始まりの朝
翌朝、目を覚ました時には、昨日より少しだけ身体が軽かった。
「あっ、いつもよりも寝坊しちゃった……。すごくぐっすり眠れた……」
腕の痣はまだ消えていなかった。
黒い蔦みたいな線が、私の白い肌に静かに張り付いている。
これからどうなってしまうか少し怖いけど、それでも心は白綾にいたあの頃よりも穏やかだった。
私は着替えを済ませて、鏡の前に座る。
「……もう少し大人っぽくなれたらいいのにな」
まだ少女と言っても通じる年齢。朔夜様はとても大人っぽいから、隣に並んだら変な感じになってしまう。
母様の形見の櫛で髪を整える。真新しい鏡台に着物。まだまだ慣れないけど、こんな特別なことは慣れない方がいいと思った。
だって、毎日が素敵に感じられるから。
「口紅……、軽くだったらいいよね」
篝さんが「正式に姫様になったんだから、少しはお化粧も覚えなさいね」といって、私に化粧道具を渡してくれた。化粧の手ほどきが書かれてある紙と一緒に。
紅を引いてみた。
「……そっか……、心が引き締められるんだ」
気持ちが切り替わったような気がした。なんだろう、これなら朔夜様の前にいても堂々としていられる。
「よし、行こう」
襖を開けて廊下に出ると、すでに屋敷の人たちが働いていた。
みんな忙しそうなのに、顔を合わせるとちゃんと挨拶をしてくれる。
白綾家ではなかったことだ。
あそこでは私は……見えないものとして扱われていた。
「あっ、澪様、おはようございます」
「お、おはようございます……」
「おはよう、巫女のお姉ちゃん!」
正直、まだ慣れない。普通に扱われることに、私は全然慣れていない。ぎこちない挨拶を返す。変な風に思われていないか心配だった。でも、笑顔を向けられると、自分の自然と笑顔になるんだって気がついた。
そして、家事仕事をするために調理場に向かおうとしたら、篝さんが廊下の向こうから歩いてきた。
「起きてたのね。ぐっすり眠れた? ちょうど良かったわ。今日は朝餉を一緒に取ってもらうから」
「えっ、あ、あの……私も、ですか? その、家事仕事は?」
「人には役割分担があるのよ。あなたは当主付き巫女なんだから違う仕事があるの」
当主付き巫女。
その言葉を聞くたびに、自分でもまだ不思議な気持ちになる。
私はこくりと頷いて、篝さんの後ろについていった。
通されたのは昨日とは違う部屋。 『当主食堂』と書かれてあった。
扉を開けると、朔夜様の洋室の雰囲気とそっくりだった。
西洋風の長いテーブルと椅子。家具は統一されていて、意匠がとても細やかでみていて飽きない。
調光も趣向を凝らしており、朝の柔らかい光が部屋の輪郭を彩る。
そして、書類を見ている朔夜様が座っていた。
「さ、朔夜様、お、おはようございます」
「……ああ、おはよう」
私は足を止めた。
昨日のことがよぎる。抱きしめたこと、名前を呼ばれたこと、腕の痣。すごく大変だったけど、なぜか、朔夜様の顔を見ると恥ずかしくなる。
「突っ立ってないで座りなさいよ」
「あ、は、はい……」
篝さんに促されて、私は一番端の席に小さく座った。
朔夜様は挨拶をした後、ちらりとこちらを見ただけで、すぐにコーヒーへ視線を戻した。
「おう、澪様。今日から毎朝ここで朝餉を食べるぞ。俺と篝はいる時といない時があるが、澪様は絶対にここにいてほしい」
黒鉄さんがパンを頬張りながら笑顔を私に向ける。
机の上には、温かい朝食が並んでいた。
湯気の立つスープに、焼きたてのパン、卵料理、果物。それに、あの珈琲の匂い。
私は思わず、息を吸った。
好きな匂いだと思った。不思議と落ち着く匂い。
「どうした」
朔夜様の低い声が飛んできて、私は慌てて手を振った。
「い、いえ……その……いい匂いだなって……」
「……コーヒーか?」
朔夜様が書類を置いて立ち上がる。「わ、私が淹れます」と慌てて言ったら、篝さんが――
