第2章 決断
雨が降り始めた。
それを察したのは、雨音のせいだけではない。雨が降るときに漂う独特の臭気が、あるいは肌にまとわりつく湿気がそれを感じさせたのである。雨は恵みである、とはよく言ったものだが、度を越せば災害となるのも事実だった。岸岳城にあって施政に取り組んでいたころには、川の氾濫をいかに防ぐか、父と議論を交わしたものである。いまではそれも遠い過去のようだ。
そんなことを思い出して、彦右エ門はふらと寝所から這い出した。隣の部屋では、りんが寝息を立てているころだろうか。さすがに娘の部屋に入り込もうとは思わず、彼が足を向けたのは泊まっている半兵衛のもとだった。
おや、と感じたのはそのときである。半兵衛にあてがった客間から、尋常にない気配を嗅ぎ取って、彦右エ門は眉根をひそめた。警戒心か、殺気か。あるいはそれに近しいなにか。そういったものが、半兵衛のいる場所から並々ならぬほどに漂っていたのだ。
どうしたのだろう、と彦右エ門が怪しんだのは一瞬であった。
実戦の経験こそあれ、大規模な合戦には出たことがない彦ではあったが、それでも武士として、そしてまた要職としてあった身だ。そのころに幾度か見た、切腹の際に放たれる武士としての末期の覚悟。半兵衛の部屋から漏れ出るものがそれと同質のであることを悟ったとき、彦右エ門はすぐさま動いた。
「なにをしているか、半兵衛!」
がたん、と開いた障子に、半兵衛はさしたる動揺を示すことはなかった。むしろ、それを予想していたかのようなふるまいですらあった。正座をする彼の正面には、かねてより愛用していた無銘の太刀が鞘に収められたまま置かれており、それを淡々と見つめている。その態度が、彦右エ門にはいっとう気に食わぬ。
「なにをしている、と聞いておるのだ。その刀はなんだ。この場でなにをしようと」
「喚きたてるな、彦よ。りんが起き出してしまうぞ」
鬼人、と称され畏れられていた半兵衛の口調は、思いのほか穏やかであった。
「なに、ここで腹を切ろうなどとは考えていない。おぬしの屋敷を血で汚すわけにいくまい」
なにを言っている。腹を切るといって、なぜにそうせねばならぬのか。
口を開きかけて、しかし彦右エ門は言葉を繋ぐことができなかった。半兵衛の武人としての覇気は、彦右エ門など歯牙にもかけぬ圧がある。彼が腹を切るといったのならば、揺るぎなくそれはなされるのであろう。なぜ、という言葉すらも、音にすらならぬ。
それを察したのか、半兵衛はつぶやいた。
「おれは主君を失った落ち武者だ。と言って、豊臣の軍門には下れぬ」
「ゆえに自刃するというのは、短絡にもほどがある。田を耕し、牛を飼う。それも道のひとつであろうが。おのれで道を狭めるなど阿呆のすることだ」
「おれは武人でしかない。それ以外の生き方は知らぬ。それにな、彦よ――」
半兵衛は初めて、彦右エ門を見た。表情は笑っていない。いつものことだ、半兵衛の笑顔などというものは、彦右エ門ですらどんなものなのか知らぬ。笑わず、ただ鉄面皮の男。それがこの半兵衛であったのだが、彦右エ門は彼の瞳の奥に表情からは推し量れぬ感情の渦を見た。
「まだ、やることはある。波多の火はまだ消えてはいないことを、豊臣に見せつける。それまでは死ねん。腹を切るのはそのあとだ」
「すでに岸岳は落ちたのだ。いまさらどうする」
口に出して、彦右エ門はちくと胸が痛んだ。すでに岸岳一門は落ちた。歴史の表舞台に立つことは二度とあるまい。少なくとも岸岳は一門として、すでに滅んだと言ってよい。ここにきてなにができる。一門もいまや方々に散り、どれだけの者がまっとうに生活できているのか。
「豊臣は松浦党をいまだ脅威とみている。島津ともつながりがあるのだから、警戒しないほうがおかしいが……ここで岸岳の一派がなにかことを起こせば、取り返しがつかぬ。それは分かっているだろう、半兵衛」
そうなれば、一門に名を連ねていた主だった面々はことごとく捕らわれるだろう。二度と叛乱が起きぬよう、松浦党の残存戦力や勢力といったものはことごとく奪われ、失われる。彦右エ門にとってみれば、それは当然のことだと思えた。
「あえて松浦の一派には苦しい生活を強い、耐えかね蜂起したところを一網打尽とする腹に違いない。松浦の海軍は強大だが、手に入らぬのなら天下泰平にとって単なる脅威にすぎぬ。おれたちの存在を脅威と思わせてはならんのだ。ここで動いては、ただ踊らされているだけだぞ」
