記憶に仕舞われた夢
僕には夢が無かった。母は夢を持ちなさい、と言うし、父も同じ。僕は気持ちが焦り、ついに先生に相談した。この先生は優しくて、今まで会ってきた先生の中で一番頼れて、時々親よりも好きになる事がある。
「夢が無い?」
「はい。どうすればいいんだろうって」
先生の前田は、ははあ、と笑顔を向けた。彼の癖なのかは分からないけど、喋る時はいつも笑顔だ。子供を叱る時はさすがに笑顔じゃない。
「まだ十歳の君がそんな悩みを持つなんてねえ」
放課後の多目的室は静かで、外からの黄色い声も遮断する。同時に、先生の声も室内に響かない。僕も同じ。
僕は先生と机越しに向かい合いながら、何を言えばいいのか分からず黙った。
目線をどこに向ければいいのか分からず、チラチラと不自然に先生の顔を行ったり来たりした。
「お母さんによく言われる?」
「はい。夢を持てって、毎日じゃないんですけど、よく言われます」
「確かにそうだなあ。夢を持てば変わるからね、色々と」
先生の穏やかな声はいつもと変わらなかった。
「だけど、ちょっと俊君は焦りすぎてるかもね。君の性格上、そうなってしまうのかもしれないけど。でも、なんだろうな。今のうちから夢がないって悩みを持つって事、僕は立派だと思うよ」
「りっぱですか?」
僕は意識して先生と目を合わせた。なんだろう。暖かい。
「僕が子供の頃なんてヒーローごっこをして鬼ごっこをして、今を生きればいいみたいな。自分勝手で未来の事を考えてなかったからね。あー、でも確かに夢はあったな。なんだ、ロボットにのって街を歩く、みたいな!」
先生はオヤジっぽく茶化してみせた。実際、前田先生は四十代の先生で、オヤジだ。一つ一つのオヤジっぽい行為は先生に似合っていた。
「あせらず、ゆっくりとすればいいんですか」
「まあ、そうだなあ」
「前田先生はいつ夢を見つけましたか」
すると先生は、「いつだっけなあ」と呟きながら椅子にもたれかかった。
「いつの間にか、先生になりたいって思うようになってたんだよ。決まった時に、こうなる! っていうんじゃなかった。大人になる時に、子供と一緒に何かするのが好きだって事に気づいて、いつの間にか先生になってた。多分夢なんてそんなもんさよ」
「好きな事だから夢になったんですか」
「そうだろうねえ。嫌いな事は夢にしたくないだろう? うーん、ならそうだ。今、俊君が好きな物って何かあるかい?」
応えには迷わなかったが、自信がなかった。迷っているフリをして、僕は意識せずとも声を低くして口を開いた。
「ゲ、ゲーム」
「おお、現代子っぽくていいね!」
先生はいつもと変わらなかった。
「ダメって言わないんですか?」
「どうして僕がダメって言うと思うんだい?」
「ゲームってその、勉強ができなくなったり、外で遊ばないから健康じゃなくなったりしてあまりよくないって皆言います。親だってその、ゲームした分だけ勉強しなさいって言うし」
ゲームキューブは僕の大切な宝物だった。テストで満点を取って、その褒美としていつもは厳しい母が買ってくれたからだった。遊べるなら、たとえ条件があろうとも僕は気にしなかった。
「僕は悪いとは思わないけどなあ。だって、楽しいって思えるんだろう?」
「はい、思います」
「楽しいって思える事は悪いことじゃないだろう?」
なんて楽観的な先生なんだ、と思った。
「それに、ゲームをして学力が落ちたって思うかい? 僕は俊君が学力が落ちたとは思わない。確かに遊んでばっかいたら学力は落ちるけど、さっき言ってたけど、ゲームした分だけ勉強してるならいいんじゃないかな。っていうか、僕なんて子供の頃遊んでばっかしだったから、本当偉いよ君は。――といけない、話が逸れちゃったね」
「夢の話でしたね」
