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1 ロリへの扉・6

「シーリン統括官?」


 名を呼ぶが、返答は聞こえず、代わりに通信相手の音声ではない、生の声の群が、耳を揺らした。

 怒声や叫び声といったものがホールの外から次々に聞こえてきていた。先に突入した正面扉の残骸の向こう、夜闇と人口の灯りの交差するビルの敷地の更に向こう、規制線の外から、突き上げるような大声が次々に上がり、反響し、野太く叩きつけるような声となってエントランスにまで響いている。


「一体、どうした」


 手近な警官の一人に声をかけるが、突入用の防護アーマーに身を包んだ警官もまた困惑し、マスクとメットで覆った頭を軽く横に振っただけだった。

 同時に外の様子を確かめるためにWLOと現地警察協同のリアルタイムの現場情報を確認する。ビル敷地の監視カメラが写している映像にアクセスすると、ちょうどそこに、叫びを上げる人々が映っていた。事件開始から集まり始め、未だにそれなりの人数のいる野次馬、見物人たち。流れ弾の当たらない、ビルからそれなり以上に離れた地点に敷かれた規制線――ポールとその間に渡された立ち入り禁止の折りたたみ式即席柵だ――の向こうに蠢く群衆が大きく身体を動かし、声を張り上げている。


(全員じゃない)


 気がつき、目を細めた。叫びを上げているのは、群衆の中でもロリ化した人間たちだけだった。未ロリ人である男性や老人などは突然の変化にただ戸惑っている。

 そしてそこまで見て取った時点で、更に変化が起こった。

 叫びを上げる群衆が、柵に手をかけ足をかけ、規制線を踏み越え始める。慌てて制止しようとする警官を突き飛ばし押しのけ、なにか堰が切れたかのように、皆一斉に前進し始める。


『ヴォロージャ! 野次馬の連中を――何かが――』


 シーリン統括官の声が途切れ途切れに僕の補助機械脳に飛び込んでいた。重く響く群集の声がそれをかき消し、どんどんと大きくなっていく。

 おぞましい人数だった。ホールにまとめられた十数名の人質、二十三名の拘束された犯行グループ、僕と炉プリカントと警官隊……それら全てを足したよりも多い。

 渦巻く叫びの声が近くなり、それがどうやら皆同じ言葉を発しているらしいことに僕は気がついた。時に重なり、時にずれて発せられる叫びはどれも同じアクセント、同じイントネーション、同じ響きを持っている。


「何を言っている……?」


 呆然とそう虚空に問う。聞こえるのは、さほど長くはないセンテンスだった。

 規制線を乗り越え、警官たちを数で押し道路を渡り、ビルの敷地へ。進行する狂騒が声の圧力をどんどん高めていく。

 叫びが高まり、収束し、重なり、そして――調和する。



 ――ロリ・ロリ・ペド・タニマナシ(ロリよロリ、何故我を見捨て給うや)



「ロリ・ロリ・ペド・タニマナシ」


 ひっそりと。知らず唇が動き、群衆の言葉を口の中で繰り返して呟いていた。ロリよロリ、なぜ我を見捨て給うや。なぜ。なぜ、見捨てたか。ロリよ。

 反響する言葉の繰り返しに、一時、ホール内の誰もが静まり返った。

 陶然と、あるいはただ当然といったように、群集は声をそろえて唱え、歩みを止めずホールへと迫る。

 すぐに我に返った僕が何か声を上げようとしたとき、軽い足音が一所に集められた人質の中から聞こえた。

 振り返ると、蹲り座り込み、誰もが状況に困惑している中、一人の男が立ち上がっていた。どこか、虚空だけを見つめているような奇妙な眼光が特徴的な男だった。ロリ化はしていない、一目で男と分かる、青年然とした姿の男である。

 男は、日に焼けたような赤茶けた髪をやや無造作に伸ばしていた。細い顎や整った形の鼻がどこか神経質にも見える。着ているのは安い古着屋で流行に全く無頓着にとりあえず着れるものを選んだ、といったような適当なシャツやコートで、世界でもトップクラスの大企業たるハンバート・エレクトリックの社屋には全く似つかわしくない。実際、他の人質であるハンバートの社員のスーツや、運悪く巻き込まれたビルメンテナンス要員の作業着の中でそいつだけがひどく浮いている。

