浅葱との会合
結局会合は顔合わせのように終わってしまった。分かったことは、水染君自身がミステリーであるということだ。
私は彩香さん、水染親子と別れると事務所へ戻った。小原君は事務所まで私と来るとそこから帰路に着き、結局執務室に入る頃には一人になってしまった。
午後七時。晩飯には最適な時間であるが、実は先ほどのレストランで食事は済ませてしまったせいで夕飯という訳にはいかなかった。そのため、執務室に近づく浅葱君の足音を聞くと申し訳ない気持ちになってしまった。
いつも夕食は二人でビショップだと決めている。私達二人は、あの喫茶店がリビングだと思っているのだ。
浅葱君はノックせずに扉を開けた。
「マスターが待ってるんじゃないですか」
「ごめん浅葱君。実はもう食べてきたんだ。マスターにも謝っといて、お昼に食べにいくって言っちゃって」
浅葱君はすぐには立ち退かなかった。彼は用が済んだらすぐに去る傾向にあるために私は訝しんだ。
「何かあったんですか」
「え? 何?」
「落ち着いてない気がしますが」
浅葱君の鋭い洞察力に驚かされる反面、私は喜んでいた。いつもと違うことが分かるのは、日常における私への理解がある証拠である。
私は椅子から身を乗り出し両腕を机に立ててハンモックのように手を絡ませながら、その上に顎を乗せた。上機嫌な表情をしていることは意識しなくても分かっていた。
「ちょっとね」
「飯を食べなくてもいいから、何かあるんだったらマスターのとこで話し合いませんか」
浅葱君のアプローチには感動すらした。普通考えてみればただ誘われただけなのであるが、彼が人を誘うといった積極的な態度を取ったことは今まで一度もなかった。それに、特に照れた様子もなく淡々と流れるように言ってみせたのも、きちんと出来上がっていたのだ。
「浅葱君も何かあった? 私を誘うなんてね」
「軽いホームシックを味わった結果ですよ。……なんですか、その目」
両手で作ったハンモックの上で、私は柄にもなくニヤニヤとしてしまっていた。あの浅葱君がホームシックに陥ってしまったというのは面白い。
「なんでもないよ。それじゃあ行こうか。お腹は空いてないけどドリンクくらいなら飲めるもんね」
私は掛けていた外套を見たが、あまり寒さを感じないため結果的に一瞥するだけとなりそのままの格好で付いていくことにした。
ビショップは昼よりも三、四人お客さんが増えている。仕事帰りの人が集団をなさずに一人、二人と、学生が二人。カップルではなく友達だろう。礼儀があり、静かに店主の振る舞う料理を嗜んでいる。他には家族がいて、美味しそうに食事を食べながら寛いでいる。
つくづく思うのは、ビショップに来る客は落ち着いて気品のある人物が多い。店自体にそういった雰囲気が流れているから、というのが理由であろう。数分先にいけばガヤガヤとした繁華街があるということからこの街に住む人自体に上品さがあるということはないのだが、一部の上品な人物たちはビショップに訪れる。
昔こそこの通りは学生街であり学校帰りの学生がビショップを騒がしていただろうが。とりあえず、自然とビショップに流れる静かな空気を私は気に入っていた。
「いらっしゃい」
他の客はテーブル席にいたため、私と浅葱君はカウンター席を占領する形となって席についた。
決まって最初にメニューを注文するが、浅葱君は昨日と同じくカルボナーラとホットドッグを注文した。昨日のですね、と店主は微笑みながらオーダーをメモする。私はディンブラを注文した。
「外で食べてきちゃって。ごめんマスター」
「いえいえ、お気になさらずに。優雅な一時を注文するのはお客さん自身ですよ。私らはその選択に文句を言う資格はありませんとも」
決めてやった、と言わんばかりに店主はウィンクをくれた。
料理を作るためにマスターが奥へ引っ込むと、一時の静寂があった。浅葱君は言葉を選別している最中であろう。ここは浅葱君に先導を任せることにして、私はその間耳を店内に傾けた。
店内に流れる風味を感じさせるリラクゼーションが高まるBGMはピアノとアコースティックギターのセッションによって完成されているものである。喫茶店やバー等で聞く音楽は大抵は音楽に疎い人物は知らない曲であるが、ビショップもそこは同じである。店主が音楽の方面に強いとは知らなかった頃、私は流れている音楽の曲名と作曲者、奏者を突然尋ねたことがある。
「これは、ジェリー・マリガンのナイト・ライツですな。あまり私も詳しくは知らないのですが、この方の代表作ということで――」
店主がジャズを吟味していたと聞いたのはその日が初めてであった。サックスを弄っていた時もあり、グループで活動をしていたそうであるが世間に彼らの曲が受けることはなくすぐに中止してしまったということだ。
レコードに曲を残していたらしいが、捨ててしまいもう家にもないということであった。残念であった。
「分かりませんね」
だしぬけに言葉を出したのは浅葱君だ。ちょうど曲がフェードアウトしたので、すぐに浅葱君へと向き直ることができた。
「私の悩み事が?」
「八条さんほど強い人を俺は知りませんからね。身内の死、ドイツからの客、驚きの事件、どれを前にしても今まで通りだった八条さんが、今回に限ってはいつも通りじゃない」
