羊飼いの少女
『羊飼いの少女』で短編として投稿していた作品です。
続編を書いて居る内にバラバラに投稿するより纏めた方が良いだろうと思い。
連載の形で一つの物語として纏めて見ました。
どうぞ、エレナの冒険をお楽しみ頂ければ幸いです。
羊飼いの少女
【プロローグ】
なだらかな稜線を描いてアニエレボの山が人々の暮らしを見守る。
その中腹に修道院は有った。
石を切り出し建てられた建物の窓は小さく、昼間でも薄暗い。
昔は砦として使われていたらしいが今は周りを囲む壁も無く、小さな畑が広がるばかりだった。
太陽が西の山を越えて顔を出す頃、スープとパンの質素な食事を終えた子供達が修道院を出て元気に小さな小路を下って行く。
麓の町へ仕事に行くのだ。
教会では孤児達を集めて面倒を見ていた。
教会の資金は人々の浄財すなわち寄付が基本だが其れだけでは孤児達を養っては行けない。
その為に時の権力者に交渉して、専業の仕事を得ていた。
教会の専業業務を行おうと思うと民は教会の許可を買わなくてはならず、勝手に教会の仕事をする事が出来ない決まりだ。
教会の基幹業務の一つが郵便事業だった。
教会へ荷物や手紙を持ち込むと指定の教会まで運んでもらえる。
教会は一々、手紙や荷物が届いて居ると相手の家まで知らせたりはしない。
だらか、手紙や荷物が届きそうな人達は毎週の様に教会に来なくては成らない仕組みだった。
他にも教会は色々な仕事を直接、孤児達にやらせて資金を集めていた。
子供達はその仕事に向かう為に毎朝、麓の村まで歩かねば成らなかった。
有る者は町の特産品の葡萄酒作りの手伝いに行き。有る者は毛糸を使った編み物工房を手伝い。そして有る者は羊飼いの仕事に就いた。
エレナは女の子だったが羊飼いの仕事を割り振られた。
エレナが修道院に来たのはもう六年も前の事だった。
その頃、国は戦をやって居て、エレナの様な戦災孤児が沢山いた。
その為に女の子の仕事が足りなくて、本来は男の子の仕事だった羊飼いの仕事がエレナに回って来たのだ。
強い日差しは紫外線を容赦なく降り注ぎエレナの髪を赤く染め、その顔に他の羊飼いの少年達同様に雀斑を散らす事に成った。
エレナに付き従う様に一匹の犬が居る。
エレナが羊飼いの仕事を始めた時は立派な牧羊犬だったが今はスッカリ老いぼれてしまった。
名前はバロン。
名前は大層だがこの頃は老いぼれて腰を抜かす事が多くなった。
もう十歳は越えているだろうが代わりの犬を用意する気にはエレナには成れない。
バロンとエレナは共に時間を過ごしバロンは老いぼれエレナは十六歳に成っていた。
エレナは村を周り、カラン・カランと鐘を振って羊を集める。
鐘を鳴らせば勝手に羊が柵を越えて集まって来る。
集まった羊を連れて山へ行き、美味しい草が有る所へと連れて行ってやる。
日が沈む頃、また村へ戻ると羊はそれぞれの家に戻り、家の脇にある柵へとエレナが入れてやるのだ。
その時に羊の飼い主から代金を貰う。
教会の仕事だから基本は浄財の様な物だ。殆どが小銭でたまに食べ物やお菓子が貰える事もある。
貰った物は全て修道院へ納めなくては成らないが、そこは要領だ。
お菓子等は道すがら彼らのお腹の中へと消えるのが常だった。
その日もアンナおばさんからパイを一切れ貰った。葡萄のジャムがたっぷりと塗られたパイだ。去年の秋に羊のお産を手伝ってから、時折駄賃のとは別にお菓子を貰える様になった。
エレナは丁寧にお礼を言うと大事に布で包んでカバンへと入れた。
帰り道に隠れる様に脇道へと入り。バロンにも一口、割り分けて渡す。
取り分を遣らないと帰ってから、しつこくバロンが吠えるので、ばれてしまう。
育ち盛りのエレナには修道院の食事だけでは足らない。
いつだってエレナはお腹を空かしていた。
多感なエレナの悩みは他にも有った。
修道院が世話をするのは子供だけだ。
大人に成れば結婚するか修道女に成るか選ばなくてはならない。
残念ながらエレナには結婚相手は居なかった。
エレナ達、孤児の面倒を見てくれているシスター・マリンは結婚なんて、こりごりだと言っていたが先輩の孤児達は皆、誰かに貰われて行くか結婚して村で住んで居る。
十六の痩せた少女を今更、養女に貰おうとする奇特な大人は居ない。
