果たされない約束
月曜日、いつものように登校した。日曜日、弟とゲームに熱中し久々に夜更かしをしてしまい、起きるのが非常に億劫になっていた。母はすぐそれを察し、いつもより若干強い口調で注意された。
登校する時、少し憂鬱感があった。朝から注意受けたせいだろう。ルールを破ったのだから注意されたのは仕方ないが、たまには許してくれてもいいじゃないか。
「これ、返すよ」
クラス替えをして真っ先に出来た友人、新山が『十角館の殺人』を渡してきた。これは先月僕が読んでいる時に新山から話しかけてきて、僕が読み終わってから貸した本だ。
「最後のどんでん返しにはやられたよ。ミステリー物を読むのは初めてだったんだけど、面白いかも。この本、丁寧にも最初に館の見取り図とかあったでしょ。いやあ、読者に優しいなって思ったよ」
「最後には確かにやられちゃったね」
僕は受け取って、鞄の中に丁寧にしまった。文庫本なのでしまいやすいが、表紙は簡単に取れるという欠点もある。
「とかいいながら俊、実は結末読めてたんじゃない」
「捻くれた終わり方で終わるな、とは読めていたんだけどね。それも前情報があったからね。読者を騙した、ええっとなんていったっけ……忘れちゃったけど、そういうジャンルのミステリーだって」
「僕は死人の中に犯人がいるのかなって思ってたよ」
「登場人物の一人がそう推理してたから、その時点で僕は違うなって思ったよ。本当にそれが答えだとなんの面白みもないだろ」
「作者の立場の考えだね、それ」
「確かにね」
特に本を読む時は、作者の視点から見るようになっている。ゲームをする時も、作者ならこうするだろうな、と思い、実際やってみたらあってたり違ったり。自分が徐々に作者側の立場になってきてるからじゃないかと感じて僕は嬉しかった。
「今は何の本を読んでるの」
新山はまたねだるつもりで聞いてきた。
「ダン・ブラウンの天使と悪魔だよ。映画化もされてる有名な本で、結構長いんだ」
昨日から読み始めた本であった。ゲームの事について学ぶ傍ら、読書をしている。特に誰から勧められたという訳ではなく、読みたいと思い始めたからだった。心のどこかに憧れという感情がしまわれている事にはまだ気づいていなかった。
「俊は有名な本を読むのが好きだねえ」
十角館の殺人も新本格ミステリーというジャンルの教祖という認知含まれる程有名な作品だ。
「俊の事だから、マニアックな本ばかり読んでるかと思ってたよ」
「そんなことはないさ。まだ僕は子供だから、マニアックな本を読んだ所で理解できるか分からない。そこで有名な本から読むことにしたんだけど、有名な本っていうことは即ち、皆が理解しやすくて面白いから有名になるって思ってて、だから子供の僕でも理解できるって思ってるから読んでるんだ」
ふむふむ、と新山は頷いた。彼なりに僕の考えを理解した、という合図だった。
「でも、借りた本も充分に難しかったよ。俊はさすがだなって思う。今まで色んな本を読んできた成果だね」
ホームルームのチャイムが鳴ったので、新山は自分の席に戻った。横に開く重たいドアから担任が入ってきたが、いつもと違って重たい雰囲気であった。
女性の若い先生で、新人らしく、元気一杯に入ってくるというのがいつもの姿であったのだが、今日は違った。扉を開けるのすら大変そうに思える程だ。クラスの全員はすぐに変化した空気に気づいた。鈍感さが評判の空気読めない生徒まで変化に気づいたのだから、竹内先生の弱まっている様は相当だったのだ。
「ホームルームを始めます」
後ろに結び、肩まである長い束になった髪の揺れが収まった。クラス長が挨拶を終えると、本格的に静まりが訪れた。他のクラスの騒がしさも今は止まっている。全員が竹内先生の口から飛び出す言葉を構えた。今は不良の生徒も周りに従う事を選んだようだった。
先生の言葉が出た時、耳を疑った。
「ガンで、先日相元先生が倒れ、病院に緊急で運ばれました。現在手術中です。今現在分かっている所では、先生は末期のガンを患っていて、様々な臓器に転移している模様です」
竹内先生は誰の顔も見なかった。僕は衝撃で、誰の顔も見えなかった。みんなが何をしているかは分かるが、全部全部背景だ。まるで動画の中に自分だけが組み込まれて、中止ボタンを押せば周りが止まってしまうような気さえした。
「土日の間に、ちょっとゲーム会社の事を調べておくとしよう」
相元先生は二人だけの講義の終わりにそう言った。
「どうしてですか」
わざわざ調べなくても、元ゲーム会社員ならその体験談を話してくれるだけでいいのだ。今更になって調べる必要はあるのか。
「もしゲーム会社に入る事になって、そういう進路に進んだ時に役に立つようにだな。案外複雑なんだ」
「そうじゃなくてその、先生が教えてくれてもいいと思うんですけど」
「俺が勤めてたのは七年前のことだからな。ここんとこ、ちょっとずつ技術の進歩は早くなってきてる。前のが一倍だったとして、今は三倍くらいだ。だからある意味、念の為だとも言えるな」
僕は帰ろうとして席を立ったが、座った。
「ねえ、先生。僕はゲームクリエイターになれるかな」
先生は答えに迷っているように見えた。いつもは自信たっぷりな様子で即答するので、変な質問をしたかなと今の言葉を自分で吟味した。変な所はないな、と変な自信を持った。