「朔夜様の趣味なのよ。自分で淹れたコーヒーを飲んでほしいのよ。いいから座ってな。ほら、朝餉にしましょ。私、もうお腹ペコペコよ〜」
篝さんがパンを手に取ってスープに浸して食べ始めた。
「……ブラックでいいんだな?」
「は、はい、香りがとても良かったので、大丈夫です」
「……気が向いたらミルクとシュガーも試せ。何事も経験が大事だ」
「はい、今度試してみます」
すごい、朔夜様がこんなに喋ってくれた。コーヒーが本当に好きなんだ。
手渡されたコーヒーを見つめる。……なんだか自然と笑顔をこぼれてしまう。
私はこんな朝餉を知らなかった。
誰かが無理に話を盛り上げるわけじゃないのに、食器の触れ合う音や、黒鉄さんと篝さんの言い合いがあったり――
――なんだろう、家族ってこんな感じなんだって思った。
私は慌てて首を横に振った。家族だなんて、そんなおこがましい。私は昨日来たばかりのよそ者だ。
それでも、白綾家の冷たい食卓を思い出すと、この場所はあまりにも温かかった。
「食べないのか」
朔夜様の声で、私ははっと我に返る。
見ると、私の皿だけほとんど手がついていなかった。
「す、すみません! あの、その……こんなにちゃんとした朝ご飯、久しぶりで……」
言ってから、自分で何を口走っているんだろうと顔が熱くなった。
黒鉄さんが苦い顔で黙り込み、篝さんはため息を吐く。
朔夜様だけはただ、表情を変えずに私を見ていた。
「……冷めるぞ。食べてくれ」
「は、はい」
私は慌ててスープを口に運んだ。
「美味しい……っ」
口に含んだ瞬間、温かさが身体中に広がった。優しい味がする。麻痺していた身体に活力を与えてくれるような感じだった。
それはパンも同じだ。柔らかいパンはバターの香りがたっぷりと感じられ、スープにつけて食べると驚くほど美味しかった。
それだけのことなのに、喉の奥がつまってしまって、私は必死に泣きそうになるのを堪えた。
泣くのは駄目。
こんなことで泣いていたら、きっとこの家でも嫌われてしまう。
こんな朝があるんだって知ってしまった私は、元の場所へ戻れなくなっていた。
私は必死で涙をこらえながらパンを齧る。ふと、朔夜様の視線を感じた。
「……ゆっくりでいい。篝、あとは頼んだぞ」
***
朝餉の後、篝さんに「今日は屋敷の中庭を覚えてもらうわ」と言われ食堂を出た。
当主付き巫女。
その肩書きの意味は、まだ全部はわかっていない。何をするのかさえもわからない。
でも、少なくともただ客人として部屋に閉じ込められるわけじゃないらしい。
私は、自分に役目があるだけで嬉しかった。
働いていると考え事が少なくて済む。働いていると自分に少しだけ価値がある、と実感できる。
「はい、ここが九鬼家の中庭ね。結構綺麗でしょ?」
「はい……、とても素敵です。でも――」
庭は思っていたよりずっと広かった。
木々も、池も、石灯籠も、白綾家よりずっと手が入っている。けれど、どこかに必ず黒い気配がある。
花が咲いている場所のすぐ隣に、重い空気が沈んでいたりする。
綺麗なだけじゃない庭だった。
「そっ、九鬼家はね、見た目だけ整えても意味がないの」
篝さんが歩きながら私に言う。
「呪いは毎日少しずつ滲む。人の感情みたいにね。放っておいたら屋敷ごと腐るわ」
「……だから、みんなで手入れしているんですね」
「そういうこと」
篝さんは頷いた。
私は庭石の脇にしゃがんだ。
小さな呪いが、石の根元にしみついているのが見えたからだ。
「あら、そんな所まで見えるの? 大きいの呪いはわかりやすいけど、それは『序』だね。まだ生まれたばかりの呪い」
「生まれたばかりの……」
「触らないでね。あなたが呪いを喰うのはわかったけど、まだ正確な原理は判明してないわ……この程度は護符で十分だから」
篝さんが私に強い言葉で言った。