結婚しか無いと思っているが村の男達はエレナを欲しがらなかった。
エレナは痩せては居たが決して醜くは無い。女としての魅力に乏しいのは認めるがどうして縁談話の一つも出てこないのか? が悩みの種だった。
「雀斑のせいかな」と独り言ちる
暗くなる前に戻ろうと腰を上げてバロンに帰っても吠えるなと念を押すと帰路に就いた。
【山を目指して】
修道院で皆で夕食を済ませると小さな子供達の世話がエレナの仕事だった。
何時の間にか一番の年長に成っていたエレナは孤児達のリーダー株だ。
小さな子供達を絞った布で体を拭いてやり、寝る前にはトイレに連れて行ってやらねば成らなかった。
暗い修道院のトイレへの道は怪談話の宝庫だ。
小さな子供達を纏わり付かせ一緒に大きな声で歌を歌いながらトイレへの道を進む。
皆のトイレが終わって部屋へ戻るまで歌い続けろと子供達に毎日せがまれるのがこの頃、苦痛だったがオネショなどされると、その後始末もエレナの仕事だったので我慢していた
自分の体も拭き、やれやれと寝床に入った時、扉が開いてシスター・マリンに呼び出された。
「仕事着に着替えて礼拝堂に来るように」と言う。
碌な話では無いだろうと予想出来たので着替えると犬小屋で寝ていたバロンも起こして道ずれにした。
パイの件がバレたのだろうかとビクビクしながら礼拝堂の扉を開けた。
シスター・シャロンとシスター・マリンが礼拝堂に居た。
シスター・シャロンは教会主の資格を持って居てこの修道院を預かっている。
名前はお洒落だがもう七十歳は回ったお婆さんだった。
彼女達に向かい合う様に三人の男達が座っていた。
エレナは怪訝な顔をした。
この修道院は子供意外は男子禁制のはずだ。夜中に男を迎い入れる事など無い筈だった。
それでもエレナは軽く頭を下げると「参りました」とシスター達に挨拶した。
男達は皆、エレナを見た。
一人は三十手前だろう歳の男だった。鼻の下にコールマン髭を生やしていた。
仕立てのいい服の下に皮のベストを着て腰に剣を下げている。
もう一人は大分歳を食ってそうだがハッキリとは判らない。
額に幾筋もの深い皺が有り顔中髭だらけだった。
大きな体に此方も仕立ての良さそうな上着とズボンを履いて居る。
もう一人はエレナと対して変わらない若者だった。
粗末な衣装で二人に控える様に座る若者をエレナは二人の下男だろうかと思った。。
怪訝に思っているとシスター・シャロンが説明してくれた。
「この方々は至急に貴方にお仕事をお願いしたいそうなのよ」と微笑みを浮かべてシスター・シャロンは言った。
エレナが頷くとシスター・マリンが「ちゃんとお返事をしなさい」と注意してきた。
慌ててエレナが「はい」と答える。
二人ともバロンを連れて来た事には注意しなかった。
バロンはエレナの後ろで大人しくお座りをしている。
話の内容はこうだ。
彼らは大至急、山を越えてスパ・センスの町まで行かなくては成らない用事が有るそうだ。
内容は話せないが兎に角急いでいる。明日まで待てないらしい。
今からエレナに彼らを案内して山を越えてスパ・センスの町まで案内してほしいとシスター・シャロンは言った。
エレナは口籠りながらも何とか返事をした。
「シャロン様、夜に山を越えるのは危険では無いでしょうか? ロボが出るかも知れません」と何とか断ろうとシャロンに成るべく哀れそうに訴える
「承知しています。だからこそ貴方にお願いして居るのですよ」とシャロンが言う。
「何度も山を越えてスパ・センスの町へ行き来しているエレナならばボロの事も良く知っているし対応策も私達より詳しいでしょう。今から山を越えてスパ・センスの町に行けるのは貴方を置いて他には居ないと私は思っているのですよ」と畳みかける様にシャロンは言った。
どうやらエレナが行く事は決定事項の様だった。
確かにエレナは孤児達の中で年長と言う事もあり何度も手紙や荷物の配達で山を越えてスパ・センスの町へと行き来している。しかし、夜中に行く事など今まで一度も無かった。
そこでコールマン髭の男が「ロボとは? 」と聞いて来た。
シャロン様がエレナに説明する様にと促す。
「狼です! 」とエレナは答えた。
今から超える山はアニエレボと言う山で其処を根城にしている狼の群が居る。