 彼はすっと真っ直ぐに立ち上がると、すぐさま足を動かし人質の群の中から抜け出した。


「おい、勝手に動くんじゃ」


 ない、と言おうとした瞬間に、男がすっと顔をこちらに向け、足を止めた。やや伸び気味な髪の間から覗く暗く、しかしどこか鋭い光を隠したような瞳が僕を見据えていた。

 そして前触れ無しに、その口を開いた。


「ヴォロージャ」


 名を呼ばれ、微かに眉をひそめる。現場の人質が自分の名を知っている道理はない。ニンフォレプトの介入はそもそも予定されていなかったことだ。

 なぜだ、と問おうとして、しかしまたしても言葉が遮られた。今度は視線ではなく、声によって。


「今この国に来るとはな。運が良いというべきなのか、あるいは逆なのか」


 ざらついた声音だった。錆付いた金属板の上を雨粒が転がるような。


「何の話だ」


 そう返すが、男はこっちの言葉を意に介さないかのように、自分の言葉を続けた。


「コンフリクトも、ロリ化の不完全さも、ロリ化そのものの扱いに過ちを混ぜ続けるものの存在も、全てがぎりぎりの状態だ」


 それから、男はすっとヴォロージャから視線を外し、歩みを再開した。


「ヴォロージャ、炉プリカントを手放すな」


 そう言い置いて、大股に迷いなく歩き出し、ホールの正面入り口へと向かう。ちょうど、迫り来るロリ化人の群集と正面からぶつかる形になる。


「止めろ、くそ、おい!」


 声を荒げ、警官が止めようとするが、その時には既に群集が入り口前までたどり着いていた。男の姿があっさりと人の群の中に埋没し消える。

 後に残るのは、ホールの中へと視線を向けるロリ化人たちの顔の群だ。

 彼女らはホール入り口で一度、足を止めた。鎮圧用のテーザーガンやゴム弾を装填したショットガンを構える警官たちの警戒をよそに、ぐるりと視線を巡らせ、そして一息置いてから――皆一斉に、駆け出した。

 咄嗟に警官の一人がゴム弾を発砲した。法的に義務付けられた手順を守らずに。だがそのことを咎めるものはいなかった。

 雪崩れ込んだ群衆は百名以上にもなろうとしていた。暴力的な足音を立てながら突っ込んでくる――先ほどまで退屈そうに遠巻きから現場を眺めるだけだった野次馬たちの群は、いまや眼を血走らせ何かに追い立てられるかのようにホール内へと突進していた。

 暴徒。群集は今やそう呼ぶしかないものに成り果てていた。

 彼女らの狙いは、すぐに判明した。彼女らは警官にも人質にも手を出さなかった。興奮した様子で声をあげる誰もが、拘束されあちらこちらに引き倒されて横たわった占拠犯へと群がろうとしていた。手に持った鞄や、あるいは脱いだブーツで、あるいは何も持たない者はその手の平で、占拠犯一人一人を取り囲み、叫びを上げながらもみくちゃにしようとしていた。必死に止めに入る警官がそのとばっちりをくらって悲鳴を上げながら銃を振り回している。


『何が起こっている――?』


 通信の、シーリン統括官の声がどこか遠くで響くように聞こえる。僕自身も呆気にとられたままで、統括官と同じ問いを抱いていた。炉プリカントと共に、狂乱するロリたちにショック弾を撃ち放ちながら後退する。

 ロリよ、ロリよ、ロリよ!

 叫びが殴打の音と共に壁を叩く。

 呻きが発砲の炸裂音と共に空気をかき回す。

 その光景は、警官や人質にとってだけでなく、僕にとっても驚愕と混乱を呼び起こすものだった。ニンフォレプトとして欧米を中心に数年間様々な場所を巡り、ロリ化関連技術やロリ化関連団体の観察・監査・制御そして時には制圧を行ってきたが、こんなことは初めてだった。

 結局。

 混乱は収まる気配を見せず、現場周辺を更に広く隔離し、警官隊の応援を呼び、暴徒全員を物理的に鎮圧する数十分後まで、ロリよロリという呪文めいた呟きの声は途切れることがなかったのだった。


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