学校の切り裂き精霊
精霊は、そのあとも、生徒たちをさまざまな方法で、殺していきました。
切り裂いたり、広げたりするだけでなく。
つぶしたり。
落としたり。
蒸したり茹でたり。
そんなことをしても、精霊の心が痛むことはありませんでした。
そんな精霊でも、ただ、ひとつだけ思うことは。
こんな因果に身をやつす自分自身。
そして自らの居るこの世界。
綺麗に綺麗に消えてしまえばいいのにな。
精霊は泣きむせぶことはなく、後悔することもありません。
殺された者たちの苦痛も、幸い、精霊には届くことがありません。
だけれども、傷つけ殺すという、有意で無意な営みに。
ほとほと嫌気が差してはいたのです。
都賀浦由比人は、本を読んでいた。
その本の作者は、額田乃敦子。タイトルは『学校の切り裂き精霊(中巻)』。ひどいタイトルだが、これでもいちおう児童文学作品なのらしい。
本の内容は、と言えば。
大雑把に言えば、生徒を無差別に次々と殺していく、怪物(精霊)の話だ。
だけど、血生臭い表現を避けて書かれたその内容や、先の一節には、なんとも奇妙に引き込まれるものがある。
思わず没頭していた由比人の頭部に、唐突に鈍器が振り落とされた。
ゴスン。
「こらー! いちいち目に留まった本読んでたら、作業終わんないでしょうが!!」
そうして現れたのは、阿刀智かなみ、だ。由比人のクラスメイトであり、図書委員でもある。
阿刀智かなみ。
成績優秀。ブラウスに首元をリボンタイで固めた身なりはすっと様になっており、整った顔立ちも相まって、そこから放たれる才媛子女オーラは相当なものだ。
おそらく2万3千はある(当社比)。
そんなかなみを、次期生徒会長に擁立しよう、という企てがあるとも聞いているが、それも頷ける話だ。
だが、当の本人は、『本の虫』を自認しており、生徒会役員などになれば、必然、図書委員の役を降りなければならないので、断りを入れるのに苦慮している様子だった。
「いてーよ! 文句あるのはわかったけど。なにその鈍器!」
「日本文学全集」
かなみの両手には本が抱えられていた。その本は、由比人の頭部に振り下ろされた本でもある。
高さは40cmに届くのではなかろうか。
厚さも、5cmくらいありそうだ。
それは、『日本文学全集』という名の、鈍器、だった。
背表紙には、『日本文学全集』の文字下に『23巻』と記されている。
それはつまり、最低でもあと、『22巻』に及ぶ型式が存在することを意味している。
日本文学全集、恐ろしい子……。
全23巻の破壊力を以ってして、由比人の頭部を打撃したとするならば、由比人は容易にアホになってしまうことだろう。
「たぶん超つまんないこと考えてるのはわかってる。けど、目録打ち終わんなきゃ、ずーっと、放課後の図書室通い続くんだからね!」
かなみの『ツン』が出た。これまで数えた『ツン』の数は百を下らないであろう。数えてないけど。
(ちなみに『デレ』が出たことは無い)
由比人の思惑するところ、そこに何かを感じ取ったのか、かなみの整った瞳の端が、ツン、と吊り上がった。
話を戻そう。
かなみが、その数23を超える超兵器を手に取り、罪の無い男子生徒の過剰殺戮に及ぶ前に。
大変迷惑なことに。
この学校にある図書室に、ITが導入されることになった。
(ところでいいかげん、ITって言い方、古臭くね!?)