そこの群れのボスが賢狼ロボと呼ばれる狼だった。
彼らは月に一度か二度、大きな狩りを行う。
そろそろ、その時期に来ているとエレナは言った。
男達は互いに頷き合い「よかろう! 」と言った。
「それ位ならどうと言う事も無い。心配するな娘」とコールマン髭が笑いかけて来る。
エレナは少しも安心出来なかった。
慌ただしく準備され、エレナ達四人は夜のアニエレボ山へと昇って行った。
髭の二人は馬に乗っていた。お付きの若者は徒歩だ。
その周りをバロンが羊を追う様に走り回り隊列を乱さない様にしていた。
彼らは名前も明かさなかった。
どの様な重大な理由が有って行くのかは知らないがエレナを巻き込むのは止めてほしかった。
気乗りはしなかったが行くしかないと思い。エレナはロボに付いて歩きながら彼らに説明する。。
「昔は何人もの猟師がロボを狩ろうと森に入って行きましたが、誰もロボを狩れなかったそうです。」
ロボは賢くどの様な罠にも掛からず。猟師達を躱して逆に猟師達を襲ったとエレナは言った。
ロボは固い剛毛に覆われて居て剣では倒せない。
先が鋭い槍か矢でないと傷を付ける事も出来ないと言われていると説明した。
「旦那様がたは弓か槍はお持ちですか? 」とエレナが訊くと彼らは持って居ないと答える。
落胆したエレナはバロンを呼び戻した。無駄な体力を浪費させたくなかったのだ。
顔に出て居たのだろう。隣を歩いて居た下男が「心配するな。旦那達は恐ろしく強いのだぞ」とまるで自分が強い様に言う。
その時、遠くで狼の遠声が聞こえた。
エレナはその声を不安そうに聞いた。
コールマン髭がエレナに聞いて来た。
「アニエレボ山の頂上は岩ばかりの場所だと聞いて居る。反対側は森、こちら側が牧草地に成っている。一つの山でどうしてこの様に地形が分かれて居るのか?」
不思議そうに聞く騎士にエレナは説明した。
昔は山全体が森だった。それを人が切り倒したのだと話した
町を作り、幾つもの村を人は作った。
木材を此処で切り出し海老川を使って運んだのだ。
アニエレボ山を境に昔は国境だったのでスパ・センス側は手付かずに残された。
今は防衛上の理由から森が残されていた。
海老川とは麓に流れている川だ。本来は尤もらしい名前らしいが土地の者は皆、海老川と呼んでいた。
それを聞いてコールマン髭は成程と納得したが、広々と開けた山肌に人の欲深さを感じたのか眉を潜めた。
人の欲が森を消したのだ。
色々と考えてしまったのだろう。
「旦那様方はロガチョブの町からいらしたのですか? 」とエレナが訊くと。
年嵩の騎士が「余計な詮索は止めよ! 」と言った。
エレナの心はこの一言で決まったのだった。
先ほど狼の声が此処まで聞こえた。
恐らく今夜、ロボの狩りが有るとエレナは思っている。
このまま、彼らをロボの狩り場に連れて行こうとエレナは考えていた。
彼女はロガチョブの貴族を憎んでいたのだ。
六年前、この国は隣国クリンツィと戦をしていた。
その戦に追われてエレナの両親はこの辺りに逃げて来た。
町や村は両親を拒んだ。難民が多く全ての人を受け入れる事など出来なかったのだ。
仕方なく両親は海老川沿いに家を建て其処に暮らし始めた。
当時、海老川沿いには、その様にして行き場を失った人々が五軒、六軒と小さな集落を川沿いに幾つも作って暮らしていた。
両親はそんな集落の一つで小さな畑を耕して慎ましく暮らしていた。
そんな折、スパ・センスに国境を接するアスタート国が突然、戦に参戦して来たのだ。
国境の町スパ・センスは防衛の為、山向こうの町ロガチョブの町へ救援を求めた。
求めに応じたロガチョブ領主マズィル卿は援軍を出してアニエレボ山まで進軍した。
しかし、スパ・センス側不利の情報がロガチョブ軍に入ると何とマズィル卿は撤退を指示した。
それのみならず撤退時、海老川沿いの集落を残らず襲撃し灰塵と化した。
エレナはどうして自分の領地に有る集落をマズィル卿は襲ったのかは知らない。
ただ、ある日集落の家々が炎に包まれた。
家には食糧の保存用に床下に穴が掘られていた。瓶や壺に漬けた野菜などを保存する小さな穴だ大人は入れないが十歳の子供なら何とか隠れる事が出来た。
両親はそれらの食糧を取り出すとエレナを其処に隠した。
