第4章 兄弟
狭い場所にいると、心が安らぐ。
そういった経験ならば誰しも少なからずあるだろうが、こと半兵衛は幼少の折、その性質が顕著であった。部屋にあっても角を好み、広い場所を嫌う。それが余人からは気味悪く思われることもあった。十の折にはすでに大人を圧倒するほど武才を示していたこともそれに重なり、彼は鬼子として扱われていたのだ。
もっとも、それは半兵衛の記憶に原因があるのかもしれぬ。半兵衛の父は波多一門の足軽頭であったが、半兵衛が物心つくころに世を去っている。戦での死ではなく、夜に紛れた賊に襲撃されたのだ。この際、父によって幼い半兵衛は窯の中に押し込まれて事なきを得たが、狭い窯の中で父の死を始終目撃していた。この経験が、幼い半兵衛の精神にいかほどの影響を与えたかは推して測るべきであろう。
この性質は疑心暗鬼というかたちで他者すべてにおよび、それゆえか半兵衛は誰からも孤立していった。武芸に傾倒し、それを修めていったのは、あるいはその孤独を抱えていたからなのかもしれぬ。
十六になると、すでに半兵衛は岸岳で比肩する者のない武士となっていた。しかし強くなればなるほどに、彼は周囲から孤立していかざるを得なかったのは皮肉だろうか。岸岳一門は倭寇とも呼ばれたあらくれの集団であったが、その中でも半兵衛は恐れられていたのだ。
そんな半兵衛に分け隔てなく接したのが、主君である波多親と、その忠臣である柾吉、さらにその息子の彦右エ門であった。波多親や柾吉は優しさのあまりに優柔不断と誹られることもあったが、半兵衛にとってはその優しさがありがたかった。
彦右エ門と出逢ったのは十二年前。
柾吉が一家を連れ、島津より岸岳波多一門の老中として招かれたときのことである。
半兵衛はすでにして人との接触を好まず、同年代の彦右エ門が現れた際にも特別に感情を動かされることはなかった。彦右エ門のほうでも、半兵衛のことを最初は「根暗な男だ」としか思っていなかったというが、口数の少ない半兵衛をそう見たとして仕方があるまい。
状況が変わったのは、しかしその出逢った当日のことである。
このころ、半兵衛はその腕っぷしの強さと口数の少なさで誤解されることが多く、この日も同年代の輩に呼び出されたのだ。意図は明白で、自分たちと同じ世代でありながら、飛び抜けて才覚を持つ半兵衛を嫉み、複数で叩きのめそうというのである。もちろんそれだけではなく、この輩の中心格であった男が好意を寄せていた娘が、半兵衛に気があると知ったという事情も重なっていたようだ。
前者はともかく、嫉みについては半兵衛もよく察していた。
だが、それでもほかの誰かに助けを乞うたりはしなかった。そして逃げるということすらもせず、ただ堂々と輩の前に立ち、そして弁明や糾弾すらもしなかったのである。その威風に輩は呑まれかけたものの、数の利があれば一個人の覇気などものの数ではない。こうして半兵衛は囲まれ、十二名のうち八名の腕の骨を砕いたところで捕まってしまった。
あとは、輩の好き放題である。殴られ、蹴られ、地面にたたきつけられた。
さすがに刀を抜くことはしなかったが、それを差し引いてもたいそうな暴行である。半兵衛はそれでも、悲鳴すら上げることはなかった。ただ静かに暴行に耐え、ときが過ぎるのを待った。この状況は、半兵衛にとって父を喪ったあの夜と同じだったのかもしれぬ。
と、そこでふいに声が響いた。
「こちらです、こちらから声が聞こえたのです」
「このような夜更けに、いったいなにがあるというのかね」
「わかりませぬ。しかし、たしかに尋常ではない気配がいたしました」
これに、輩は慌てた。
警邏の兵が見廻りに来ない、町はずれを選んで半兵衛を呼び出したはずだった。だが、まさか誰かに感付かれるとは。このまま顔を見られてしまえば、大事である。すぐさま輩は負傷した者を抱え起こして、その場から逃げ去ってしまった。ぼんやりとした意識の中で、半兵衛はなんとなしに、逃げ足が速いな、という少々的外れな感想を抱いていたが。