パソコンに詳しい先生が、自前で図書管理のシステムをこしらえた。
と、まあ、ここまではいい。
(本当は、おい教師、本業に勤しめよ! とツッコミ入れたいけど)
そして、必然、図書室にある無尽蔵の図書、コレをシステムに登録する作業、誰がやるの? という話となって。
そのめんどい作業が、エスカレーター式に図書委員に流れてきた。
それが、現『図書委員』を務める彼女、かなみが、図書登録の作業を請け負うこととなったいきさつだ。
だけれども、『図書委員』だけでは人手が足りない。
そこで、『学級図書委員』の役になってた僕、由比人も、手伝わされることになった、というわけ。
僕、由比人は、本、は、まあ、嫌いではない。
小学生のころは、図書館で借りて、よく読んだもんだ。
けど、『学級図書委員』になったのは正直、『学級図書委員て、そんなに仕事ないでしょ』という算段だったわけで。
まさか、放課後に無報酬の労働を延々とさせられる羽目になるとは、思って無かったわけだ。
女王様が、僕の傍らに仁王立ちして『キリキリ働け~!』と鞭撻を振らんとする有りさまなので、仕方無しなし、書棚から引き抜いてきた本の山をテーブルに積みつみ、ノーパソのキーボードを叩いて、本の管理番号やタイトルなどを打ち込んでいく。
今打ち込んでるのは、児童書棚から抜いてきた本の山だ。
そんな仕事に勤しむ僕の姿を、『仕事に集中してる男の人って素敵』とか思ってか(いや思ってないの知ってるけど)、かなみは眺めていた。
そしてなんとなく、僕の読んでた本、『学校の切り裂き精霊(中巻)』に目を移す。
「額田乃敦子かぁ。なかなか面白いよね」
「知っとんの?」
「うん。もちろん!」
へー。
さすがMs.才媛。
僕が最近読む本ったら、せいぜいラノベくらいだけどな。
あ、いや、ベストセラーの文芸書も、たまーに読む。
あれ、値段がくっそ高いの多いから、どっかからか借りて読むとかそんな感じだけどな。
まあ、そんな僕でも、額田乃敦子の本は何冊か読んでて。
先に言った、『小学生のころは、図書館で借りて』というやつの中に、額田乃敦子の本も混じってた感じだ。
そう、当時僕は、額田乃敦子作の児童書を、夢中になって読んでいた。
「額田乃敦子は、昭和作家の有名どころだからね(※1)。『学校の切り裂き精霊』みたいな児童書も書いてるけど、文芸作品もいくつか書いてて、そっちも結構面白いのよ」
※1.額田乃敦子は架空の作家です。
そう言いながらかなみは、『学校の切り裂き精霊(中巻)』を手に取って眺めている。あ、読んでる途中だから、しおり動かさないでね。
しかし。へー。
さすがMs.才媛。
と、僕がそんな思考のリフレインをしている中、図書室の扉がガラリ、と開けられる。
入り口に立つのは、ブラウスの着こなしに固さの残る小柄な少女だ。下級生っぽい。
図書室内をきょろきょろと見回したあと、こちらのテーブルを見つけると、そのまま駆け寄ってきて、こう言った。
「阿刀智先輩、ちょっと相談したいことがあって……」
阿刀智かなみは、わかった、と、短い返事をすると、その少女とともに、図書室外の廊下に移動する。
毎度、放課後に図書登録の作業をやるようになってから、かなみに来客が来るのは一種の類型になっていた。
廊下でなにごとか話したあと、かなみは取り繕うような笑顔で、作業を続ける僕のもとに駆け戻ってきて、こう言うのも類型だ。
「ごめん! さっきの子のお話し聞かなきゃなんなくなって……。悪いけどそのまま打ち込みお願いね、時間通りで上がってもらっていいから!」
うむ。
もとよりサービス残業などする気はない。もとより無報酬だけどな!
だが、まあ。
こうして静かな図書室で、黙々と単純作業にいそしむ、というのも、そう悪いものではない。
放課後の暮れなずむ黄昏のなか(外の空はあかね色に色づいて来ていることだろう)。
カタカタとノーパソのキーボードを叩く音だけが、図書室の空間に響く。
そして。
書籍の紙がこすれて立てる、本の頁を繰る音。
ん?
頁を繰る音?
