第1章 彦
世にはいくつもの天峰、霊峰と呼ばれる山がある。
それらはたいてい、人跡未踏のごとき剣山であったり、極端に隆起し他を圧倒するような様相を見せるものがほとんどであった。それゆえに、人は己の力が及ばぬ未知の領域をして、霊峰と呼称するのである。
代表的なものが、富士の山であろう。不死なる山として知られるそれは人を寄せ付けぬことでも知られ、たしかに霊峰として相応しい。もっとも、そこから遠く離れた九州の北端、松浦の地にも霊峰は存在した。
しかし、それはけして険しいものではなく、まして人跡未踏ですらもない。むしろその在りようは山というよりも丘に近く、地元の民は親しみをこめて《屈み山》と呼んでいた。
なるほど、それはよく言ったもので、たしかにその山はの標高は低かった。ただ低いだけではない。まるで山の中腹から鋭利な刃物で水平に切断したかのごとく、それは美しい台形をしていたのだ。古代の神話には、巨大な鬼が本来の山を真っ二つにしたとも、その鬼が山に腰掛けていたため、次第に縮んでいまのかたちになったとも語られる。
どうにも滑稽な御伽噺ではあったが、子供たちにはうけがよい。実際、この地に住まう誰しもがその伝承を聞いて大人になるのだ。霊峰《屈み山》……正式な名称を《鏡山》とするそれを愛してやまぬ想いは、大下彦右エ門にとって、自らが松浦に根付いた証として、誇らしくも感じるものではあった。
大下彦右エ門は、もともと松浦の人間ではない。
松浦一門最大の一族であった波多氏が九州の雄島津氏の庇護に入った際、友好の証として派遣された当時の島津家家老、大下柾吉の嫡男であり、それに付き従って波多氏の一門となった男である。父柾吉は客人家老としてその実力を発揮し、波多氏一門の要人となった。
わずか十年で、波多一門の信頼を得てその立場を固めた父の手腕はたしかに見事であったと、彦右エ門は思う。ただ、父はそれだけであった。故郷である島津と、現在忠を誓うべき波多氏とを天秤にかけ、そしてどちらも選ぶことができなかった。
弱い男だ、ということは簡単であろう。しかし、それが板挟みになった父の苦悩であることも、彦右エ門はよく知っている。
豊臣秀吉による九州平定がなされた際、当然松浦党最大の一門である波多氏にも出兵を促す使者が寄越された。豊臣に与して出兵するということは、柾吉や彦右エ門にとって故郷である島津に牙をむくことにほかならぬ。豊臣の敵は、九州一円を支配する島津氏であったのだ。
避けられぬ迷いに駆られた柾吉の心情を、一族当主である波多親は見過ごすことができなかった。親は優しくよき領主、よき主であったが、優柔不断なところも多かった。その優しさが悪いほうへと働き、柾吉の迷いを慮った挙句、ついに波多氏は豊臣に与することができなかったのである。
これに激怒したという豊臣秀吉の心中は、容易に計ることができた。
島津を討ったとして、いまだ水軍を中心とする強大な戦力を誇る松浦党は放置できぬ。いずれ懐に入れておかねばならぬとすれば、ここでの不義をもって改易することもできよう、というところだろう。
実際、このとき波多氏は豊臣の手で改易されかかるが、後の朝鮮出兵を控えて松浦党と波多氏の軍事的利用価値を認めていたことや、鍋島氏の説得などもあって改易は免れてはいる。しかし、その後の朝鮮出兵において、これまた人柄の良さを見せた波多親は朝鮮人を無為に虐殺することに憤りを覚え、独自の行動をとった。