誰かが出してくれるまで絶対に出ては行けないと父親から、きつく言い付けられた。
エレナの家にも火が点けられた。
燃える家から逃げたした人は襲撃者に切り殺される。
両親は燃える家の中で焼け死んで居たそうだ。
エレナを見つけたのは町の修道士だった。
焼け落ちた集落を片付けて居た時にエレナを発見したのだ。
修道士が驚いたのは無理無かった。ロガチョブ軍、襲撃から既に五日が建って居たのだ。
エレナは父親の言い付けを守り五日間も穴の中で耐えていた。
それからエレナは町の修道院で保護された、エレナの様な戦災孤児が修道院には沢山いた。
唐突に戦が終わるとエレナはアニエレボ山の中腹にある修道院に預けられ以後、羊飼いに成った。
この時のロガチョブ軍の暴挙をこの辺りの民は忘れては居ない。
エレナに取っては両親の仇にも等しい。
『ロガチョブの貴族など狼に食われて死ねば良いのよ』とエレナは思った。
【アニエレボ山、頂上へ】
年嵩の騎士に詮索するなと注意されてから、エレナは一言も言わずに黙々と山を登って行った。
其れを見てコールマン髭の男が年嵩の騎士を見る。騎士は肩を竦めて首を振った。
どうにも田舎の者は意固地な所が有ると年嵩の騎士は思った。
片意地を張るとか頑固だとかその様な偏屈な者が多いと彼は思っている。
この娘もそうなのだろう。
道案内と仲が悪いのは問題かも知れないと思い少し話を振ってやるかとエレナに話しかけた。
「おい、娘。 ロボとはどの様な狩りをするのだ? 」
エレナは「追い込み猟です」と答えた。
群れの手下が山裾から頂上へと獲物を追い立て、頂上ではロボ達、狼の猛者が数頭待ち構えている。
逃げ場の無い頂上付近でロボ達が獲物を一網打尽に食い殺すのだと説明した。
騎士は感心した様に「成程、それで賢狼などと呼ばれているのか」と言う
エレナは首を振ると違いますと答えた。
狼が狩りをすると森が騒がしくなり麓の村でも狩りが始まった事が直ぐに判る。
翌朝、村人達は荷車を引いて山を登り、ロボ達が食べた獲物の食べ残しを取って来るのだとエレナは言った。
貧しい村に取って狼達の食べ残しは貴重なタンパク源だ。
その為、村人達はロボを狩ろうとはしないし狩ろうとする者を止めるのだとエレナは言った。
村人達と狼は不思議な共存関係を築いて居た。
その共存関係を築いたからこそ賢狼と呼ばれていると説明した。
今、通って居る道も何度も村人達が頂上へと往復して出来た道だった。
此のまま道に沿って進めば迷う事なく頂上へと出られる。
コールマン髭の騎士が難しい顔して唸った。
「それでは我らがロボを倒しては村人に恨まれるな」と真剣に悩んでいると若い下男が笑い出した。
「気にする事はないでしょう。 ロボを倒せばスパ・センスの町への行き来も楽に成ります。肉が欲しければ自分で狩れば良いのです」と気軽に答える。
エレナはやれやれと言う様に首を振った。
頂上へと近づくとエレナは次第にソワソワとしだした。
不信に思った年嵩の騎士が「どうした」と聞くがエレナは首を振り何でもないと小さく答える。
可笑しな奴だと年嵩の騎士はエレナを無視した。
若草が茂った地帯を通り抜けると周りは岩や石がゴロゴロと転がった荒れ地に成った。
道こそ整備されていて岩が退けられているが道から外れると馬で通るのは無理そうだった。
この辺りの石を使って修道院などは建てられたのかもしれないとコールマン髭の騎士は考えた。
いよいよ頂上だと思って見上げると一際大きな岩に灰色の狼が佇んでいた。
大きな体にフサフサとした尾を持って居る。金色の目が夜目にも判った。
此方を見ている。
その狼の周りにも数匹の狼が控える様に現れた。
道は一本道、引くか進むかしかない。
コールマン髭の騎士は傍らの年嵩の騎士に目配せすると剣を引き抜き狼達が待ち受ける頂上へと馬を駆ける。
年嵩の騎士もそれに続き駆けて行く。
下男はエレナの手を引くと道の脇へと入り近くの岩陰へと身を隠した。
エレナは下男の手を振り払おうとするが意外に力強よい下男の手が離れない。
下男は「何をしている! 」と怒鳴るとエレナは「逃げるのよ! 」と怒鳴り返した。
二人がロボに敵う訳ないとエレナは言った。
今の内に逃げなくては明日の朝にはお肉に成っていると下男に言うのだが下男は離さない