先生は授業中でも話が飛ぶ。授業の話をしていたらと思ったら、気づいたら映画の話だったり本の話だったり。今も同じように話が飛んで、相変わらずだなあと僕は笑った。僕の笑みを見て、先生もまた微笑んだ。
「ゲームが好きなら、例えばゲームを作るとかどうだろう?」
「作る?! む、無理ですよそんな。どうやって作ればいいのかなんて全然分からないし」
「作ってみたいって思わないかい? 俊君は芸術的なセンスはあるから、創造力もあると思うんだけど」
「確かに思いますけど……」
よくよく思ってみれば、不思議な事だった。コントローラーで十字ボタンを押せばキャラクターは動くし、敵は攻撃をしてくる。僕は当たり前だと思っていたが、じゃあどうして、と自問したときに答えられない。どうやってゲームはできているのだろう。
「今すぐには無理だね。まだ勉強不足。小学校や中学校っていうのは、自分の夢を見つける期間なんだよ。だから今、夢が見つからないからといって焦る必要はない。お母さんも君を焦らせようとしてる訳じゃなくて、願いを言ってるだけなんだ。俊君に夢を持って欲しいってね」
多目的室に先生の声が響かないことが、勿体なく思えた。先生からの言葉が僕だけに聞こえているのが勿体なく思えた。今ここに、友達のアイツがいたらいいのに。そして先生も、授業中に言ってくれればいのに。
あ、いや、一度授業中で寝てしまった時に聞き逃しただけかもしれない。
「今は、今を生きるんだよ俊君。それでいい、まだ君は子供なんだ。それに、一つ夢に向かうための道を歩んだじゃないか。ゲームの作り方を調べてみるとかどうだろう? きっとお母さんも一緒に調べてくれるんじゃないかな」
ありがとうございました、と言って僕は多目的室を出た。先生はこれから会議があるらしく、あまり時間を取れなかったが、少ない時間でありながら満腹したような気持ちになった。相談する前の晴れない心が、嘘のようだと思えた。
帰り道、僕は秋を感じさせる紅葉の木の道を進み、澄み渡った青空と綺麗な香りに歓迎されながら自分の作ったゲームがテレビ画面に映る事を想像した。
なんて素敵。僕の考えたオリジナルのヒーローが怪獣を倒していくゲーム。ジェット機が敵の機体を撃ち倒しながら進んでいって、最後にはボスが現れて難しいながらも達成感を得ることのできるゲーム。小説のようなシナリオの中で自分の作った主人公を活躍させるゲーム。
家に帰ると、母はソファーに腰を掛けて小説を読んでいた。最近、東野圭吾のシリーズ物を読んでいるみたいで、学校から帰る時はよくこの姿を目にする。
「おかえりなさい。今日は遅かったわね。……って、何か良いことでもあった?」
母は僕を見るなりそう言った。
「うん、ちょっとね。ねえ母さん、ゲームってどうやって作るのかな」
「ゲーム? それって……かくれんぼとか、そういうゲームを作りたいの?」
世代が違った。
「ううん、テレビゲームの事だよ」
母はああ、と納得した。この時僕はまだゲームという単語に自信を持てずにいたが、母は悪い顔をせず、僕は嬉しかった。
「調べて見ないと分からないわね。作ってみたいの?」
「うん。夢ができたんだ。ゲームを作るって夢がね! 友達の皆と一緒にそのゲームで遊んで楽しむんだ。そして上手にできたらゲーム屋さんに売って、多くのお金を貰うのさ!」
母は僕の夢を頷きながら聞いてくれた。母も嬉しそうだったので、僕も喋りながら舞い上がってきた。
「大きな夢ね。それじゃあ、その夢のために今日から頑張りましょうか。まず何からしたらいいかしら。私もゲームの作り方なんて考えた事なかったから、分からないけど」
「僕が考えるよ。図書館に行って調べてもいいし、先生と一緒に調べるのもいいかも」
夢が現実味を帯びてきたことで、興奮は更に高まった。今すぐにでも手が夢に届く気がしてならなかった。
