最後の謎
奈帆さんは以前と比べ、段々と落ち着きを取り戻しているように見えた。気力も回復したのか、家事はしっかりとやっている。ベランダに干された洗濯物は、日差しと風、二つの自然に当てられて心地よさそうだ。
奈帆さんの体力が元に戻っていくに比例して、拓也も笑顔を見せていた。今日は土曜日なので、拓也は学校が休みという事もあり、休みだからこその笑顔かもしれないが、以前土曜日に会った時は奈帆さんと同じように不満のある顔をしていた。
「ちょっとお母さんを呼んでくるので、待っててください」
しばらくして、奈帆さんと拓也が玄関へと戻ってきた。二人とも、余裕のある笑みをしている。
「お元気そうでよかった」
「昔を思い出している内に、なんだか弱っている自分が嫌に思えてきてしまったんです」
「そうでしたか。あ、それで、今日は前奈帆さんが仰っていた赤い花の写真を見にきたのですが」
「分かりました。上がってください」
他人の家というのは、どこの家も敷居が高いものだが、水染家は既に入りやすくなっている。家人が私を歓迎してくれているのだから。
「俊哉さんの姿は」
私は思い切って切り出した。調査中、一度も父親の姿を見かけていない。俊の部屋に案内される最中にある階段を上りながら尋ねた。
「実は、別居中なんです」
惜しい父親だ、と思った。こういう時に妻に寄り添うのが夫の役目ではないのか。
「今まで勉強のさせ方、教育方針の部分では意見が食い違うことが多かったんです。俊が死んだことによって、私の教育方針が間違っていたことが現実になって、またそこで諍いが起きました。あまりにも悔しかったので、私は出て行けと言ったんです。そしたら本当に出て行ってしまって」
私は俊の部屋に案内された。綺麗に片付けられた部屋で、掃除がしっかりされているのか埃がどこにもないように見える。
勉強机に備えられた本棚に、C言語と書かれた本があった。
「どうぞ、お掛けください」
奈帆さんは座布団を二つ用意して、仕切りよりも右側に存在する、水染俊のスペースの中央に置き、そう言った。私は綺麗なピンク色の座布団に座った。
「本当なら、出て行ってほしくなかったんです。夫の事は今でも好きなので」
離婚の話が出ないことは私にとっても幸運であった。
「八条さん。一つ聞きたいのですが、私は何を間違えてしまったのでしょうか。色々と立ち直りましたが、それだけがまだ分からないのです」
「いえ、いえ。間違いなんてありませんよ」
答えを求める奈帆さんの顔に、答えはないと言った。
「ですが、死んでしまったというのは、私の何かが間違っていたからです。言い訳はもうしません。教えていただけませんか」
「奈帆さんは自信を持って教育していたんでしょう」
彼女は今でこそ自信のなさそうに頷いたが、俊が自殺する前に会った印象では、彼女は自信に満ち溢れた女性であった。
「つまり、正しいと思って教育してきたんですよね」
「はい」
「でしたら、あなたは自分を責めないであげてください。今まで頑張ってきたのですから、これ以上無理をさせてあげないで。奈帆さんのせいで水染君は死んでしまったのではありません。これは探偵として断言します」
人間としても、そう断言した。
「――ありがとうございます。あなたには色々と感謝しなければなりません。本当にありがとうございます」
泣かないでください。私はそう言おうとしたが、喉の奥に閉まった。既に遅かったのだ。
「本当に、本当に悲しかったんです。でも間違ってないって言われて、救われました。夫もそういってくれればよかったのにって思います」
彼女は冗談めかしくいって、自然に笑みを作った。俊にも、間違ってないって言ってやれば変わったのだろうか。
「あなたが俊の世話をしてくれたって思うと、幸せです。ありがとうございます」
「いやいや、それは言い過ぎですよ」
神格化は慣れないもので、咄嗟に否定した。私自身、まだ未熟な所はたくさんある。完璧な存在でない。まあでも、そう言われるのは嬉しい。
奈帆さんが落ち着きを取り戻したと同時に、私は本題に触れた。
「それで、赤い花の写真というのは」
彼女は涙の最後の一滴を人差し指で拭うと、私に少し待つように言い部屋を出た。
亡き人の部屋というのは、なんとも言えない情緒を思い起こさせるものである。生活感というものが残っていると尚更だ。横を向き、俊の机に視線を向ける。彼はここで執筆をして、苦悩し、時に感動を得たのだ。
小学校の頃から、大学の頃まで大切に使われてきた机も、もう使われることはない。もしこの机に魂が宿るなら、真っ先に俊の所へ行くだろうと思った。彼が今どこにいるのか分からないが、机が迎えに行ってやれるなら彼にとっても幸運だろう。
彼の所へ着いたら机はこういうのだ。「今までよく頑張ったね。お疲れ様」
奈帆さんが戻ってきた。両手で大切そうに写真立てを持っている。その中には確かに赤い花があった。私はすぐに、俊がその花を用意した理由が分かった。この花こそが遺言だったのだ。
「奈帆さん。俊君は本当に良い子ですね」
私は微笑んだ。こっちが泣きをもらいそうになる。
「どういった意味でしょうか」
奈帆さんは座り直して、写真を私達の間にある中央に置いた。
「すみません、少し調べさせてもらいます」
私は写真を取り出そうと写真立ての背後にある扉へ手をかけ、中を開けた。すると、最初に目にしたのは写真ではなく、小さく切り取られた原稿用紙であった。
丁寧にもこちらに顔を向けている。
「カーネーションの花は全てを語る。奈帆さん。そのフレーズを覚えてませんか」
奈帆さんは必死に思い出そうとして、ようやく思い出した時、私の手にする紙を見て悟ったかのような顔になった。
「この赤い花はカーネーションで、花言葉は、愛。よく母の日等に送る花ですね。特に赤いカーネーションというのは母への愛という気持ちが強くて――」
私は言葉を止めた。もう全てを語り、最後の謎を解いたからだ。これ以上は蛇足になる。
ならば、私の語り以外の言葉で綴れば蛇足ではないだろうか。例えばそれが、俊の言葉だとしたら蛇足ではないのだろうか。
当たり前だ。これは彼のための物語なのだから、彼の言葉で締めくくるのが最適だろう。もう私の出番は終了だ。ただ最後に、自分に向けて言える事があるとするならば、お疲れ様、という一言だ。おつかれ、私。
「全ての人へ」
Hへ、「ごめんなさい」
Sへ、「君は悪くない」
そして、Tと親愛なるM、Fへ
「ありがとう」
最後に――
誕生日おめでとう。