なぜおれたちが農村に下り、刀を捨てたと思うのかと、彦右エ門は問うた。
お上の圧力が強くなっていることは理解していたし、それによって民の生活が苦しくなっていることも知っている。だが、いまを耐えればいずれ正常な政になっていくことだろう。藩主となった寺沢広高はけして無能ではない。よく状況をみることができ、先立っての朝鮮出兵では武将や大名への取次として、補給や支援などで着実な成果を上げた男だ。
もちろん、藩主となるのだからそれだけではあるまい。豊臣に対して反感を抱いていた波多親とはもとから軋轢があったとも聞く。あるいは岸岳一門を没落させたのは、寺沢の謀略であったのかもしれぬ。いや、そうでもなければ一介の奉行でしかなかった寺沢が藩主にまで出世できるとも思えないのだ。そういった意味で、いまの藩主は彦右エ門にとっても恨みを抱いて然るべき相手ではあった。
だが、だから蜂起するという考えには至らなかったのは岸岳の今後を案じたからである。蜂起したとして勝算などあるはずもない。半兵衛が波多親に対してゆるぎない忠義を持ち、それに従おうとしている気持ちは分かるが、共感することはできなかった。
「分かっている、分かっているとも。彦よ、おぬしはそれでいいのだ。おれと、いやおれたちと違って大局を見ることができる。おぬしは生きねばならぬ」
この言い方に、彦右エ門はふと疑念を抱いた。たしかに、半兵衛はおれたちと言った。半兵衛以外にも、いまの藩主に抗おうとする者がいるというのか。考えて、彦右エ門はいるのだろうと自らの懸念を確信した。いかに半兵衛が武人として無双とはいえ、単身で叛乱を画策するような蛮勇ではない。
「……ほかの連中と、連絡をとったのか」
「おぬしは止めると思っていた。だから最後に会いに来たのだ」
それはつまるところ、半兵衛の翻意はありえぬということである。加えて、彦右エ門はほかの岸岳一門が半兵衛に従おうとしているという事実を察し、まさに慄然とした。半兵衛をはじめとして、耐え忍ぶことに耐えかねるような者たちでもない。
なにがあったのか。
いや、なにがあったというわけでもないのだろう。この半兵衛が現れたことで、岸岳一門の根底に眠るひとつの共通した思いが再び顔をのぞかせたにすぎぬ。
「おれたちは武士だ。それも、とびきり野蛮な海賊として名を馳せた波多一門。波多の武士はいかに生きるかが肝要ではない。いかに死ぬかがすべてなのだ、彦」
「死ぬつもりならば、思いとどまれ。それこそ無為な混乱のみを招く。悪逆の徒と罵られるのが関の山だぞ。いま叛乱などしても、成功する余地がない」
「叛乱ではない。波多の武士が持つ信念に殉じたいだけだ」
後世、江戸中期に記された『葉隠』に、半兵衛の言葉を端的に表す一文がある。
――武士道と云ふは死ぬことと見つけたり。
佐賀藩の武士が胸に秘め、そして佐賀藩祖たる鍋島直之の抱いた武士の理想像であり、そしてさらに世代を超えて『武士道』の名で語られる象徴だった。これは、当時の鍋島直之が岸岳を含む松浦党と縁を持った際、その一派が持つ生死の捉え方に畏怖と感銘を受けたことに由来するとも伝えられる。
いわゆる武士道の原点である松浦党の岸岳一門は、このときも半兵衛によって再びその信念を掲げようとしていたのだ。そして文字通り、死ぬことで忠義と武士としての在り方の双方を示そうとしている。
(止められぬものか……)
これほどの覚悟を見て、言葉は通じぬ。彦右エ門はそう確信せざるを得なかった。
しかしどうして、彦右エ門は引き下がろうとは思えない。引き下がるべきではないのだ。死ぬことが武士道であるならば、それもまたよし。だが、いかにも犬死にをしようとする友をただ死地へと送り出すことなど、彦右エ門の感情が頑として許さぬのだ。
それを感じ取ったように、半兵衛は小さくうなずいた。
彦よ、分かっている。おぬしはそういう男だと。だから、おれのような荒くれとも友となってくれたのだ。だからこそ。だからこそ、こうしておぬしに会わねばならなかった。
「どういうことだ、半兵衛」
友の言葉に、彦右エ門はわずかに眉を寄せた。不快だからではない。この半兵衛が言葉を濁したことをいぶかしんでのことである。そんな彦右エ門に対して、半兵衛は眼前に置いた刀を手に取り、それを差し出してきた。