これが致命的であった。秀吉はこれをもはや許そうとはせず、朝鮮より帰還した波多親は本拠への上陸を許されることなく、秀吉による糾弾と一門取りつぶし、さらには流刑の旨を突きつけられたのである。これにより波多氏は力を失い、没落。その原因となったと自責の念に駆られた柾吉は、波多親に対する謝罪の辞世を遺し、自刃して果てたと聞く。
父の死、一門の没落、いずれも文禄二年のことである。
当時、彦右エ門は主なき本拠、松浦川を眼下に臨む要衝である岸岳城を守る城守として出兵には参加せず、残された数百の波多氏一門とともに主の帰りを待つ身であった。それゆえに父の最期については伝聞でしかなく、どれほどの後悔をその胸に宿していたのか知れぬ。また、波多親がなにを想い、なにを父に告げたのかもいっさいが分からぬ。ただ彦右エ門にとって、主は帰ることがなく、代わりに現れた豊臣の使者によって、波多氏が終焉を迎えたことだけは、理解できた。
それから二年が経過した、文禄四年。
すでに、かつて本拠とした岸岳城は廃城となり、一門は松浦一帯に散らばって各々の生活を見つけ始めている。武士として生きることができなくとも、世には生きる術などいくらでもあるのだと、彦右エ門は自分に言い聞かせていた。彼はいまだ三十二歳と若く、体力も胆力も衰えてはいない。二年前に岸岳城を下り、娘と数名の仲間を伴って流れ着いた佐里の地で始めた農耕も、飢饉を経験していないいまの時点では、慣れてしまえばそれなりにやりがいはあった。
村の連中も、支配者であったかつての武士たちを快く受け入れ、農耕のいろはをよく教えてくれた。祭りへの参加も拒むことなく、まるで地元の民であるかのように気さくに接してくれる彼らに対して、彦右エ門はどれほどの感謝を覚えたか知れぬ。
もっとも、この気持ちのよい農民たちの姿は、それだけ当時の領主たる波多親の施政が優れていたかを証明するものでもあり、感謝と同時に嬉しさもあった。波多親の施政は、すなわち父柾吉の施政でもあるのだから。
それでも、と彦右エ門は思う。その嬉しさの中にあって、時折感じるこの虚しさはなんなのか。日々は充実し、策謀も不要な農村での生活は苦しくはあっても、絶望は感じぬ。
畑を耕す手を休め、ふいに顔を挙げた彦右エ門は、ぼんやりとつぶやいた。
(ここからでは、鏡山が見えぬなあ……)
まさか、それが理由でもあるまいが。彦右エ門は自らの脳裏をかすめたその想いに苦笑を浮かべて、鍬をふるう手にもう一度力を込めた。
◆◇◆
大下彦右エ門という男は、けして美男ではない。背丈も中背、痩身であり見た目はおよそ武士らしくなかった。特に、常から眠たそうな垂れ目のせいか、覇気を感じさせることがない。
武士の出で立ちをしていたころは、まだ見れたものであった。武装し、太刀を身に付けた彦右エ門は少なくとも鎧負けはしておらず、実戦の経験もあったからか相応の威厳も備わっていた。それが、いまこうして農民の姿となったとき、その冴えないなりは元武士とは思えぬほどに穏やかで、あるいは少々みすぼらしくも見えた。
とはいえ、彼は波多氏の一門をとりしきる家老の嫡男であったこともまた事実であり、幼少期より父の教えに従い、また自らの興味で得た数々の知識と経験は、単なる農民とは比べるべくもない。まして、その人となりの穏やかさは貴重であった。
必定、彼はこの佐里の地で、多くの人々から慕われるようになっている。二年という歳月は短くもあったが、彼が民の心に入り込むのには十分な時間でもあったようだ。
「彦先生、もうお仕事は終わり?」
佐里の民、ことさら子供たちは彦右エ門を先生と呼ぶことが多かった。没落したとはいえ、家老の一族である彦右エ門は農民からしてみると大いに身分の高い存在であり、遠慮や崇敬が働いていたのかもしれぬ。だが、そう呼ばれるからには相応しい態度を取らねばらぬと、彦右エ門も自らに課していたところはあった。