「小さい穢れでも、あなたには毒になるかもしれないわ」
「は、はい……」
私は手を引っ込める。
怒られたわけじゃない。心配されたんだと分かっていても、反射的に身体がこわばってしまう。
そんな自分に少しだけ苦笑いした。
白綾家では、何かを触るなと言われる時は、だいたい責められる時だったから。
ここでは意味が違うのに、身体の方がまだ覚えてくれていない。
「うん、わかればよろしい! あとで、簡単な呪いの除去方法を教えるね。護符を使えば大丈夫だから。じゃあ、次は――」
庭を回った後は、屋敷の様々な場所を案内された。
封印蔵に近づいてはいけないこと。
西側の廊下は夜になると特に濃くなること。
朔夜様が一人でいる時は、呼ばれない限り勝手に近づかないこと。
黒鉄さんの部屋には勝手に入らないこと。
篝さんの仕事道具を触ると怒られること。
「最後のだけ普通の注意ですね」
思わず口にしたら、篝さんが肩を揺らして笑った。
「あら、そうよ? 私の道具は高いんだから」
こうして笑えるんだな、と私は少しびっくりした。
九鬼家の人たちはもっと全員怖くて、何を考えているのかわからない人たちだと思っていた。
でも実際は違った。噂とは程遠い。みんな、ちゃんと生きていた。
普通の家よりもずっと大きな苦しみの中で、それでも笑っていた。
その時、庭師らしい年配の男性が困った顔で篝さんに声をかけた。
「篝様、北庭の結界石なんですが、また少し黒ずんでおりまして……」
「また? ちょっと早いわね。じゃあちょっと見てくるね。澪様、行くわよ」
「は、はい」
北庭に置かれている結界石。大きな石に護符が貼り付けられており、霊力を感じられる。
小さな黒い膜みたいなものが、結界石の表面に張りついていた。
「……これ、少しだけなら」
言いかけた瞬間、篝さんが私を見た。
「ちょっと何をするつもり?」
「いえ、その……手をかざすくらいなら、もしかして……影響ないかもしれないです。あの、多分、大丈夫です」
本当に、ただの勘だった。
でも、昨日から何度か、自分の中の何かがこういう時にざわつくのを感じている。
「……いいわ、試してみて。絶対に無理しないでよ」
篝さんは少し迷ってから、ため息を吐きながら言った。
「は、はい、無理はしないです。朔夜様のあんな顔は見たくないです」
「なら、上等よ。私は術で様子を観察してるわ」
私はこくりと頷いて、そっと手を結界石に近づけた。
触れてはいない。でも、私の身体の中にある「力」を行使する。
黒い膜みたいなものがわずかに揺れた。吸い込まれるみたいに、少しだけ薄くなる。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
完全には消えていない。
でも、さっきより確かに薄くなった。それに、自分の身体には何の影響もないようにも思えたけど……ちょっとだけ指先が冷たくなっていた。
庭師の男性が目を丸くしていた。
「おお……これは……、ありがとうございます! 呪いが強くなると、あやかしが近づくんで困るんですよね」
庭師はお礼を言って、自分の仕事場へと戻る。
私と篝さんは何も言わずに石を見つめている。
「完全には消せなかったです……。多分、これ以上無理すると私の何かと引き換えになります」
「ええ、ちゃんと『視た』わ。呪いの流れはあなたの身体に行っていなかったわ。うん、これだけ呪いが薄くなったのなら。それで十分よ。というよりも十分過ぎるわよ」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
役に立てたんだ……。
白綾家では一度も言われたことのない言葉だった。
「あ、ありがとうございます!」
私、ここでなら、本当に役に立てるのかもしれない。
そんな希望が、少しだけ現実味を帯びてきていた。