「彦。おぬしは生きろ。島津へ戻り、その才を活かせ。おぬしは長い目でくにを見ることのできる男だ。ただ戦に生きるおれのような荒くれとは違い、いずれ天下はおぬしのような男を必要とするに違いない。すでに関所の連中には話を通してある。おれの刀を見せれば、苦もなく抜けられるはずだ」
「なにを、ばかな!」
つまり、半兵衛はこう言っているのだ。岸岳一門は捨て置き、島津へ帰れと。
冗談ではない、と彦右エ門は激昂した。すでに島津を離れ、残す記憶は鏡山に似た桜島をうすぼんやりとした風景のみである。島津は生地なのかもしれぬ。だが、帰る場所はもはや松浦にしかないのだ。いや、そうでありたいと望んでいた。
半兵衛はその気持ちを理解しているのだろう。察していながらもなお、そう告げる真意はほかならぬ。彦右エ門に生きてほしいという、それだけに違いあるまい。だが、そんな半兵衛の思いが、むしろ彦右エ門にとって屈辱でならなかった。寂しくてならなかった。
「大きな声を出すな、彦。りんが起き出す」
言って、半兵衛はその巨躯を揺らして立ち上がった。
「邪魔をした。とにかく、おぬしはりんを連れて松浦一帯から出ろ。これはおぬしの友としての願いだ、聞き入れてくれ」
達者でな。
最後にそう告げると、半兵衛は彦右エ門の肩を叩き、そのまま雨音のする闇へと身をくぐらせた。ひとたび紛れてしまえば、もはや気配すらも読み取れぬ。それほどに深く沈んだ夜闇は、彦右エ門の心中をざわつかせた。止めることすらもできぬとは、なにが友か。その後悔が、半兵衛から渡された刀を強く握らせる。
夜が明けると、彦右エ門はすぐさまりんを起こしてことの顛末を簡潔に伝えた。眠たげに聞いていたりんではあったが、これはこう見えて実に賢しい。事情を飲み込むや、彼女は父に向かってはっきりと言った。
「父さま。もう、父さまはどうするのか決めておいででしょう?」
思いもかけぬことではあった。
己の力が足りず、みすみす友を死地へ送り出してしまったのではないか。そのことに悩み、今後を決めてかねているからこそ、こうして娘に話したはずであったのに。そう胸中で畳を叩いておきながら、彦右エ門は努めて平静を装った。
「どういうことかな、りん」
「わたしたちは、もう松浦の民です」
齢にして十四。なるほど、自らの故郷を認識するには足るのであろう。娘は色白の丸顔をわずかに紅潮させ、父をまっすぐに見つめた。よくもこうまで育ったものだ、などと感慨にふけっている場合でもあるまい。見据えられて、彦右エ門はわずかに笑みを浮かべて見せた。
「そうとも、そうとも。だが、半兵衛は父に岸岳を捨てろというのだ。故郷を捨てて、島津へ戻れというのだ。父はそれが悲しくてならんのだよ」
「だったら、それでいいじゃあありませんか。半兵衛さまには、そう言わせておけばよろしいではありませんか。それでも父さまは、岸岳の家臣でいらしたのでしょう?」
松浦の民であるのでしょう。あの鏡山に語られぬ歴史と神秘を思い、松浦の雄大な海に魅かれたのだと、ずっとずっと話して聞かせて下さいました。だから、りんもまた松浦の民だと信じております。
りんはそう言い切って、一度呼吸を整えた。
「それに、りんは島津のことなど覚えてはおりません」
なるほど、と彦右エ門は笑った。たしかに、二歳になるかならないかで島津を出たりんにとっては、生地など御伽話の世界と大差あるまい。島津へ逃れるといって、それは見知らぬ異国への逃亡でしかないのだ。所縁はあれど、もとから島津に思い出などない。
「……その気の強さは、誰譲りかな」
どこともなくそうつぶやくと、彦右エ門は膝をぽんと叩いた。
まったく、なにを悩んでいたのか。たしかにりんの言う通りではないか、悩むことなどもとからありはしない。りんは年若くありながら、すでに武家の女としての自覚を身につけているではないか。耐えることが戦いであると信じる彦右エ門の想いは変わらぬ。しかし、友を捨ててまで耐えることは、彦右エ門にとって義に反する行いであった。
もはや半兵衛は止まらぬ。
故郷を、そしてかつての主君への忠義による意志は揺らぐまい。それに触発された岸岳の一派も、言葉で納得することはないだろう。半兵衛がそうであるように、彼らはなにも謀反で寺沢を排除し、再び松浦を手中にしようとはしていない。ただ、単に岸岳一門としての在り方を示そうとしているだけだ。
ならば、もう迷うことはない。
彦右エ門もまた、岸岳の一門であるのだから。