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畢竟に咲く赤い花  作者: 玲瓏
第一章
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行所のない憎しみ

 執務室の中央にある左右対称のソファーはホワイトカラーで上品な質の物を使っているため高級感があった。私の使う布団よりも、もしかしたら寝心地が良いかもしれない。その証拠に私はソファーで一晩を過ごしたこともある。布団と同じように、このソファーも心地よく迎えてくれるのだ。

 奈帆はソファーと似合っている。高級感がありながらも秩序と律儀を忘れない奈帆だからこそ、セットであると私は感じていた。ソファーの色合いと彼女の服の気品による色合いは綺麗なものであり、もしかしたら、ソファーも私よりも彼女が座る方が喜ぶかもしれない。面白くない話だ。

 窓から奈帆を見た時に覚えたいつもの彼女と今の彼女の乖離感の答えはソファーが教えてくれた。

 今の彼女とソファーをセットに感じられない。慟哭の深淵で迷い続けるように打ちひしがれた彼女にはブランドの気風が流れていなかった。

 私の隣に小原君が座り、三者面談の形となった。

「これ……見てください」

 先制を得るようにして彼女は封筒を私に差し出した。

 小原君と私は見事に食らってしまった。私が今朝見たのと全く同じ封筒で、しかも半開きになった隙間から見えるものは原稿用紙である。咄嗟に、私に届いた小説の続きではないかと頭が働いた。

「朝、机の上に置いてあったんです。中央にじゃなくて、隅っこに遠慮がちに。本当に俊が置いたみたいで――」

 彼女が手にしたハンカチを見て、私も心が詰まる思いに駆られた。あのハンカチは確か、水染君が母の日にプレゼントしたものではなかったか。私が一緒に選んでやったことを覚えている。

「中を見させていただいてもいいですか」

 わざと敬語を砕けさせた。

「はい」

 ひと通り私と小原君は原稿用紙を読んだ。

 筆跡は同じだ。水染俊が書いたことに間違いはない。引っかかることが、こちらの原稿用紙にもタイトルがなかったのだ。どうもそこが気になる。タイトルを教えたくないと言っているかのように感じる。

「水染のヤツ、これだけ見ても何がいいたいのかサッパリっすね」

「あの子のことですから」

 奈帆の微笑みに、母の情が宿った。彼女が微笑み安心したのか、小原君も顔を綻ばせた。

「TとかMとか、なんなんすかね。暗号みたいだなとは思ったんすけど」

「ここ、Fの姿を~ってあるでしょ。だから多分、人の事だとは思うんだけれど。そもそも、暗号とか関係なく、なんで水染君はこれを私達に向けて書いたのだろう」

「遺書、でしょうか」

 奈帆は言い切るような口調だった。それ以外ありえないはずだ、と私も同感であり、小原君からも反論はなかった。

「なら、伝えたいことはあるはずだよ。水染君なりに、きっと何かを考えてこれを書いたに違いない。奈帆さん、前も伺ったと思いますが、何か俊君の身に変わったことは?」

 事件前夜のことを思い出しているのだろう。鼻を啜りながら考えていたが、諦めたように首を振った。

「思いつきません。ごめんなさい」

「奈帆さん、そうえいば、この封筒って机の上にあったんすよね」

 いつものヤンチャな小原君から出てきたとは思えないほど穏やかな声だ。先ほどから彼は静かな子として私の隣に座っていた。

 水染君の死にこの事務所の中で一番悲しんだのは彼であると、私からみてもそう言える。

「なら、郵便局のせんはないんじゃないんすか」

 小原君に話しかけられたことに一瞬気づかず、彼が私に顔を向けていると知って我に戻った。

「郵便局の人でも家の中に入るのは不法侵入っすよね」

「そうだね、珍しく小原君の推理はあたってるよ」

 じゃあ、この遺言は誰が届けにきたというのだろう。水染君自身が届けにきてくれたとでも言うのだろうか。

 悩ましげに三人は黙りこんでしまう。そこに、携帯のバイブ音が鳴った。私含む全員は自分の携帯かと思って確認したが、音の元は小原君であった。

「彩香からっす。ちょっと待っててください」

 小原君は小走りに退室した。

「もしかして、彩香さんが届けにきてくれたのでしょうか」

 奈帆は閃きを口にしながらも、納得できない、固まった疑念という思いを晴らせずにいた。それも仕方のないことだ。息子が塞ぎ込んでしまったのは、彼女が原因であるとも言えるからだ。奈帆はもしかすると、自殺の原因ですら彼女にあると思いかねない。奈帆の冷静さを失った心は、ありもしない嘘を作り出す。奈帆にかぎらず、人間の本質でもあるだろう。