***
その日の夕暮れ、私は一人で縁側に座っていた。篝さんが、私が呪いを祓ったから少しゆっくりしろって言ってくれた。
どうやら、あの規模の呪いでも、祓うのは時間と護符、要はコストがかなり必要みたいだった。
夕刻はゆっくり休んで欲しい、とのこと。
だから、この時間は、篝さんがプレゼントしてくれたご褒美の時間みたいなもの。
日が落ちる前の空は淡くて、庭に伸びた影が少しずつ長くなっていく。
屋敷の空気は相変わらず重いけれど、昨日よりは呼吸がしやすい気がした。
「綺麗……夕日ってこんなにきれいなんだ」
手を空にかざす。夕日に照らされる私の腕の痣。
痣はまだ消えていない。
私の「力」で無理やり消そうとしたら、きっと大変なことになる。それが感覚で分かった。
昼間、結界石の穢れが少しだけ薄くなった時、私ははっきり思った。
この力は、ただ私を苦しめるためだけにあるんじゃないのかもしれない。
誰かの役に立つ力なのかもしれない。
自分の身体に何が起きているのか、まだ全然わからない。
でも、わからないからって、何もしないまま終わりたくなかった。
ふと、良い匂いが縁側に漂った。見上げると――そこには朔夜様が立っていた。
「……そんな顔をして、何を考えている」
いつからそこにいたんだろう。私の後ろ立って、夕日をみていた。視線を下ろす。私と目が合う。
「は、はい……、私の力のことです」
「考えすぎても無意味だ。そういうのは必然の時に、わかるものだ。」
「……ふ、深いですね」
「経験談だ。気にするな」
朔夜様は昨日みたいな険しい顔ではなかった。
でも、柔らかいわけでもない。ただ、どこか疲れて見えた。
「昼、結界石に触れたそうだな」
「は、はい。勝手にすみません」
「別に怒ってはいない。篝が許可を出したのなら構わない」
怒ってない。その言葉に、私は少しだけ安心した。
「だが、無理はするな」
私は袖の上から自分の腕を押さえる。
「……無理、してるつもりはないんです。役に立ちたいと思って……」
「自覚がないのが一番厄介だな」
ぴしゃりと言われて、私は言葉に詰まった。
その通りかもしれない。
私は昔から、自分のことがあまりよく分からない。
痛いのも苦しいのも、我慢するうちに普通になってしまっていたから。
「お前は……」
朔夜様の声が少しだけ険しくなっていた。それは私を通して、違う何かに向けているような言葉だった。
「役に立ちたいと言うが、それと自分を削るのは意味が違う。そこを間違えるな」
私は顔を上げる。
夕暮れの薄い光の中で、朔夜様の横顔は綺麗だった。
でも、綺麗という言葉だけじゃ足りないくらい、寂しそうにも見えた。
「……はい」
そう返事はしたけど、ちゃんと分かったかどうかは自信がない。
朔夜様がそれを本気で言っていることだけはわかった。
自分のためじゃない。
私のために言ってくれている。
だから、ちゃんと言葉の意味を考えなきゃ。
「いまじゃなくてもいい。いつか理解しろ。まあいい、明日は街に出る」
「街……ですか?」
「ああ。見回りだ。お前も来い」
私は目を瞬かせた。
九鬼家の外。朔夜様と一緒に??
「え……、私もですか?」
「当然だ。お前は当主付き巫女なんだろう? なら横にいるのが普通だ」
嬉しかった。
ついこの前まで白綾家の落ちこぼれだった私が、明日はこの人の隣で外へ出る。
それがどれだけ大きな変化なのか、私にはちゃんと分かっていた。
「……はい、一緒に行きます!」
そう答えると、朔夜様は小さく頷いた。
それだけで会話は終わってしまったけれど、私の胸の中では何かが静かに動いていた。
朔夜様はこの場を去っていった私はその背中を目で追いかけながら、そっと自分の腕の痣を撫でた。
――嬉しい。
こんな気持ちになるなんて、以前の私では考えられなかったら。
明日、街へ行く。
その言葉だけで、心が弾むような気がした――