「お前を逃がす訳には行かない。頂上の向こうには道が無いのだろう? 」と下男は言った。
その通りだった。
道は頂上までだ。
その先は道なき道を掻き分ける様に進むしかない。
迷わずにスパ・センスの町に辿り着くには土地の者の案内が必要だった。
逃がすものかと力を強める下男にバロンが激しく吠える。
エレナは焦って居た。まだ狩りは序の口だ、始まっても居ないかもしれない。
狼の手下は山すそに散っている。今が逃げる好機だった。
逃げようとするエレナと逃がすものかと手を引く下男の前に一匹の狼が現れた。
頂上への道を背に現れた狼に下男の男が短剣を引き抜くと対峙した
その隙に男の手から逃れたエレナは頂上を回り込む様に逃げて行く。
毎日、山を登り降りしているエレナの足はゴツゴツとした岩場にも負けずにエレナを運んだ。
下男が「エレナ戻れ! 」と叫ぶがエレナは聞いて居なかった。
戦いから逃げる様に進むエレナは気づけば山の反対側、スパ・センス側の斜面に出てしまった。
意を決したエレナは其のまま転がる様にスパ・センスの森へと駆け下る。
岩場を抜けて森林地帯に入ると大きな木を探した。
木に巻き付いている蔦を緩めて引っ張ってみるが切れる様子は無かった。
蔦をバロンの胴体に結びエレナは木に登る。枝に腰掛けるとバロンを引き上げた。
ゼイゼイと息を吐きながらも体は震えていた。
バロンを抱きしめて震えを押さえようとしたがバロンが暴れる。
なだめて居るとバロンが激しく吠え始めた。
頂上からコールマン髭と年嵩の騎士が駆け下りて来るのが見えた。
下男の男もエレナを追って此方に向かって来る。
バロンの吠え声で場所がバレてしまっていた。
コールマン髭の騎士はエレナに「降りてこい逃げるぞ! 」と言った。
逃げる事には賛成なので渋々エレナは木から降りた。
どうやら馬を狼に遣られたらしい。
その隙に彼らは頂上からこちら側へと抜けて来た様だった。
下男の男も狼を牽制しつつ騎士達の後を追って逃げて来たそうだ。
下男はエレナを責めた「この女、俺達を見殺しにして自分だけ逃げようとしたんですぜ」
とエレナを指さす。
「今はそんな事は後だ」とコールマン髭が言うと山を下って行った。
皆がその後に続く。
山頂が見えなく成るとやっと四人は立ち止まり息を整え始めた。
「参ったな。 馬を取られた」とコールマン髭が愚痴る。
「思いのほか、強敵でしたな、あの狼ども」と年嵩の騎士が仕方なかったと慰めた
「どうすれば良いのか」とコールマン髭がエレナに聞いた。
狼の手下が山裾から獲物を追って山を登って来る。
五合目辺りならば狼の網も荒いので抜けられるが七合目辺りに成るともう抜ける事は出来ない。山頂に追いやられるか、そこで噛み殺されるかするだろうとエレナは答えた。
「直ぐに山を降りなくては成りません」とエレナは訴える。
四人はエレナを先頭に山を下りだした。もう騎士達も狼を侮る様な事は言わなかった。
【五合目へ】
狩りは始まったばかりだ、五合目まで何とか下れば生き残れる可能性が大きい。
焦りながらもエレナは下る道を探した。
夜の森で崖にでも出れば万事休すだ。見知った道を下らなくてはならない。
夜に森を下るのはエレナに取っても初めての経験だった。
周りは見覚えの無い所ばかりであっさりとエレナは道に迷ってしまった。
他の三人に迷った事を知られるとどんな事を言われるか判らない。
何とか誤魔化そうとするが目敏く下男の男が不信の目を向けてエレナに聞いて来た。
「おい、さっきから同じような所を行ったり来たりしてないか? 」
「そ、そんな事はないわよ」と明らかに挙動不審な態度でエレナは答えた。
「まさか、迷ったのか? 」とコールマン髭がエレナを見る。
エレナは観念して「ちょとだけ、迷った見たい」と誤魔化し笑いをした。
「役に立たねー 」と下男が愚痴る。
「兎に角、山を下ろう」と年嵩の騎士が言うと「そうだな」とコールマン髭が頷いた。
今度は年嵩の騎士が先頭に立って山を下って行く。
エレナは森には崖が多く見通しの悪い夜の森では簡単に崖から落ちてしまうと年嵩の騎士に注意した。
「判った」と騎士が言った途端に騎士の姿が消えた。
背丈ほどの林を抜けようとしたら足元に地面が無かったのだ。