「それじゃあ、土曜日に本屋に行ってみる? もしかしたらゲームの作り方とか本があるかもしれないわ」
冷静さを欠いて、僕は大げさに首を縦に振った。親の前でここまで興奮するのは、ゲームを買ってもらった時以降久しぶりだ。
無限大な人生を送れる気がして、楽しかった。
僕は自室に向かって宿題をするために机に座り、算数のドリルを見ながら問題を解いていったが、集中するのが難しく、時々問題を見ながらどんな風なゲームを作ろうか考えていた。今の僕は、夢に夢中だった。
なんとか宿題が終わったら、僕は自由帳を開いて夢物語を綴っていった。
敵が出てくる。
ヒーローがそいつらを倒す。
ヒーローは大体こんな感じ。
敵はこんな格好をしていて、ラスボスは第一段階、第二段階、変身する。
シナリオはどうしようか、と悩んでいると、気づいたら夕食の時間だったらしく、母が僕を呼びに来た。
「ご飯よ、宿題は終わってる? 復習は?」
まだ興奮の熱が冷めない僕は、活気よく返事をした。
「宿題は終わってるよ、だけど復習がまだ。ご飯食べたらやる」
「そう」
母は机の上にある自由帳を見た。僕は急に恥ずかしくなって思わず閉じた。慌てた拍子に、鉛筆が落ちた。
「待ってるわね」
一瞬熱は冷めたが、自分の書いた自由帳を開けると再び暖まってきた。ここに記されているのが僕の夢なんだ、と思うとたまらなく嬉しかった。
夕食の席に着いた。机には、生姜炒めの、一口で食べれるように切れた豚肉と市販のポテトサラダ。様々な具の入った味噌汁と、漬物、白米が並んでいた。
僕は弟の拓也や父にも夢の事を話した。拓也は「マジで!」と言って期待する眼で僕を見て、父は口に物を入れながらも感嘆した。楽しみにしてるぞ、と言いながら、母に口に物を入れて話さない、と注意されていた。
「で、どんなゲームを作るんだ?」
僕は母を見た。にこにことした事から、やっぱり自由帳の中身を見られてしまったんだな、と恥ずかしくなった。
「ひ、秘密。出来てからのお楽しみ」
「なら尚更楽しみになっちゃうなあ」
「兄ちゃんすげえ」
今日のディナーの話題は僕の夢で盛り上がった。今も、まるで夢のなかにいるんじゃないかと思う程楽しかった。
夕食を終えて、冷凍庫からカップに入ったストロベリーアイスとスプーンを持って自室へ戻り、終わっていない復習と、夕食後に行う予定の予習を纏めて行った。アイスの甘みが興奮を緩和しているのと、難しい範囲の復習であったせいもあり、宿題をやる時よりかは勉強に集中できた。
時間を気にしていなかったが、勉強が終わった時はおおよそ九時頃であった。
「兄ちゃん、兄ちゃんが風呂入ったらゲームしようぜ」
風呂上がりで、タオルで頭を拭きながら拓也は言った。
「いいけど、拓也宿題やったか?」
今日、拓也は友達の家に遊びにいくといって帰ってきたのは夕方の五時であった。夕飯が六時半からだったので、多分宿題はまだ終わってないんじゃないか。拓也の担任の先生は宿題の量が多いことで評判が別れている。
「後ででいいって!」
「てきとうだな。僕が風呂に入ってる間に終わらしとくんだよ」
「わかったわかった」
僕はタンスの中からパジャマを用意して風呂場へ向かった。
湯船に浸かると、不意に閃きがまさに舞い降りる事がよくある。今日もゲームをどう作ろうか考えている最中、斬新なシステムを閃いた。表現はできないが、格闘ゲームをRPGのゲームと融合させたようなイメージだ。
のぼせるといけないので、今日は早めに風呂に出た。拓也が待っているから、という理由もある。風呂から出てバスタオルで体を拭き、髪を乾かさずにすぐに部屋に戻った。
「宿題は?」
テレビの前でゲームのコントローラを握った拓也に話しかけた。
「まだ」
まったく、と思いながらも「内緒だぞ」と弟を甘やかし、僕ももう一つのコントローラを握った。