待ちなさい、待ちなさい。もうすぐに終わるとも。
畑の合間を縫う小道から覗き込んでくる、数人の子供たちに笑いかけて、彦右エ門は鍬を抱えた。田畑を耕すというのは重労働で、実際に経験してみると農民たちの偉大さがよく分かる。これほどの苦行を経て初めて実る作物を税として徴収する武士大名というのは、やはり相応の責務を負っていたのだと思い知らされた。もっとも、いまは関係のないことではあるが。
「先生、今日はなにを教えてくれるの?」
佐里の子供たちは、学問を学べない。学ぶ場所がないのだ。都のほうであれば、農村の民も読み書きを学ぶ機会があると聞くが、この田舎ではそういった高尚な場所などまるでありはしない。自分を受け入れてくれた村の人々に対する、せめてもの恩返しとして、読み書き計算の教授をしたいと思ったのは、彦右エ門のちょっとした自己満足であった。
騒ぎながらまとわりついてくる、少年少女たちの頭をなでてやりながら、彦右エ門はわずかに考え込むそぶりを見せて、告げる。
「そうだなあ、今日はここいらの歴史でも学んでみようか」
「鏡山のお話? それ前も聞いたよ!」
だったらもう一度教えてやろう。何度でも聞くがよい。何度も何度も聞けばよい。
少々意気地の悪い笑みが彦右エ門の顔を彩り、子供たちは歓声を上げる。嫌がっているのではなく、それをむしろ楽しんでいるのだ。ここいらの子供にとって、彦右エ門の語る伝承はなによりも優先するべき娯楽であった。彦右エ門の上手い点は、同じ話であっても毎度別の視点から語っていくため、常に新鮮な驚きと楽しさがあるところだろう。子供たちは今日の物語に期待を膨らませながら、彦右エ門の家へと向かった。
佐里の地は、かつて主君の居城がおかれた岸岳山よりもやや西南、ほぼふもとに位置する小さな農村である。山に囲まれ、川も海もないその環境は水の都としても栄えた松浦一帯と比べて幾分寂れた印象もあり、土壌の関係で農耕もなかなかに難しい。それでも大過なく暮らせているのは、やはり山の恵みと、そして波多氏がなした施政によるところであろう。
ちなみに、松浦に住まう人々の霊峰鏡山は、岸岳山を挟んで向こう側にある。佐里の地からはその輪郭すらも捉える事が出来ないため、子供たちにとって鏡山の話は新鮮であった。
「実際、鏡山は伝承の宝庫だ」
とは彦右エ門の言である。
彼は二十一の折に松浦の地へとやって来て、生来の探究心をくすぐられて松浦の伝承を好んで調べていた。ことさら、地元の民が愛する《屈み山》こと鏡山に伝わる伝説には興味を刺激され、のめり込むうちにその山の存在にますます魅了されていったのである。
巨鬼の話はもとより、袖振姫伝説と称される佐用姫の悲恋伝説、そして天照大神と連なる天鏡伝説もまた、実に面白いものだった。史実とされる佐用姫伝説のほかは眉つばであると理解していながらも、興味とはそういう真偽を越えたところにあるに違いない。
それだけでもあるまいが、と彦右衛門自身は思うところもある。
かつて、それは幼いころに遠く眺めたあの雄大な桜島が、鏡山とよく似て見えるのだ。あるいは郷愁に近い感情なのか、それとも単に鏡山に対する思い入れの強さが、旧く故郷を想起させるのか。どちらでも構わぬことではあった。彦右衛門にとって、鏡山のあるこの松浦の地で土へ還ることこそ本懐である。いかな生まれ故郷とはいえ、いまさら島津に戻ることは考えてすらいない。