「俺が言えるのは、ただ、俊の生きたいように生きろ、それだけだ」
言った後に、先生は続けざまにこうも言った。
「俊は今、なんでゲームクリエイターになりたいって思うんだ」
少し時間をかけて言葉を返した。考えうるすべての事を言ったつもりだ。
「皆に自慢したいから、とか、弟のためにゲームを作りたいから、とか」
先生は微笑んだ。この先生から微笑みをもらうのは難しかったので、自然と僕の顔も明るくなった。
「それでいい。人のために物を作るってのは素晴らしいことだな。そう、それを大事にすりゃいいんだ。難しい事なんか考えずに、人に喜んでもらいたいってのを生きがいにしてくれりゃ俺みたいに捻くれた人生にならずにすむ」
「先生は良い先生だと思ってる」
「はは、照れる」
僕は席を立って、今度こそ帰ろうと教室の扉を開けた。いつもと違って、今日は残りたくなった。時間的に許されないので、先生に一言添えることにしたのだ。
「ゲーム会社のこと、色々教えてね。後ゲームも完成に近いから、これからももっと頑張るね」
「ああ。俺も土日の間に色々作って、考えておく。楽しみにするといい」
動画が静止画になり、やがて元の世界に戻った。ホームルームは終わりを告げ、廊下に出る生徒などで賑わい始めた。担任の竹内先生が僕の席に近づいてくるのが分かった。涙を流したのか、目が潤いを帯びている。
「本を相元先生から預かっててね。これを俊君にって」
声も、どこか震えているように聞こえた。
文庫本サイズよりも一回り以上大きい雑誌のような本を受け取った。表紙を見ても、この一冊がゲーム会社を説明しているとすぐに分かる物であった。
「先生、相元先生の様子はどうなんですか」
本は視野に外にあった。
僕の質問は、周りの生徒にも聞こえていたらしく、いつのまにか視線が集まっている事に気づいた。それに気づく程、竹内先生は答えに戸惑っていた。
先生は結局、答えられなかった。
「――分かりました」
竹内先生は良くも悪くも、生徒の事を考えすぎていて、単純に優しいのだ。僕が相元先生と一緒に放課後残って勉強していることを知っていて、だからこそ答えられなかったのだろう。
竹内先生もまた、言いたくなかったのだろう。竹内先生の保護者という意味合いも込めて副担任として相元先生が選ばれたのだ。だから、他のどの先生よりも恩を感じているに違いないのである。ホームルームが終わった後や、偶然廊下で出会った時などは相元先生が指導している場面をよく目にする。
竹内先生にとって相元先生とは、師匠のような存在だったに違いない。
「すみません、頭が痛いので早退してもいいですか」
中学では一度も使った事のない仮病を、今始めて使った。成績表に傷が付く事が気にならず、授業が遅れることも気にならなかった。
「分かりました。保健室によってくださいね」
竹内先生に言われた通り、僕は保健室に立ち寄って身体の調子を紙に書き、早退という処置で帰ることになった。おばちゃんの先生は物分かりが良い。
帰り際、まだ一時間目の始業の合図がまだなので、新山が出迎えにきてくれたみたいだった。彼には友人の中で唯一、放課後先生の授業を秘密で受けている事を話していた。
「気をつけて帰ってね。その、本貸してくれてありがとう。まだ言ってなかったから」
「うん、わかった」
僕は涙を堪えて、家に帰った。朝に鳴く鳥の声すら、僕に優しくしてくれているみたいで、そう考えている自分が少し恥ずかしく思えた。
家に帰ってドアを開けた。母に合わず自分の部屋へ戻ることもできるが、僕はリビングへと足を運んでいた。
「ただいま。ちょっと、頭が痛くて帰ってきちゃったよ」
「おかえりなさい。大変だったわね」
母は静かに僕を待ってくれていたみたいだった。
「昨日徹夜しちゃったせいかな。反省しなきゃ。今度は二度としないから」
母は僕の頭に、柔らかいものを傷つけないようにするみたいにして手を置いた。中学に入ってから一度もされたことのない事だった。抵抗があったが、それはやけに恥ずかしいといった物であり……よく分からなくなってきた。
「部屋に戻るね」
涙が出そうで、僕は顔をわざと母に見せないようにして部屋に戻った。後ろから、母の声が、「ゆっくり休みなさい」と言葉が聞こえた。
僕は部屋について、着替える事も忘れてベッドに落ちた。
居なくなって、涙が出る程の存在だった先生。それは、僕にとっても師匠と同じ存在であったことを、僕自身に教えてくれた。
僕の夢に、真っ向から向き合ってくれて、一緒に道を歩んでくれた先生。それは、僕の生きがいとなっていた先生であったことを、僕自身に教えてくれた。
先生と生徒という間で済まされなかった。
同時に、自分の無力さに嘆いた。
ゲームの完成が近いのは、先生がいてからこそだった。先生がいなければ完成まで辿り着かない。今作ってるゲームはほとんど、弟へ向けて作ったものであった。先生にもそう言っている。
弟との約束がまた守れない。
悔しさ、悲しさ、絶望感、三つもしくはまだあるかもしれない別の要素の塊が縦横無尽に飛び回り、涙として落ちる。
恩師の喪失を、僕は心から涙した。
その日の夜、学校から電話がかかってきた。受け取ったのは僕だ。
相元先生が完全にこの世からいなくなった事を知らせる電話であった。




