伝書弟
私が事務所の玄関を開けた時、亜紀ちゃんの部屋からその主の大きな笑い声が聞こえた。接客中という札をしていない。まさか亜紀ちゃんは何かの拍子に狂ってしまったかと不安を覚えたが、その後に少年くらいの男の子が何かを訴えるような声をしているのが聞こえて、室内には二人いることが分かって安心した。
その声に聞き覚えがあり、気になった私は亜紀ちゃんの部屋を覗いた。
「あ、オーナー! お勤めご苦労さまっす~!」
「はいはい、今日も元気がよろしくてなにより。……お、君は」
扉から中に入った時は分からなかったが、私に頭を見せているのは水染君の弟、拓也だ。
「ど、どうも」
彼は立ち上がった後、謙虚にも頭を下げた。兄にそっくりだ、と褒め言葉を掛けてやりたかった。
時間は三時半を過ぎていたので、拓也がここにいるのは不思議ではない。学校は三時十五分くらいには終わり、そしてここから近い所にあるのだ。ちらほら、拓也と同じ中学の学生姿を見る。
「まあ、ゆっくりしてなさいね。亜紀ちゃん、どんな相談を受けても拓也君から
お金を取るんじゃないよ?」
「分かってますよ! 私そんな悪徳なことしませんっ。それに、拓也君は八条さんに用があったそうですよ」
「私に? そうなの?」
「え、ああ、はい。まあそうですけど」
けど、の後に言葉が続くのかと思ったが、どうやら何もないみたいだ。私は彼の態度が気になった。拓也君が人見知りであることはレストランで会う前から分かっていたことだが、今日は様子が違う。細かく言えば、焦っているように見えてしまう。先ほど席を立つ時も、驚いたように反射神経で咄嗟に立ったとも見えた。
「ここで話す?」
「いえ、できれば八条さんだけに」
えー、と亜紀ちゃんは退屈そうな声をしながら目を細めた。
「私を混ぜてくれてもいいよ!」
「いえ、その、遠慮しておきます」
「え、遠慮って!」
拓也君の選ぶ言葉のセンスには、母親譲りだ。奈帆さんは時折、斜め上の言葉を飛ばしてくることがある。
「ま、そういうことだから。じゃね、亜紀ちゃん」
「オーナーずるいっ。後で教えてくださいよ?」
「えー。どうしようかな。亜紀ちゃんよくサボるし」
「お菓子とか買ってきますから! なんなら他にも色んなことしますから!」
私は水染君の弟に興味津々な亜紀ちゃんを傍目に、颯爽と部屋から退出した。色々魅力的である亜紀ちゃんの提案は、拓也君の話しの内容によっては受け入れるかもしれない、と考えている。
彼が私に何の用があるのかは皆目検討もつかないまま執務室へ招き入れ、ソファーへ座らせた。調査からの帰り際に昼食の代わりとなるお菓子を買ってきたのだが、それを簡単に皿に盛り付けて提供した。六つに分けられたカステラで、皮に挟まれた黄色い本体は、視覚さえもしっとりさせてくれる。
その傍ら、暖かいほうじ茶を机に置いたところで、私はようやく席に着いた。
「亜紀ちゃんからいじめられなかった? あの子、年上から弄られる代わりに、年下の、それも気弱な男の子には容赦ないからね」
思い当たる節があるというように、「ええ」と拓也は声量を落として頷いた。
「やっぱり。相変わらずねえあの子は」
「あの、八条さん」
「うん?」
私は足を組み、その足を抱えるように両手を前に出しながら拓也の言葉を待った。彼は悩んでいるようで、すぐには続きを話さなかった。
「本当に、兄は何も言いませんでしたか?」
「うん。何も言ってくれなかったよ」
「そうですか……」
やや不思議そうな顔を、彼は浮かべた。私はそれを不思議に思った。
「突然どうしたの?」
「いえ、その。実は兄は、僕にだけ言い残してくれたことがあるんです」
「本当に?」
組んだ足を解き、私は慎重になって彼に尋ねた。
「それはいつのこと?」
「兄が死ぬ前の夜です。八条さんに会いに行くっていって家を出る前のことでした。その時僕は部屋で漫画を読んでたんですけど、突然入ってきました」
真面目そうな拓也がどんな漫画を読んでいるのかも気になったがそれはさておき、兄が弟だけに言い残す言葉といえば、何があるのだろう。
「お兄さんがなんて言ったか覚えてる?」