「どうでしょうね。理由はないと思いますけれども」

「それはそうですが、もし本当だった場合、私達に対する当て付けかもしれませんし」

 そういえば、と彼女は前置きをして言葉を続けた。

「今日、拓也が彩香さんの家に行ってるんです。兄のことで聞きたいことがあるからとか、なんとか」

 これには意外であった。四時であろうから中学校の授業は終わっているだろうが、拓也は運動部に所属していたはずだ。部活を休むほど兄について知りたいことがあったのだろうか。

「今まで拓也君と彩香さんが会ったことは?」

「何回かあります。彩香さん自身が家にきて俊と二人で小説を書くこともありましたから。その時に拓也と彼女が話していたのは目にしてます」

「深く聞いてしまって申し訳ないんですけど、彩香さんと俊君の仲は良さそうに見えました?」

「ええ、小説のこと以外でもよくお話をしてましたね。ああ、でも俊は決して、その、武人君から彼女を取ろうとは考えてないように見えました。恋、とかいった言葉は出てきませんでしたし、俊も彼女に相談したりされたりといった応酬しかしてませんから」

 奈帆が付け加えなくとも、私にはそれが分かっていた。俊は恋愛に興味がないということはないが、彼の中での一番は友情だ。親友の小原君を苦しめることはしなかっただろうし、むしろ、俊からしてみれば彩香に恋心を持つこと自体が罪であると思っているはずだ。

 彩香の方は分からないが、少なくとも小原君から恋愛のこじれといった事は一切聞かされていない。彼が恐ろしいほどに鈍感でなければ。

「……誰を憎めばいいんでしょう」

 突として発せられた意表をつく彼女の言葉に、私はすぐに返事をできなかった。

「と、いいますと」

「彩香さんも悪くない、武人君も悪くない、あなたも、夫も拓也も大学の教授も他の学生も悪くない。俊も悪くない。みんな悪くないんです。なら、誰を憎めばいいのでしょう。私を憎めばいいのでしょうか」

 疲れ果てたように奈帆は両手で顔を覆った。

「俊は、私が悪いって言いながら死んだのでしょうか」

「ありえない」

 言葉を探す事もせず、私は強く言ってみせた。彼女は覆った手の隙間から目を出し、私を見上げた。

「奈帆さんは悪くありませんよ」

「でも、じゃあ誰が悪いんですか。悲しい事は必ず誰かのせいで起こるんです。喧嘩も、いじめもそうです。誰かが悪い。だから、今回も誰かが悪いんです。私はその誰かを憎みます。でも、でも誰もいなくて」

 取り乱しこそしないが、彼女はよっぽど追い詰められている様子だった。

「誰が悪いかなんて分かりません。少なくとも、俊君はあなたのことを憎んでなんていないはずです」

「その言葉を俊の口から聞かせてくれれば、信じられました。きっと俊からの手紙の意味は、私を罵ることが目的なんですよ」

 奈帆の女性らしさは初めて見るものであった。今まで彼女は自信家であり、俊のことを信頼していた。

 その積み上げてきた自信を彼女は疑問視したことは少なからずあるだろうが、それでも尚崩れることがなかったのは、俊が生きて、立派に育ってきたからという事実があったからだろう。

 彼女の中で自殺というのは悪そのものなのだ。もし俊が他殺だとするならば、彼女はその犯人を憎むことができるし、立派に生きてきた俊を讃えもするだろう。

 しかし彼は自殺だ。彼女の中で悪そのものである行為をしてしまった。

 自殺は悪だ。

 俊は悪くない。いや、悪いと思いたくない。悪いわけがない。

 悪いのは周囲だ。

 じゃあ、その周囲は誰?

 誰も悪くなかった。

 でも、俊は悪くない。

 じゃあ、私?

 奈帆が再び両手の中に顔を沈ませた時、慌ただしくドアが開いて小原君が入ってきた。

 驚いたように奈帆は手を下げた。

「八条さん、どうなってるんすか!」

「何? どうかした?」

 あまりの混乱ぶりに私は立ち上がり、続く小原君の言葉を待ち構えた。

「彩香が送ったものだとばかり思ってたんすよ、俺。この手紙のことなんすけど」

「うん、うん落ち着いて。それで、どうしたの? なんて電話があったの? 結論を話して」

 私はとりあえず小原君を宥めるために背中を撫でてやり、何拍かの間があって小原君は事実を語った。

「彩香のとこにも、この手紙が来てるみたいなんすよ。なんか俺わけわかんなくて、とりあえず待ってろって言っちゃったんすけど」

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