騎士は二メートル程の崖を滑り落ちていた。
「だから言ったのに」とエレナは呆れた。
「お前が言うか」と下男がエレナを馬鹿にする。
「運が良かったな。もっと落差が有ったら怪我ではすまん所だった」とコールマン髭が言った。
男達が崖から飛び降りてエレナは崖にしがみ付く様に降りた。
幸い年嵩の騎士には怪我が無かった。
ほっとした空気の中、遠く狼の遠吠えが聞こえる。
次第に森が騒がしく成って行った。
狩りが始まっている。
山頂で出会ったロボ達が追って来なかったのは狩り場を離れられないからだろう。
まだエレナ達は精々八合目辺りだ未だ安心できる状況ではない。
コールマン髭が「危険だが兎に角、降りよう」と言う
エレナが「お待ちを」と言うとバロンを呼んだ。
エレナがバロンを受け止めようとしたが、バロンはエレナを信用しなかった。
崖を大きく回り込んでエレナの所に走り込んでくる。
「賢い犬だ」と下男が言い。二人の騎士が頷いた。
エレナは渋い顔をしながらも思い出した。
バロンもスパ・センスの町への道を知っている。
エレナはバロンに「スパ・センス」と言うと行けと指示を出した。
バロンは仕切りに地面の匂いを嗅ぎながら進みだす。
エレナはコールマン髭の騎士に付いて行きましょうと言った。
「どこかの女より犬の方が役に立つとはな」と下男が嫌味を言ってきた。
エレナは下男を睨むが何も言わなかった。
森が騒がしく成って来た。
狼達の吠え声はまだ遠いが森全体から聞こえて来る。
エレナは森が揺れている様な感覚を味わっていた。
何かが走る足音が聞こえたと思ったら大きな鹿がエレナ達の脇を走り抜けていく。
エレナは「隠れましょう! 」とコールマン髭に言った。
鹿の後には狼が居るはずだ。
各々がバラバラに木の陰に身を潜めた。
エレナは息をするのも気が引ける様に身を縮めて居ると、数頭の狼が鹿を追う様に山を登って行く。
上手く遣り過ごせた事にエレナはホッとした。
同じように安堵の表情をする下男にエレナは未だ安心出来ないと言った。
狼達は少しでも多くの獲物を得ようと何度も山を上り下りするのだとエレナは言った。
「つまり、今通り過ぎた奴らが今度は俺達の背中を襲うかもしれんと言う事か? 」
と年嵩の騎士が訊く。
エレナは頷いた。
「俺達は狼の狩場の真っ只中に居るのだ。気を引き締めて行こう」とコールマン髭が言った。
暫く下るとエレナは見覚えの有る道へと出た。
「やった、道に出たわ」と喜ぶエレナを騎士達は怪訝な表情で見た。
エレナが道だと言う道は良く言っても獣道だった。
一見、道とは思えない代物で容易く踏み外してしまいそうな道だった。
エレナは喜びドンドンと進んで行く。
騎士達も文句は言えない。エレナに付いて進んで行った。
「今度は迷うなよ」と下男が言うのへ「馬鹿にしないでよ! 」とエレナがかえす。
エレナが先頭で次に下男、コールマン髭が続き年嵩の騎士が殿を務めた。
突然、エレナの足が止まる。
前に何かが居た。
木の陰から一匹の狼が姿を現した。
後から次々に狼が現れエレナ達の前を塞ぐ様に牙を見せて威嚇してくる。
バロンは腰を抜かして尻を地面に着けたまま後ずさりしながら器用に吠えた。
コールマン髭が前へ出ると剣を抜く。
「数は4頭、倒すぞ! 」と年嵩に騎士に声を掛ける。
エレナはバロンを抱き上げると下男と一緒に木陰に隠れる。
今度は下男に逆らわなかった。
初めて見る狼と騎士達の戦いにエレナは目を見開いた。
確かに下男が自慢するだけの事はある。
素人目にも見事な体捌きで狼の突進を躱し剣でその胴を叩く。
剛毛が邪魔で剣では倒せないとエレナは聞いて居たが騎士達の剣は見事に狼を切って見せた。
二人の騎士は狼と擦れ違いざまに二頭を倒し二対二の戦いに持ち込んでいた。
エレナが勝てると思った時、背後から新たな狼の一団が現れた。
前に大きく出た形の騎士達とエレナ達は狼に依って分断されていた。。
そのエレナ達の背後から狼が現れたのだ。エレナ達だけを見れば挟み撃ちにされている様な物だった。
下男は頼りに成るのだろうかと不安げに見れば、下男は悲壮な顔で震えていた。
「ラルクこっちへ来い! 」とコールマン髭が下男を呼ぶ。
真っ青な顔をしながらも短剣を引き抜くとエレナの腕を空いた手でしっかり掴みエレナを引き摺る様に狼へと向かって行った。