僕は、その音の鳴る方向を探す。
それは、僕の座るテーブルの斜め後ろ。
そのテーブルの一角で、一人の女子が、本を読んでいたのだった。
顔には黒縁メガネ。
その左手は、怪我をしているのか、包帯で巻かれ、肩から吊るされている。
彼女は、いつからそこに居たのだろうか。
放課後の図書室、閉館時間にはまだ間があるから、一般の生徒が居てもなんら不思議は無いのだけど。
それでも、授業が終わった直後からずっと図書室にこもっていた僕が、誰かが図書室に入ってきたのに気付かない、なんてこと、あるのだろうか。
その次の日の放課後。
僕は昨日と同じく、図書室で、図書登録の作業を行っていた。
昨日と異なっていたのは、Ms.才媛こと阿刀智かなみの姿が最初から無かったことだ。
私用が入ったとのことで、図書登録の作業が出来ないらしい。
今週いっぱいは難しいと聞いている。
カタカタカタ……。
僕はひとり、その部屋で図書目録の登録を続ける。
すると。
今日も、昨日と同じく、僕の背後斜め後ろから、かさり、と、頁を繰る音が聞こえてきたのだった。
僕は、意を決した。
彼女に声を掛けてみよう、と思ったのだ。
なぜなら彼女の読んでいた本は、『学校の切り裂き精霊(下巻)』であり、趣味の合いそうな彼女に俄然興味が沸いていたのだ。
彼女は、想像通り、額田乃敦子フリークだった。
額田乃敦子の、端正で、空の上から物事を見下ろすような、現実の束縛から遊離したような、文体。
その魅力を、彼女も、よく理解し、こよなく愛していたのだ。
いや、僕よりも、よほど深く理解していると言っていい。
彼女は、その小柄な顔に比して大きな黒縁メガネの奥で、額田乃敦子を深くふかく、読み込んでいた。
しってる?
額田乃敦子は、とても感情の起伏の激しい人で。
周囲の人たちは、腫れ物に触るみたいに気をつけてたそうよ。
それは、敦子の家族たちも同様で。
それでも、敦子の心根が優しいのは知ってたから、邪険にすることは無かったんだって。
話し込んでいくうち、彼女はそんな豆知識も、親しげに語ってくれるようになった。
結局、その週は阿刀智かなみが図書室に顔を出すことは無かった。
替わりに由比人は、その黒淵メガネの彼女と、放課後毎日顔を合わせて話し込むこととなった。
そして、もうひとつ。
楽しい放課後の語らいの時間において、気付くことがひとつ、有った。
彼女が左腕を包帯で巻いて、肩から吊っていることは、既に言ったと思う。
彼女には、逢うたびに、何某かの怪我が増えていったのだ。
最初は無かったと思う、夏服のブラウスの袖から覗く、赤黒い痣。
行き着くところ、それは個人の問題であるし、最初はそれを見てみぬフリをした。
彼女も、私ドジで、しょっちゅう怪我しちゃうんだ、と弁明していた。
だけれども、週末の金曜、彼女が右眼に眼帯を着けてきたのを見て、さすがに見てみぬフリはできなくなったのだった。
おそらくそれは、DVだろう。
親に養ってもらっている、という事情はあれ、その親に体を壊されたのでは、元も子もない。
DVの相談窓口はいくらでもある。連絡して相談に乗ってもらうべきだ。
と僕は彼女に言った。
だけれども彼女は苦笑しながら、そんなんじゃないから、と、逆に僕を諫めたのだった。
その翌週。
彼女はもう、図書室に姿を現さなかった。
替わりと言ってはなんだが、阿刀智かなみが図書の目録作りに復帰した。
なんとも収まりのつかない気持ちの中、僕、由比人は、かなみに先週図書室に顔を出していた女子のことを語った。
彼女の境遇、そして僕の行動。
そうしたことに、なんらかの意見が欲しかったのだ。