ややあって、半兵衛の目の前に手が差し伸べられた。
ひょろひょろとして色の白い、女のような手だ。だがしかし、見上げてみればそこにはたしかに男が立っている。一瞬誰だかわからずにいて、そしてはっとする。
「島津の」
「そういう呼びかたは嫌いだ」
半兵衛は差し出された手を掴んで、助け起こしてもらう。細い体つきの割に、ずいぶんと力があった。なるほど、さすがに島津の男であるだけはある。見た目は華奢でも、しっかりと鍛えられてはいるわけか。そんな思いが胸に湧いたかどうかの刹那に、夜闇の中に「ぱん」という乾いた音が響いた。
「……っ?」
殴られた、いや平手で頬を打たれたということを理解するまで、半兵衛は数秒を必要とした。いきなり、なんの前触れもなく、この男はなにをするのだ。さすがに理解の範疇を超えた事態に半兵衛もむっとしたが、男の顔付きを見て思いなおした。おそろしく険しい顔をしているではないか。鬼子と呼ばれている自分などより、ずっと鬼の形相でこちらを睨み据えている。
凄まじい気迫に押されて、半兵衛はたじろいだ。そこへ、その男が怒気をはらんだ言葉を投げつけてくる。
「なにを考えているのだ、きみは。多勢に無勢もいいところだ! 事情を詳しく知っているわけではないが、尋常ではない。なぜひとりで向かっていった? なんの策もなく、あれではやられて当然だ」
聞けば、この男は半兵衛の姿を見たとき、戦場に向かう武士の顔付きになっていたことに気がつき、不穏に思っていたのだという。あとをつけてみれば、なんのことはない。不徳の輩が集団で個人を攻撃するなど、武士としてあるまじき行いではないか。
そのまま助けに入ってもよかったが、彦右エ門はさほど腕っぷしが強いわけではない。ただ分け入っても同じようにやられてしまうのが見えていた。だからこそ、ただやみくもに助けに入ることはせず、声色を変えて警邏の兵が現れたふうを装ったのである。
「ということはおぬし、いまひとりか」
「先刻の声はすべておれのものだ。ああいう輩には、そうしたほうが都合がよいと思ってな」
奴らの顔を見るために、少々時間をもらった。すぐに助けに入らなかったことは詫びる、とそう頭を下げた男に、半兵衛は強い興味と関心を持った。顔を見た、と言ったが、今後どうしようというのか。問えば、男はこともなげにこう答えた。
「武士としてあるまじき行為だろう。自割とまではいかぬまでも、今後の立身出世の道は断たねばな。今後岸岳一門が発展し、安定した統治をおこなうために、ああいう下衆は見極めていかねばならないと思うだけさ」
「そこまで考えるのか」
「考えなければ、この乱世生きてはいけぬ。きみの堂々とした態度は立派だと思うが、それは莫迦正直というものだぞ。剛直一本ではなにも守れぬし、なにも得られぬ」
「分からん、おれには。おれはこうして生きてきた。これからもそうだろう」
「まあいいさ、深く考えるまでもない。ようするに、必要なら助けを求めろということだ。おれであれば、いつでも話を聞くし助けにもなろう。おれも、きみのような人柄は好きだ。ああは言ったが、きみほどの実直さは得難い」
なんともおせっかいで、しかもえらく不遜なもの言いの男だ。だが、不思議と居心地は悪くなかった。むしろ、彼に頬を叩かれたことではっとした部分もある。半兵衛は自ら驚くほどに自然なかたちで、常になく名乗り出していた。
「おれは、半兵衛という。おぬしは」
「彦右エ門だ。彦と呼んでくれ」
このときから、友情は育まれていったのだろう。お互いの性質がまるで違う、しかしだからこそ彼らは互いの長所と短所を補うことができたのだ。半兵衛は実直さで、彦右エ門は柔軟さでお互いを活かし、そして競い合う。
そうして、いつしかふたりは互いを兄弟と呼ぶようになっていた。