1 ロリへの扉・4
クオリアの共有能力の発現――それが、ロリ化が人に与えた新たな特質だった。
クオリア。感覚質とも呼ばれるそれは、人がものを感じる時のその『感じ』そのものを指す言葉である。青い空を見た時のその『青いという感じ』や、高い音のその『高い音だという感じ』そのもののことを表す。
クオリア=感覚質というのはその名の通り、通常第三者に観測不可能な、個人の感覚の質そのものであり、主観的に感じているものそのもののことである。人はクオリアに囲まれ生きているといってもいい。見えている色や形の『感じ』、触れているその『感じ』、聞こえているその『感じ』――あらゆる感覚の質そのものがクオリアである。
クオリアの問題は、長らく哲学的・形而上学的な問題として扱われていたが、一方で科学的なアプローチはこの概念の扱いに苦戦していた。何せ、他者には観測不可能な主観的、個人的な体験そのものである。脳の仕組みは解明できても――たとえば見える、聞こえる、といった現象が脳のどんな部位のどんな電気信号や伝達物質の働きによるものだと解明できても、電気信号や伝達物質の流れそのものは、『見える』『聞こえる』という感覚そのものではないのだ。なぜか脳の物質的働きと感覚の生起は同時に起こっている、としか言えないのである。感覚が生起する物理的説明はできても感覚そのものは扱えない。それがクオリアの困難さだった。
目の前にいる人間が、自分と同じものを見て、果たして自分と同じ色に見えているか。同じ形に見えているか。他人が赤だと言う色は自分も赤と感じる色と、同じ『赤色』だろうか。
これは、確かめようのない問題とされてきた。他人の感覚の質は知りようがないと。同じ音楽を聴いて同じようにノれても、同じ感覚を感じているとは限らないと。
感覚そのものが、つまりクオリアが主観的な感じそのものである限り、他者とこれを共有することはできない。
だが、ロリ化がそれを覆した。
ロリ化によって若返り、少女化した人間たちは、一定以上のロリ化を行うと次々に『それ』を経験した。つまり、クオリアの共有現象を。
集中し意識することで、他者と感覚そのものを、意識そのものを重ねることが出来る脳構造。そんな信じ難いものが、ロリ化した人々やそもそもロリである一部の子供には存在した。大脳前頭葉に見出された「ロリ野」こそがその機能構造部位だった。
ロリ化した人間は、あるいはごく少数だが天然のロリっ子は、他者のクオリアをそのまま自ら感じることができる。初期にロリ化した人々からそんな声が上がって一年ほどは、それは錯覚だと思われていた。他人の感覚はあくまで他人のものであり、彼女らの感じたものは単なる一般的な共感能力であり他者の気持ちを想像しているに過ぎないのだと。
だが徐々に事実が明らかになる。クオリアの共有についての報告数が凄まじい数に昇り、もはや集団幻想やヒステリーでは片付けられなくなって、人類はそれを認めざるを得なかった。
勿論、クオリアは第三者からは観測できない。ロリ化人によるクオリア共有の報告も、それを完全に裏付けるのは難しかった。だが数百万以上の初期ロリ化人がそれを訴え、実際実験により彼女らが他者の感じているものを極めて正確に感じられることが明らかになってくると、ロリ化という技術の意味合いは変わってきた。クオリアを共有する際、脳のロリ野は活発に活動し、あたかもその部位で他者の脳をエミュレートするかのように働くことが判明し、更にこの現象の信憑性は増した。
「そもそも子供というものは、確立しきった自我を持たない」といった言説はロリ化技術が出現する以前から存在した。自意識の芽生え、認知機能の発達、自我の形成。大人に至る過程にある子供はこれらが未発達であり、そしてそうであるが故に大人が感じることを忘れてしまった様々なものを持っている、と、そんな言葉は繰り返し世界中で語られてきた。
ロリ化とクオリアの共有もまたその一つだと、ロリ化技術の研究者はそう語った。自我が大人より曖昧である子供、言語機能が発達しきっていない子供。子供という存在はだからこそ、必然的に「自分と他者」の境が大人より曖昧であるのだ。そもそも「自分」という言葉を所有しなければ自分も他人もない。あるのは世界というただ一つの塊だ、という事実は、はっきりとした自我と言葉を持つ大人にとっては論理として理解できても実感するのは難しい。だが、子供なら? そしてより細かく調整された、理想的な「ロリっ子」ならばどうか?
ロリ化は、人をロリにする。遺伝情報も臓器も、そして脳も含めその全身をロリ化する。かくして人はロリとなり、同時に小学生~高校生程度の物理的身体となる。
結果、子供に還った脳がそれ得る。他者が自分であることの理解と実感を。他者の感じていることを、他者=自己として感じることを。
他者との、本当の意味での共感能力。これは、人体の老化の抑制など比較にならないほどに劇的に社会と個人を変える能力だった。
個人が個人であること、個我が個我であることのストレスや無理解、相互理解の困難さからのある程度の解放が起こったのだ。
最早ロリ化人にとって、友人や恋人が何故悲しんでいるか分からないといったような問題は瑣末な問題に成り果てていた。その悲しみの原因も深さも、クオリアの共有によって知り得る事となった。不幸のすれ違いは減り、理解が次の理解を呼んだ。他者との相互理解の体験が、クオリア共有を行っていない人間への想像力も豊かにさせた。他人の悲しみや喜び、価値観の違い、立場の違いを踏まえてその心を想像し言葉をかけることがより容易になった。
またロリ化賛同国内においては自殺・他殺率が急激に減少した。自分が自分であることの圧からロリ化によって解放された人々は、本質的に自分と言う存在が他者であり世界そのものでもあることを知っていた。孤独の不安も人生の空虚さへの不安も和らぎ、鬱をはじめとした精神疾患が軒並み減少していった。
勿論一方でクオリア共有によるプライバシーの侵害は少しばかり問題となったが、そもそも近くに寄って集中をしなければ行えないという事、また共有することによる自他の境の消失による思いやりの意志の芽生えなどがその難点を大きな問題とはしなかった。
怒りと理解の放棄、差別と偏見、国家と個人の同一視が横行し前世紀の大戦以来の凄まじい世界的戦乱が起こるとまで言われていた世界は、やがてそれなりに落ち着きを取り戻すことになった。先進国の多くと途上国の一部がロリ化に賛同しており、ロリ化人口はロリ化技術が本格的に世界に出回ってから十年で世界総人口の一割以上にもなっていた。
歴史的な怨恨に解決の兆しが見え始め、長年の差別や抑圧に変化が起こり始めた。
世界は、ロリ化によって――クオリアを共有し他者を感じる人々によって、変わりはじめていた。