前方の狼は騎士達に向いて居る。ラルクから見れば狼の背後から近づく形だ。
エレナは嫌がり尻もちを付きながらも足で地面を踏ん張ったがラルクは構わずに文字通りエレナを引き摺って騎士達の元へと向かう。
前方の狼達がラルクへと向きを変えると同時に騎士達が狼へと突っ込んで行った。
此処だと言うように素早く騎士達は狼を倒してしまった。
後ろからの狼の一団が警戒したのか騎士達を遠巻きにして見ているが
恐ろし気な唸り声を上げ、狼達がエレナ達を諦めた様子は無かった。
油断なく剣を構えるコールマン髭と年嵩の騎士を取り囲もうと移動を始める狼。
その時、鐘が鳴った。
金属の甲高い音に狼達が怯む様に後ずさる。
エレナが何時も下げているカバンから鐘を取り出して振っていた。
カラン・カランと乾いた音がしていた。
エレナは鐘を鳴らし続けていた。
「戦わずに逃げましょう。戦えば他の狼が寄ってきます」とエレナは言った。
コールマン髭は「解った」と言うと走り出そうする。
「走っては行けません! 」エレナが叫ぶ様に言うとコールマン髭は立ち止まる。
「走れば襲って来ます。歩いて逃げるのです、止まっても行けません転んでもダメです。」
エレナはそう言うと立ち上がりバロンを呼ぶ。
鐘を鳴らす為にバロンを手放していた。
バロンは腰を抜かしたままでエレナが呼んでも動けない様だった。
「バロン! バロン早くこっちへおいで! 」とエレナが呼ぶがバロンは悲し気にクークーと鳴くばかりだった。
コールマン髭は「犬は捨てろ! 早く行くぞ」とエレナに声を掛ける。
途端にエレナはポロポロと涙を零して泣き始めた。
それでも鐘を鳴らすのは止めないがエレナも動く気配が無い。
「バロン! お願いこっちに来てぇ! 」泣き声でバロンを呼ぶ。
流石に此のままでは不味いと思ったのだろう年嵩の騎士がバロンを抱き上げてくれた。
「これで良いだろう。さっさと行くぞ」と年嵩の騎士が言った。
エレナは何度も頷きながら山を下り始めた。
狼達は一定の距離を開けてエレナ達の後を付いて来た。
カラン・カランと鐘の音を鳴らしながらエレナは歩く。その後ろに下男のラルク、コールマン髭と年嵩の騎士が続いた。
バロンは今、ラルクに抱かれている。
ラルクが「やつらずっと付いて来るぞ」とエレナに言う
「送り狼ってやつよ」とエレナが説明した。
奴らはエレナ達を襲うタイミングを逸して居たが諦めては居ない。
だから付いて来ているとエレナは言った。
だが、上手く行けば頂上では獲物が待っている、どこかで諦めて頂上へと向かうだろうとエレナは言った。
「上手く行かなければ? 」とコールマン髭が訊く。
「襲って来ます、傷つけば仲間を呼ぶでしょう」
走ったり、止まったり、転んだりすれば狼はチャンスだと思って襲って来る。
狼が諦めるまでそのチャンスを与えない様にするしかないとエレナは答えた。
山道はデコボコしている。下り坂は滑りやすく転んでは行けないと思うと一歩毎に緊張してしまう。
自然と皆、口を利かなくなりエレナが振る鐘の音だけが森に響いた。
唐突にコールマン髭が喋りはじめた。
「娘、栄誉に思え。 お前を守って居るのはモスコールの英雄、ランディ・カーチス様だ。
カーチス家次期当主なのだぞ」と言った。
モスコールとはエレナが暮らす国の名前だ。
エレナは振り向き、驚いた顔をした。
カーチス家は知らないが英雄など見た事は無かった。
年嵩の騎士が慌てて止めようとしたがランディは良いと言った。
「万一にも娘が死んだ時に誰と一緒だったのか知らないのでは不憫だろう」とランディは言う。
やれやれと年嵩の騎士が首を振り「ならば、私も名乗りましょうかな。我が名はエルビス・ストーク。カーチス家一の騎士だ」と名乗った。
それに倣う様にラルクも名乗る「俺は英雄ランディ・カーチス様に付き従う従者ラルク様だ」
エレナは感心するように「ラルクは下男だと思っていたわ」と謝った。
下男と聞いてラルクは苦い顔に成り、ランディとエルビスは大笑いした。
「下男も従者も似たような者だろう」とランディが揶揄う。
ラルクは「全然ちがいますよぅ」と何処か気落ちしたように抗議した。
下男は平時、貴人の身の回りの世話などをする下働きだが、従者は違う。
