プロローグ
――どうして。
私が彼女に事実を述べた時、咄嗟に聞こえたのだ。あとに言葉は続かない。私は何が続くのかを考えることはできたが、今は頭を働かせる気はしない。
「あの子は、何か言ってましたか。あなたに、何か」
「水染君は昨夜、ここを訪ねませんでした」
「そんな……」
悲しみ方もまた、彼女は端麗であった。顔を歪めることはなく、涙と鼻水でみっともなく汚すことはない。
ただ細い涙が頬を伝うだけであったが、私は彼女の悲観を感じ取れた。
母が子供を失ったのだ。
「昨夜、何か……奈帆さん、母のあなたに水染君は何か言い残したことはありませんか」
「ありません、何も。何もなかったんです。私には、なにも」
悔しいだろう。人生をかけて育ててきた息子が、自分に何も言うことなく世を去るというのは。
「お父様には、私の方からご連絡しましょうか?」
「いえ、平気です。私から言います」
気の毒でならなかった。水染君は将来有望な子だった。毒気のない彼は決して棘のある言葉を言わなかったし、小説に対する意欲も人並み以上であった。最近の若いのはだめだ、と言う若くないのを閉口させることもできるだろう。
「どうして死を選んだのか、分かりますか」
言葉に対し、私はつとめて優しく声を出した。
「分からないことが悔しいですね」
揺れる声で彼女は言った。水染君が無口なことは知っていることではあるが、まさか死の直前まで誰にも言わずにいることは私は納得ができなかった。
内なる情熱に燃えていたのだ、彼は。
そもそもこの事務所にきたのだって、ミステリーを書きたい彼の意志によるものだったからだ。自己顕示欲は誰よりも高次元のものであるはずだった。それができないと悟った時の悔しさも高く、それを何も残さずして姿を消すのは、私には理解できなかった。
残した物は少なからずあるはずだ。
「でも」
私は口を閉ざした。彼が何かを残していることに私は自信はあった。その理由だけで彼女を責めてはいけない。
「いえ、なんでもありません。水染君は本当に良い子で、事務所の中でも一目置かれた存在でした。本当に、残念でなりません」