「はい。兄はこう言っていました」
言葉は途切れ途切れで朗読にしては素人という感じであったが、拓也は兄の言葉をしっかりと代弁した。私はそれを拓也の言葉ではなく、俊の言葉としてしっかりと聞いた。
「お願いがあるんだ。明日、俺は死のうと思っている。ちゃんと用意もできた。だけどそれだけじゃ皆を混乱させてしまう。拓也、お前に、皆の案内人になってほしい。しっかりと皆がそこに辿り着けるように」
拓也はこう返した。
「死んじゃだめだよ兄さん。何があったんだよ。僕でいいなら相談に乗る、どうかしたの?」
その言葉に、悲しそうに俊は俯いたという。拓也は、何かを感じ取ったようである。その時兄の目に映っているものが、今自分が見ている物とは少し違ったものだと。兄の出すオーラが、違っていると。
「せめて、お願いだ」
弱気な兄に、拓也は戸惑うしかなかったようであった。ひざまずき、懇願してお願いされているのだ。
私は想像することはできた。しかし、そこに存在する幻想感を取り除くことができなかった。
そして拓也は、兄から受け取ったという。
例の封筒を。
「それじゃあ、あなたが……」
私はすぐに信じられずに拓也を見た。封筒を彼が置いたという証拠はない。同じように、彼が置いていないという証拠もない。水染家のテーブルの上に置ける人物、私の郵便受けに封筒を入れることのできる人物、彩香の家に封筒を置ける人物。それの全てに拓也は該当する。彩香の家に言った理由は、封筒を届けるためであったのだ。
「黙っててごめんなさい!」
押し殺すように、苦しそうに彼は声を出した。私から視線を逸らし、説教を身構えるように姿勢を低くしている。
「お母さんにはこの事、ちゃんと言ったの?」
「言えませんでした。怒られるのが怖くて、それに、兄さんはあまり望んでないと思って。……いや、これは僕の言い訳です。怒られるのが怖かったんです。だから言えなかった。早く言ってれば、よかったのかもしれないんです」
立派な様子で、彼は謝っていた。大学へ調査しにいった時に見た学生から、このような口調と態度を想像することはできないな、と感じた。だから私は、微笑んで彼を受け入れた。
「私の所にきた理由はそれだね。どうしても秘密を誰かと共有したかったんだ」
「僕一人じゃ責任が……」
「本当にね。俊君も罪だよ。弟にだけ荷を負わせるだなんて」
彼がカステラに手を付け間ができたので、しかし、と私は考えてみた。
「なんで拓也君だけにそんなことを話したんだろうね」
「分かりません。でも、これを聞いたらお母さんはすっごく悲しむと思います」
美味しいカステラなのだから美味しそうに食べてもらいたかったのだが、彼の表情はそれを言っていなかった。彼の中にある抵抗が、甘味を消し去っているのだ。
「私もちょっと心外かもね」
何気なく呟いた言葉が、彼が感じる甘味を全て消し去ってしまったのかというように苦い顔をした。さすがの私でも、言葉には出さないながらも反省した。
「普段、お兄さんとはどんな話をしているの?」
「学校はどうだ、とか、趣味は見つかったか、とかですね」
「趣味? 面白いこと聞くのね俊君は」
「僕には趣味がありませんでした。今もそうなんですけれど。兄さんは趣味が生きがいな人だから、それがない僕を気にしてくれてたんです。僕は兄さんのように小説は書けないし、スポーツはできるといっても平均的くらい。一回、趣味って何だろうって兄さんに聞いてみたんですけど、面白い答えが返ってきたんですよ」
「へえ、気になるね」
「夢にしたいものが趣味なんだって、言ってました」
事務所では何かを語ることのない執事のような彼から出てきた言葉としては、ロマンがあるもので心がくすぐられた。
「夢がない人生なんてつまらないって。僕もそう思います」
「そうだね。趣味は、自分がしていて楽しいことだから、それがない人生はつまんないよね」
この兄弟の日常会話をまとめるだけで、値打ちの高い名言集ができそうだ。
「兄と話すことは珍しいことじゃありませんでした。仲良しかって言われると、ううん、どうなんだろうっていう気もするんですけどね」
