオカミにも見えっこない。化け物だって言われたら、何も言い返せない格好だ。こんなものを見つけてしまった狩人のおっさんのほうが哀れかもしれない。
狭苦しい檻の中で、俺の頭はぼうっとしていた。あたりが薄暗いせいでもあるが、くらくらするのは血を流しすぎたせいだろう。当然、矢で射抜かれた傷は手当なんてされていないから、まだどくどくと血が垂れている。ひょっとして、俺は死にかけているんだろうか。でも、それ以上に気分が悪くて小さな声で唸っているしかなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。もうずっとこのままなのか、とさえ思える長さだった。しかし、突然ぎいと音がしたかと思うと、小屋の中がぽっと明るくなった。すると、少し離れたところで椅子に腰掛けていた狩人のおっさんが慌てて立ち上がって、何やら話をしだした。誰かが小屋に来たらしい。
おっさんと話をしているのは、誰だろう? もうひとりの男の声が聞こえるが、それよりも耳に残る、高く澄んだ声もある。こんな所には似合わない、若い女の声だ。
と、一つの影がおっさんの横を通り抜け、こっちに近づいてきた。ランタンの明かりを背にした、高くはない背丈の影。その影は、檻のすぐ外にまで近寄ると、身をかがめて俺の方を覗き込んだ。
「あなた、喋れますか?」
あの澄んだ声でそう話しかけられる。そのとき、ようやくその人の姿が見えてきた。
それは、随分きれいな女の子だった。透き通るようなきれいな肌に、織りたての布のようなさらりとした髪。深い色をした瞳は、どこか鋭さも感じるくらいに強い。
女の子は、あまり感情のこもらない表情で俺の方を静かに見つめている。その子の言葉に、少し頭がはっきりとして、なんとか返事をしようとした。喋るのなんて、何年ぶりだろう。顎に力を入れて、もつれそうな舌を動かす。
「ああ、う、うん」
思ったよりも、舌の動きは鈍い。声も喉がかすれてまともに出なかった。ああ、今のじゃ伝わるかどうかわからない。とっさに頭を縦に振ってみる。
すると、女の子の目がわずかに見開かれた。大きな瞳が小さく揺れる。しげしげとこっちを見回してから、かがんだ身をいっそう低くして俺に目を合わせた。
次の言葉は、さっきよりもゆっくりしていた。
「あなたの、名前は、なんですか?」
「あ、う」
とっさに舌が動いてくれない。なんてじれったいんだろう。辛抱強く待ってくれる女の子に、なんとか伝えようとする。
「あうふ、あう、ふ」
そう言うのが精一杯だった。だめだ、これじゃ全然、ちっとも伝わりっこない。
しかし、
「ラルフ、ですか?」
そう、ラルフ。俺の名前は、ラルフだ。必死に頷いた。
女の子は、小さく、満足げに頷き返してくれた。そして、くるりと振り返って後ろに向かってなにか喋りだす。
けれど、喋っている内容は俺には分からなかった。久々にまともに聞く言葉の流れが理解できなかったのもあるが、激しく振った頭がもうぼんやりして、まぶたが重くなりだしていたから。
気が遠のく寸前に、女の子はもう一度俺と目を合わせてくれた。
「私は、マグノリア。このアグレル王国の、王女です」
そして、最後にこう言った。
「ラルフ、あなたは私の、宮廷道化師となるのです」
その言葉の意味を、このとき俺は理解しないまま、気を失った。
これが、俺がこの女の子、姫様と初めて出会ったときのことだった。