「んー。まず、なんで名前聞いてないのよ?」
第一声は、それ、だった。
まったく、至極もっともな意見と言えるだろう……。
かなみは無表情(口元だけ笑顔を取り繕っている)で、僕を見つめる。
その眼はこう語っているようだった。
『あー、コイツ、男としてもダメだし』、『実際的な対処能力もダメダメだよね』
あうあうあう。
「……ふう。まあ、過ぎたことはしゃーないか……。よろしい、かなみさんが相談に乗って進ぜよう!」
かなみは頭をガシガシしながらそう言った。面目ない。
かなみは、先週図書室を空けていたときも、きっと、件の後輩の相談事にでも付き合ったりしてたんだろうか。
わー。頼もしー(小並感)。
「てか……。最初が左腕に包帯で、次が袖口に赤黒い痣、んで色々あって右眼眼帯……、って」
かなみは何事かに気付いたのか、唐突に書棚の一角につかつかと歩いていく。
児童文学の棚だ。
そこで僕も気付く。
「え、えぇ!? ま、まさかそれは……」
かなみは一冊の本を手に取って戻ってきた。
その本のタイトルは、『学校の切り裂き精霊(上巻)』だ。
「由比人……。その子ってなんか、この本に出てくる優由香ちゃんに似てない?」
倉瀬優由香は、『学校の切り裂き精霊』に登場する女生徒だ。
そして、怪物こと『切り裂き精霊』によって殺される、被害者のひとりである。
彼女は、その正体が明らかでない『切り裂き精霊』が、誰の心によって産まれたのかを知っており、その者に説得を試み、殺人を止めさせようと腐心する。
だが、その最後は、惨たらしい死を迎えることで無念に終わる。
「…………」
かなみは、他になにか気付くことがあったのか、次に、自身のスマホを取り出すと、それを素早く操作し始める。
「……う、うわぁ!! やっぱり!!」
かなみは何を見つけたのか。
かなみはスマホのディスプレイをこちらに向け、差し出した。
そこには、額田乃敦子作品の図書貸し出し履歴が表示されており。
その中に、『倉瀬優由香』の名も連なっていたのだった。
そんな、ちょっとしたオカルト騒動は、それで幕を閉じた。
図書登録の苦行。いったいいつまで続くんだろう……、というそれ、も、僕や、かなみ達の数週間に及ぶ苦労で何とか報われた感じだ。
もっとも、全所蔵書籍の登録はムリ、ということで、残りの登録は、次年度以降の計画に組み込まれることとなった。
さすがに、こんな事情で一部の生徒をいつまでも拘束するのはマズイ、と思ったのだろう。
(気付くのおせーよ)
そうして、時は過ぎる。
僕は進級し、ついに最高学年を迎えることとなった。
来年は進学が控えている。この一年はとても重要な一年になるだろう。
そうして、先日の図書登録のゴタゴタから、一年経ったか経たないか。
初夏を迎えようとする。放課後の図書室にて。
僕は再会したのだ。
不相応に大きな黒縁メガネをつけた彼女。
『倉瀬優由香』に。
僕はまず、倉瀬優由香、彼女との再会を素直に喜んだ。
彼女と会った最後の日、あの金曜日に、彼女に語った言葉で、彼女を傷つけはしなかったか、それをとても恐れていたのだ。
もちろん。
もう、彼女が、人ならざる者、人の理解の外に在る、なにものか、幽霊(?)、であることは判っていた。
だけれども、それ以上に僕は、彼女の中に『人』を感じたし、その『人』である部分を尊重したかったのだ。
というか、単純に彼女のことが好きになっていた、それだけなのかもしれない。
だから、今回は焦らず。
まずは、彼女との語らいを楽しみたいと考えていた。
だが、最初から、その逢瀬が不幸な結末を迎えるのは、想像に難くなかった。
彼女は、怪我をしていた。