拓也は緊張が解けてきたのか、畏まった表情を綻ばせた。若干背中も丸まっている。
「良いと思うよ二人の仲は。私が保証してあげなくもない」
しかし、とまた私は考えてみた。
拓也と話すことは珍しいことではなかったという事が判明した。俊君は母ともよく話をすると念頭に置いている。
「でも、僕に何があるんでしょうね。兄は、僕に何かあるから言い残したんでしょう。お母さんになくて僕にあるものって……なんだと思いますか」
口を動かしながら私は考えた。水染家とは接点があまりない。だから彼らの家事情など知る由もないが、だからこそ見えるものがあるのではないか。私は拓也の答えを一緒に考えてやった。
見当たらなかった。ほうじ茶を啜る音が、なぜか悲しげに聞こえた。
「年下か年上か、の違いだね。お母さんと、君との違いは」
「はい。でも、普通ならこういうのは、経験とか色々ある親に言うものだと思うんですけど」
「俊君は一般の枠に囚われるのが嫌いだったからね、多分。その、普通になりたくなかったんじゃないかな、とも考えられるけど」
「だけど、だとしたら自分勝手過ぎますよ。全てを他人に押し付けたんですよ」
拓也は再びお茶を飲みながら、最後に付け加えた。
「僕は兄が分からない。……なんで死んでしまったのかも、どうして僕に押し付けたのかも」
「拓也」
私と、呼ばれた当の拓也は同時に扉を見た。拓也を呼ぶ声と同時に扉が開き、片手にビニール袋を持って小原君が現れた。
「何の話してんのかしらねえけど、あいつはそんなことをする奴じゃなかっただろ。全てを弟に押し付けるだって? 馬鹿言うんじゃねえぜ」
ビニール袋をカステラの横に置いた。中には酒缶とポテトチップス、何らかのガム、おつまみが入っている。そうしてから彼は、私の出番を奪うように隣に座り、体を乗り出し得意げな顔をしてこう言った。
「弟のお前が兄を信じてやれなくてどうする」
ちょっと話の趣旨が違うな、と思いつつも、拓也は緊張した顔を解いた。
「……八条さん、今日はありがとうございました。帰ります」
「え? ちょっとまてよ、俺邪魔だった?!」
「いや、そうじゃないよ」
ここにきて、初めて拓也は微笑んだ。私が導きだすことのできなかったその顔を、小原君はすぐにやってのけてしまった。
「とりあえず、兄を信じるところから初めてみます。八条さん、ありがとうございました」
「うん、そうだね」
拓也が出て行くと、隣に座っていた小原君が対面のソファーへ移動した。私は彼がここにきた経緯を簡単に話した。封筒の届け人は自分であるという告白まで、全て明かした。
「にしても小原君、盗み聞きしてたわけじゃないのによくあんな台詞を思いついたね」
「ああ、いやあ。拓也と話してると、たまに感じるんすよ。拓也の奴、俊をあまり信用してないなって」
「どうして? 私はあまり感じなかったけど」
「そりゃ、八条さんには無理っすよ。あまり拓也と話したこともないっすよね」
「そうだけど。それで、どうしてそう感じたのか教えてくれない?」
「俊がそう言ってたんすよ。俺にね」
新鮮味の薄れてしまったカステラの刺さったフォークを片手に、喉に酒を通しながら彼は思い出を反芻するように語った。
「俺は弟に何もしてやれてない、ただ夢だけを語って、それが実行できてない。そして何より、本気で自分と向き合ってくれない。俊はそう言ってたんすよ。俺はそれだからだめなんだって言ってやったんすけどね。そんなネガティヴだから弟に信用されねんだーって」
「そしたら?」
「何も言わなくなっちまいました。やべっ、地雷踏んだかな? って俺も焦ったんすよ。だけど別にそうじゃなかったみたいで、普通に別の話題になったんすけどね」
小原君はカステラを頬張りながら、「ああ、だから」と付け加えた。
「だから、信用してやれって言ったんすよ。拓也が何か悩んでんなら、それが一番ピッタシかなって」
「無責任だねえ」
缶の酒は六本もあったので、私は一本目を躊躇なく開けて飲んだ。そこからは、いつものように小原君の愚痴を聞く作業が始まった。
酒のほろ苦い味が、拓也の表情を思わせた。