ちなみに、彦右エ門の住居は村の北端に建っている。小さな家で構わないと遠慮をしていた彼に、農村の民が無理矢理「家老様のお住まいがみすぼらしくちゃあいけません」として、当時空き家となっていたやや広めの屋敷をあてがったのだ。なんとも申し訳ない気持ちになったのは当時のことで、いまとなっては子供たちや、あるいは大人たちを集めて集会や学問会を開くのには都合のよい広さだと納得するようにはなっていた。
その屋敷のあたりが奇妙に騒々しいことに気がついたのは、村人たちがたむろをしていたからである。よく見知った村の若衆が彦右エ門を見つけるや、駆け寄ってくる。表情は硬く、なにやら深刻なのかもしれぬと感じ取った彦右エ門は、子供たちに今日はどうにもよくない。次の機会にしよう、と告げて追い払い、若衆の話に耳を貸してやった。
「彦先生、どうにもいけねえ。また税が上がるんだと」
これに、彦右エ門は驚きを覚えることはなかった。
文禄三年――つまり昨年のことだ――に豊臣の指示で検地が行われ、波多氏に代わり一帯を支配することとなった寺沢氏は松浦の農村に従来を越えて課税した。それに飽き足らず、今年もまた税を課するとなれば、民の生活も苦しくなってくる。なにを考えているんだ、豊臣方は。そんな憤りを投げかけられて、しかし彦右エ門は努めて平静を保った。保たねばならぬ理由があったのだ。豊臣方の思惑は分かっている。だが、それを口に出すわけにはいかぬ。
「お上がそう言うのであれば、従うほかあるまい」
「そうは言うが、彦先生。今年は作物の実りが悪いんだ。食ってけねえよ」
「新しく来た藩主さま、豊臣の顔色を見てるだけだ。おれたち下々のことなんて考えちゃいないんだよ。彦先生、波多のお殿さまは戻って来ねえのかい?」
若衆の嘆きはもっともだが、だから自分にどうしろというのか。彦右エ門は胸中でうめいた。ここで彼がなにかしら動きを見せれば、豊臣は目ざとくも波多氏の一門に目をつけるであろう。没落し、各地に散ったとはいえ、かつて波多の岸岳一門といえば、その勢力は侮れぬものであった。その要職にあった彦右エ門がみだりに藩主を糾弾しては、それだけで粛清の口実を作りかねない。
いま穏やかに暮らしているはずの一門を考えると、迂闊なことを口走ることはできぬのである。その胸中を知らぬ村人は、波多氏の施政を懐かしみ、その施政に携わっていた彦右エ門に期待を寄せていた。なんとかしてくれるかもしれぬという淡い期待は、しかし無理難題でもある。
「少し待ってはくれぬか。どうこうできるとも思えぬ」
「彦先生でも、やっぱり無理なのかい?」
「おれはもう一介の農民でしかないのだ。藩主に進言できる立場ではない。謁見すらも許されまいよ」
己の無力感を噛み締めるように告げて、彦右エ門は屋敷へと入った。どうにかしたいと思いはするが、はたしてなにができると言うのか。なにもできはしない、と結論付けるしかないいまの立場は苦しかったが、それが現実である。
「やれやれ……」
「お帰りなさい、父さま。なにかありまして?」
疲れた表情を浮かべた彦右エ門だったが、玄関まで迎えに出てきた愛娘の不安げな顔を見るや、すぐにそれを振り払った。
「いや、なにもないとも。それよりも、りん。寝ていなくても平気なのか」
「りんは元気です、父さま。ただの風邪ですもの」
こう語るりんは、今年十四になる彦の実娘であった。八年前に妻を亡くしてからというもの、男手ひとつで育ててきた娘は、色白で華奢な体つきは病弱な印象を持たせるが、それでいて弱々しくはない。線の細さの中に、たしかな強かさを持つ少女であった。彦右エ門に似てか学問に通じ、ついでに器量もよいため、父としては自慢の娘である。