その左腕は、僕と初めて出会ったあの日と同様に、包帯で巻かれ、肩から吊るされていた。
彼女との、数日の逢瀬。
彼女の怪我はやはり、今度も増えていくのだった。
半袖より覗く、赤黒い痣。
以前と全く同じ繰り返し。
このままであれば、彼女は、今週末の金曜、右眼に眼帯をして、僕の前に姿を現すはずだ。
そしてその後、僕の前から姿を消すだろう。
僕は、彼女ととりとめの無い話をしながらも、その結末をどうにか変えることができないか、と、必死に考えていた。
そして、彼女の負う傷の原因。
『学校の切り裂き精霊』を読み込んでいる今であれば、それが何によるものか判る。
彼女は、毎夜、『切り裂き精霊』の主たる者の所に足を運ぶ。
殺人を止めるよう、説得をしに、だ。
だが、その説得は効を成さないばかりか、都度裏切られ、彼女の体を切り刻んでいくのだ。
そして、何の手立ても打てないまま、金曜の逢瀬、彼女との最後の逢瀬は始まった。
彼女の右眼はやはり、眼帯に覆い隠されていた。
それを見、由比人はやり場のない怒りに包まれる。
彼女、優由香は、それまで見せることの無かった由比人の頑なな表情に、その真意を感じ、そして、この逢瀬のあとに自身を待ち受ける悲劇を想う。
必然、彼女の見せる表情にも憂いがかかる。
「……優由香。君は、あの怪物を説得しようとする役を、何度演じているの?」
「幾度となく……。正確には、物語が人に読み込まれた、その数だけ」
「そんな、結論の決まっている役を……、降板することはできないのかな?」
「それは……、できません……」
優由香から、由比人の想像する通りの応えが返される。
『学校の切り裂き精霊』
あの物語の、よく出来ている、そして嫌なところは。
優由香の行為は、彼女の信念から生じているところだ。
そして、彼女の信念が覆せないことは、由比人自身、良く理解していた。
「この物語の、要諦は、ご理解してますよね……」
「うん……。正直、小学生の頃に読んだときには、理解が及んでなかったと思うけどね」
「物語の中の怪物『切り裂き精霊』、これは、人の抱える憎悪を代行する者です。そして、代行するのは、『切り裂き精霊』の主の憎悪だけではありません」
「うん……」
「『切り裂き精霊』は、人の集まるところに出来る、すべての憎悪を取り込み、代行しようとするのです」
「うん……」
「憎悪の代行が出来なかった場合、その憎悪は、元の持ち主のものに帰ります。そして、澱のように、持ち主を苦しめるのです」
「…………」
「……ですから。あの物語では、誰かが、一身にその憎悪を受け止め、禊祓う必要があります。そうでなければ、世界は、憎悪に犯されてしまうのです……」
由比人は思う。
なんて馬鹿馬鹿しい物語だ!
誰かを憎む。憎悪する。
その負の感情を、一心に受け、自らを殺す役。それが優由香の背負う役どころだ。
そして優由香には、ただただそれを受け止める殉教者としての個性が割り与えられている。
だが、そんな馬鹿らしいことがあるだろうか。
個々人の抱える憎悪なんてものは、当然、個々人が背負えばいい!
なんだ、その物語は!
こんなものが綺麗だとでも言いたいのか!?
読み手は、優由香のけなげな姿をみて、涙する、か!?
だが、そんなものはくそ食らえだ!!
由比人はひとつ大きく息をして、自身の憤りを沈めようとする。
そして、優由香に語る。
「優由香……。君は、この世界の憎悪を受け止める役どころを背負ってる、そういうことなのかな?」
「……はい」
「とても立派な役だと思うよ……。だから」
「はい……」
その役割、今度は、僕が背負う。そういうことでは、駄目かな?