戦場でも主に付き従い主の為に尽くす者だとエレナに言った。
エレナには違いが良く判らなかったが「凄い凄い」と言ってやった。
ランディのお蔭で道行は緊張しながらも余裕の様な物が生まれていた。
何時の間にか森が白み始めていた。
スパ・センス側はエレナが住む修道院より夜明けが早いのだなとエレナは思った。
気が付けば狼達の姿が消えていた。
皆、大きく息を吐き町へと急いだ。
バロンの腰も治ったようで今はエレナの隣を歩いて居る。
無事に辿り着けそうだと、やっとエレナは微笑んだ。
【町へと渡る橋】
街外れに川が流れている。その川に掛かって居る橋を渡ればもうスパ・センスの町だ。
橋を渡ると直ぐにラルクは「馬を探してまいります」とランディに言うと町へと駆け出して行った。
橋のたもとでランディはエレナに「ご苦労だった。これから、その方は如何するのだ? 」と聞いて来た。
エレナは教会を尋ねる事に成っていると答えた。
手紙や荷物が溜まって居るかもしれない。もし手紙等が有ればエレナが運んでやるのだ
スパ・センスの教会は山を越えないとエレナは愚痴った。
スパ・センスの教会とロガチョブの教会とのやり取りはエレナ達が請け負っている。
ランディはそうかと言うと皮のベストから一枚のコインを取り出した。
金色に輝くそのコインを駄賃だと言ってエレナの手に握らせてくれた。
大男のエルビスがエレナより驚いた。
「宜しいのですか? 」とエルビスがランディに問う。
「構わん、確かにこの娘は我らの為に命を懸けたのだ。その位の褒美をやっても良いだろう。おっと、バロンもだな」と笑った。
まだ、納得しきれないエルビスだったが主人が良いと言うなら仕方ない。
キョトンとしているエレナにエルビスはそれが何か知らないのかと聞いた。
エレナは「知りません」と答えた。
エルビスはその大きな両手でコインを握っているエレナの手を包み込んだ。
視線をエレナと合わせると「それは金貨だ! 」と言った。
エレナは驚いて体を硬直させた。
エレナは金貨など見た事が無かったしその価値を正確には理解して居なかった。
だが大金だとは判っている。この辺りなら家でも家畜でも何でも買える。
途端にエレナは挙動不審になりだす。
溜め息まじりにエルビスはエレナを厳しく見つめると
「娘。良く聞くのだ」と話し始めた。
その金貨を誰にも見せては成らないとエルビスは言った。
エレナは訳が判らず嫌々をする様に首を振る。
「それはお前には過ぎた財なのだ」とエルビスは言う。
「もし、お前が気軽にその金貨を使って華美な衣服や贅沢な食事をするならば必ず、お前は後悔するだろう。何故なら金貨を使った途端にお前に災厄が訪れるからだ。
お前の様な娘が大金を持って居ると周りの大人達が気付けばお前から金を奪おうとする。
必ずだ、保証する」
真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめて来るエルビスがエレナは怖かった。
何とか逃げようと腰が引けたがエルビスは手を離さない。
「その金貨をお前はお前の為に使っては成らない。何故ならお前はその金貨を守れる力が無いからだ。その金貨を使う時はお前とその金貨を守ってくれる人の為に使うのだ」
とエルビスは言うがエレナには訳が判ら無かった。
「お前の財を守ってくれる人が現れるまで、その金貨は誰にも見せず、持って居る事も気付かれてはならん」とエルビスが言うとやっとエレナの手を放してくれた。
エレナは良くエルビスの話は判らなかったが「決して誰にも見せません」とエルビスに約束した。
エレナは金色のコインがとても怖い物の様に思えた。
程無くしてラルクが馬を二頭引き連れて戻って来た。
二人の騎士は馬に跨り一人の従者を従えて朝のスパ・センスの町へと消えて行った。
エレナは教会へと向かい、そして何時もの日常へと戻って行った。
エレナがランディ達の噂を聞いたのはランディ達を送った日から三か月が経ってからだった。
スパ・センスの城で英雄ランディがたったの三人で謀反を暴き、その暴挙を未然に防いだと田舎の修道院にまでランディ達を称える噂が伝わって来た。
しかし、一晩の冒険とそこに居た少女の事は何も語られて居なかった。