「そうだねえ。でも、さすがの私も死んだ身内からの手紙には動揺するしかないんだろうね」
初めて浅葱君にも動揺が生まれた。
「手紙?」
「今日の昼ね、帰ってくる時ポストを覗いたらあったのよ。水染君からのお便りがね。まあ、届いたのは手紙じゃなくて小説だったんだけど」
「またですか」
浅葱君は含み笑いを漏らした。
「そのうち魔女が登場するでしょうよ」
「それはないねえ。水染君は男だから。日本風にいえば幽霊じゃないかな。水染君は幽霊になって小説を届けた」
「魔女になって復活して、殺されるよりゃマシですね」
浅葱君は前回の事件のことを言っている。一ヶ月前、彼はとある事件を担当したのだが、その事件にも小説が絡んできていたのだ。自然と今回の事件と結びつけてしまっている。
「そしてね」
私は早い内から結果を述べようと早口に、多弁になって続けた。
「小説といっても結末の部分のみだったんだけど、それにはどうやら三枚の原稿用紙を使ったみたいで、私、水染君のお母さん、そして水染君と一緒に小説を作った彩香っていう子、三人の所に小説はきたんだよね」
私は水染君と彩香さんの関係を簡単に説明した。二人は同じサークルで同じ小説を作っていたが関係が破綻し、小説を断念せざるを得なくなった。そして彼女は小原君と付き合っていた。
「水染が彩香って奴に恋心を抱いていて、泥沼化したっていう可能性はないんですか」
「それはないわ。彩香さんもそう言ってたし」
「水染を庇ってその事を隠しているっていうことは?」
「お母さんと彩香さんが否定して、小原君も否定してたんだよ。弟の拓也君もね。満場一致だったよ。恋のもつれはない。物的証拠も何もなかったし、水染君の気持ちを酌んでみなよ。水染君にそんなことはできないよ」
理論的な説明はできなかったが、水染君にそういった勇気がないことは分かっているつもりだ。奈帆さんもそういう理由で否定していたのだ。浅葱君は可能性があることは全て考える癖があるため今の言葉は気に入っていないはずだが、頷くとこの議論に関してはそれ以上の追求はしてこなかった。
「何やら、また難しい問題に直面してしまったようですな」
シンプルな円形の白い皿の上に大きめのホットドッグを乗せた店主が穏やかな笑みを持ちながらカウンターに戻ってきた。
「まあね。それにしても、ちょっと遅いね」
ホットドッグであればいつもは四、五分ほどで来たものであるが、今日は十分ほどかかっていた。私達の会話が終わるのを待っていたというのは考えにくい。なぜなら店主は、そんなことを一度もしてないからだ。
「パンを焼く時にトースターを使ってるんですがね、それがどうも設定した時間以上焼いてしまいましてね。真っ黒焦げになってしまいまして。なんともまあ、理想と現実は違いましたよ」
店主の言う理想は、店主の設定した時間設定である。現実はトースターの調子のことを指しているのだろう。その喩えが珍しく、私は申し訳なさそうにしている店主にスマイルを送った。
浅葱君がホットドッグの一口目を味わっているところ事の成り行きを店主に説明した。カルボナーラを焦がしちゃいけない、ということで店主が厨房に戻る時、浅葱君は喉を鳴らし飲み込んだところで話を再開した。
「問題なのは、どうして水染君が小説の最後に拘ったのかっていう所なんだよ。彼なりの理由があって意見を押し通そうとしたんだろうけど」
「破綻した理由が本当にそれだけだったら、八条さんの言う通り水染がどうして
そこまで拘っていたのかを考える必要がありますね。思うに、そこはもう作家の
プライドになってくるんじゃないんですか」
「プライドもあると思う。なら、どうして水染君はラストを変えたいって言い始めたんだろう。今回の一番の謎はそこで、その部分さえ解ければ全て解決すると思うんだけどね」
水染君が主張した小説のラストは、主人公が夢を叶えられずに終わるというバッドエンドだ。
主人公を描いた水染君のラストも同じくバッドエンドだ。もし水染君が主人公に自己投影したならば、たった一つ、なぜ主人公のラストを変えてしまったのかを推理することができたなら水染君の死の理由さえ分かってくるだろう。
それは、遺書に書かれているのではないかと私は考える。
「簡単そうな事件ですね」
「水染君に失礼だよ。それに、多分これは事件じゃないよ。水染君自身の告白みたいなものじゃないかって思ってる」
実在する人物をアルファベットにしたということは、主人公を自分と結びつけていたと根拠が裏付けられる。
「まず今やらなくちゃいけないのは水染君を知ることだね。性格とか友人関係とか。もちろん知ってるつもりではいるんだけど、念の為にね」
カルボナーラが運ばれてきたので、話は中断となった。ご飯は暖かいうちに食べた方が華で、何も考えずに味覚だけを楽しんで食べた方が美味しく感じるものだ。店主が話の内容を知りたがる素振りを見せたが、私は笑顔でそれを流した。
最後に運ばれてきたディンブラを味わいながら、私は再び店主に目を移し、そのつもりはなかったのだが目が合ってしまったので、味を褒めるつもりでウィンクを返した。
学生の二人が扉を開けて帰り、店主が「またどうぞ」と声を掛けた。
紅茶を喉に流し込み、私は再び店内のBGMに耳を傾けた。