今日は朝から少しばかし具合が悪く、寝ているように言ったはずだが、すでに顔色もよくなっている。どころか、ずいぶんと元気な様子ではないか。むしろ彦右エ門には、りんにこそなにかよいことでもあったのかと問いかけた。これに、りんはくすくすと笑う。
「半兵衛さまがいらしてますから、病なんて退治してもらいました」
「……半兵衛が来ている? なんと、あの男。まだしぶとく生きていたか」
かつての親友の名を聞いて、彦右エ門はふっと気分が高揚するものを感じた。りんを下がらせ、半兵衛が滞在している間へと足を運ぶ。
鬼頭半兵衛といえば、波多一門はおろか松浦党すべてを見渡しても並ぶものがない豪傑とされ、鬼人とも称される武士であった。巨躯を揺るがして槍を振り回す姿はたしかに鬼にも似て凄まじく、またなかなか人付き合いを好まぬ男としても知られた。
だが、そんな鬼人と彦右エ門はなぜか相性がよく、初めて彦右エ門が岸岳に入城したその日から意気投合し、気がつけば互いに兄弟の盃を交わすまでになっている。武に傾倒ししながら学問にも少なからず興味を見せた半兵衛と、学問に偏りながらも武を重んじた彦右エ門のふたりは、互いの足りぬ部分を補うことができたのである。
その半兵衛も、朝鮮出兵に参加して以来、九州への上陸を許されず波多氏についていずこかへと流れたと聞いていた。まさか死ぬことはあるまいと思っていたが、こうしてひょっこりと顔を出すとは。
久方ぶりに対面した親友は、変わらず息災の様子であった。むしろ数々の苦難を越えたからか、以前よりもさらにたくましくなったようにも見える。
「よう、彦。久しいな」
「よう、ではないぞ、半兵衛。二年間、どれほどおれが心配していたか知るまい。文のひとつも寄越さぬとは」
「すまぬ、すまぬ。だが、まさか岸岳城に文を送るわけにはいかんだろう。なにを疑われるか知れたものではなし、いまだ波多を恐れる連中はいる」
まったくその通りだと、彦右エ門は感心した。荒々しい印象の半兵衛も、実はこうしてよくものごとの機微を見極めることができる。さすがに一門でも名をはせただけのことはあると納得して、彦右エ門は続けた。
「ときに、半兵衛よ。おぬしはいままで、どこでなにをしておったのだ」
「なに、波多親さまについて、常陸国の筑波にな」
なるほど、やはり波多親さまは息災であったか。彦右エ門はほっとしたが、それもつかの間のことである。
「昨年、親さまは亡くなった」
「なんだと?」
「病死さ。故郷を奪われたことが、やはり相当に心身を弱くされた。柾吉さまが自刃なされたことも、かなりご負担になったようでな」
あのおふたりは、兄弟のように仲が良かったから。そう語る半兵衛の口調には悲しみがあり、彦右エ門は眉根を寄せた。
「おぬし、父の最期を看取ったのか」
「いや、看取ってはいない。誰も、自刃を知らされていなかった。ただ介錯もなく、壮絶な最期であったとは聞いたが、その場をおれが見たわけではないのだ。すまぬ、彦よ」
「……頭を下げてくれるな、半兵衛。こうして父のことを知れただけでも、よかった」
自刃において、介錯もなく執り行うことの苦しみは想像を絶する。死にたくとも、楽になりたくとも易々とそうはならぬ苦行であり、まさに贖罪のためになしたのだと彦右エ門は悟った。自らの迷いが波多一門を没落に向かわせたという後悔があったのだろう。
「過ぎたことは仕方がない。いまを生きることが大事なのだからな」
彦右エ門はふいに笑うと、盃に酒を注いだ。
ひとまず、半兵衛と再会できたことは喜ばしい。半兵衛も同じ思いであったようで、ふたりの小さな宴は未明まで続いた。