「優由っち~。ご飯行くよ~♪」
「ご、ごめんなさい……。今日は阿刀智さんのお手伝いに行かなきゃならなくって」
「そっか~。んじゃまたお昼しようね~♪」
桐島さんは、クラスのムードメーカーだ。
クラスでは地味めの女子、倉瀬優由香にも、こうして声を掛けてくれる。
残念だけど今日のお昼は、阿刀智かなみの呼び出しに応えなければならない。
棟をまたぐ渡り廊下を小走りして、目指すのは図書室だ。
「お。ごめんね優由香。お昼休みに呼び出したりしちゃって」
「いえいえ~」
優由香が図書室の戸を開けると、そこには既に阿刀智かなみが居た。
入り口近くのテーブルに陣取り、購買で買ったパンをほおばっている。
「ん? ひょっとしてご飯用意してないの? ほれ!」
かなみは、ビニール袋からぞんざいにサンドウィッチの子袋を取り出すと、それを優由香に放り投げる。
優由香はそれを危なげながらもキャッチした。
そして財布を引き出しながら、かなみの席に駆け寄る。
「こ、これ、お金払います!」
「あー。いーっていーって! 今度また私もおごってもらうから。ところで卵サンドで大丈夫だった?」
かなみはそう言って、優由香の差し出すサンドイッチの代金を、なかなか受け取ろうとしない。
それでも優由香が引き下がりそうにないのを見ると、かなみはしぶしぶその小銭を受け取った。
「ところで本題に入るけど。優由香さん、書籍のパソコン打ち込み、何曜日に入れる? だいたい週3日くらいで考えてるんだけど」
「わ、私は毎日でもっ!」
「あはは。そーいうのはいいって。無理のない範囲で決めようよ」
かなみは気さくでやさしい。
こういう所が、みなから慕われる理由なのだろう。
かなみと優由香は図書委員だ。
先日より、図書管理用のシステムを導入する、という話になって、そのデータ打ち込みの人手が必要となったため、こうしてお昼時間を割いてミーティングを開いているのだった。
優由香は、親しくしてくれるクラスメイトや、こうして頼ってくれる同級生たちに囲まれて、忙しいながらも充実した毎日を送っている。
そして、こうした『上手く回っている』という感覚を感じているのは、優由香だけに限らなかった。
この学校では、万事が万事、みなが充実した毎日を送っている、という実感を持っていることだろう。
そして。
由比人は、薄暗い部屋の中で眼を開いた。
時間はおそらく昼時だろう。
だが、その部屋の窓には、重苦しいカーテンが垂れ下っており、太陽の光を遮られているため、薄暗い。
幾筋か、カーテンの隙間を縫う陽光が、強いコントラストを描く。
空調の類は効いておらず、ひどく蒸し暑い。
その部屋の中で由比人は、体を拘束され、床に転がされていた。
そこに。
ひとりの大柄な人物が、のそり、と入ってくる。
大柄な体肢に、さながらカートゥーンのように強調された頭部と、幅広の肩が目立つ。
それは、由比人がかつて想像した、『切り裂き精霊』、その怪人の姿そのものだった。
怪人は、由比人のズボンのベルトに手を掛け、留め金を外そうとする。
対する由比人は、身動きひとつできない。
ひとつは、上半身を拘束されている、という事実。
もうひとつは、全身が何かの薬物で麻痺しているようで、満足に身じろぎひとつできない。
怪人はズボンの留め金を外すと、その裾を掴んで、引きずり降ろした。
由比人の下半身が露わになる。
そして怪人は、まず。
由比人の大腿、その付け根に、ナイフを水平に走らせた。
切り裂かれた跡に血がにじむ。
次に、大腿に沿って垂直の傷を二本。
由比人の大腿には、血で示されたコの字が描かれた。
怪人は、その皮膚を、めくるように引き剥がす。
由比人は、そのような拷問を受けているにも関わらず、意識はしっかりとしていた。
そして、痛みの感覚も無い。
目の前では、怪人が、黙々と、見た目に苦痛な拷問を、たんたんと、施している。
例えば。
さきほど引き剥がされた大腿の皮膚のあと。
そこに露わになった筋肉を。
怪人は賽の目状に切り裂き、由比人の大腿は、さながら捌かれたマンゴーのように、その肉を露出していた。
そうした拷問は、由比人の意識が無くなり、そして命の灯火が尽きるまで、繰り返される。
翌年。
そうした、拷問は、前年と同じように、繰り返された。
由比人に対して。
幸いなことに、拷問されることに関して、傷みは感じない。
しかしながら、その憎悪、恥辱が、拷問という形で、何の罪を背負わされてか、由比人に対して向けられている、という事実。
それは、由比人を疲弊させるのに十分なものだった。
そしてその翌年。
やはり同じように、拷問は繰り返されるのだった。
ただ、ひとつ、由比人の心を癒してくれたもの。
それは、毎年、倉瀬優由香が、図書室に花を持って現れてくれたことだ。
倉瀬優由香は、由比人と、その役割を交換したことを、覚えているのだろうか。
由比人は、怪人に拷問を受ける以外の時間は、学校の図書室にずっと居座っていたのだった。
地縛霊なんてものがいるとしたら、きっと、こんな心持ちなのに違いない。
由比人からは、倉瀬優由香の姿が見える。
しかしながら、倉瀬優由香自身は、由比人の姿を認識できないようだった。
怪人に、手酷い拷問を受けている間も、あの、図書室に飾られた、倉瀬優由香の持ってきてくれた花々を思い出せば、気を紛らわせることもできる。
それが、由比人の心の支えになっていたのだった。
それだけに、活けられた花々が、やがて萎れていくのを眺めているのは、とても辛かったが。
数年経ち、そして十年。
それでも倉瀬優由香は、初夏のその季節になると、学校を訪れ、花を手渡していくのだった。
その顔は、寄る年波に流され、妙齢のものに移り変わり。
そして数十年。
倉瀬優由香の顔にも、年齢に相応の皺が刻まれていく。
それでも優由香は、図書室に花を携えて訪れるのを、欠かそうとしない。
数十年経ち、学校が老朽化し、移転することに決まった。
それで由比人は、どうなるのか危惧したものだが。
由比人の体は、新築の校舎の図書室に自動的に移転され。
そして、件の怪人も、その由比人の体を蹂躙しに、きっちりと現れたのだった。
後者は、要らない出来事なのは言うまでもないが、それはきっちりと履行された。
そして優由香も、花を欠かすことなく、新築の図書室を訪れたのだった。
そして、70年ほどの歳月が経った頃だろうか。
遂にはその年、優由香が図書室に姿を現すことは無かった。
由比人はそれでも、その生涯を掛けて、花を届けてくれた優由香のことを想い。
深々と感謝をしたものだった。
それでも拷問は、毎年繰り返され。
そして、遂には百年を数えるのだった。
その頃になって、由比人は、もう、正直、判らなくなっていた。
自身にのみ、ただひたすらに向けられる、憎悪。
自身がそれを受け入れる決断をしたのは、誰の為だったのか。
彼の人は、おそらくはもう、天に召されており。
もう、再開することも叶わない。
しかしながら、自身に向けられる憎悪は、これからも未来永劫、続いていくのだ。
遂には、由比人は、こう考えるようになった。
この因果から逃れるためであれば、僕は、誰かを身代わりに立てる道を、選ぶのではなかろうか。
……ゴスン。
「こらー! 仕事の最中に居眠りなんてするんじゃない! そんなんクセになると、ロクな大人にならないよっ!!」
それは、長い長い眠りから眼を覚ますには、圧倒的に過剰殺戮な、衝撃だった。
都賀浦由比人は恐ろしく長い時間、そうして机に伏して、眠っていたようだ。
そこに、阿刀智かなみの強烈な一撃が、お見舞いされたのだった。
「いてーよ! ガチで寝てるトコに、ガチ殴りはねーだろ!! なにその鈍器!」
「日本文学全集」
かなみの両手には本が抱えられていた。その本は、由比人の頭部に振り下ろされた本でもある。
高さは40cmに届くのではなかろうか。
厚さも、5cmくらいありそうだ。
それは、『日本文学全集』という名の、鈍器、だった。
背表紙には、『日本文学全集』の文字下に『48巻』と記されている。
日本文学全集!? 48巻以上あるのかよ!? そんなもんでバシバシ頭叩かれた日には、頭アホアホになるわ!!!
そんなこんなで。
歴史的改稿、が成された、『学校の切り裂き精霊』は、こんなラストで締めくくられている。
都賀浦由比人は、倉瀬優由香の身代わりとなり、幾歳も幾歳も、切り裂き精霊の拷問を受け続けていました。
優由香は、その生涯を通じて、由比人の身を案じ、図書室に花を供え続けました。
しかしながら、その生涯を終えた今、孤独なままに拷問を受け続ける由比人を、支えることは叶いません。
ですが、優由香は、その生前の高徳を認められ、神様として採り立てられることになるのです。
神様就任のご褒美として、優由香には、大神様より、ひとつの願い事を叶える権利が与えられます。
そこで優由香は、こう願ったのです。
『学校の切り裂き精霊』を、誰もが報われる、優しい物語に変えてください、と。
Fin.