認められて
「……ここ、どこ……?」
目を覚ました瞬間、身体が自分のものじゃないみたいだった。
重い。とにかく重い。
布団から起き上がろうとしただけなのに、腕も肩も、胸の奥までずしりと鉛を流し込まれたみたいに痛んだ。
「……いたっ」
思わず声が漏れる。それでも、この痛みは昨日のことが現実だったっていう証でもあるんだ。
昨日のことは、ちゃんと覚えている。
朔夜様が苦しんでいたこと。屋敷中に呪いが満ちていたこと。虎みたいな強力な呪いが朔夜様から出てきたこと。
そして――私が朔夜様を抱きしめたことを。
そこまで思い出した瞬間、反射みたいに自分の腕を見た。
「……っ」
白い肌の上に、黒い痣が浮いていた。
うっすら、ではない。
昨日より、はっきりとしている。まるで細い蔦が皮膚の下に入り込んだみたいに、黒い筋が腕に絡みついていた。
「……怖いよ」
でも、同時に、どこかで納得もしていた。
だって、あの時、私は確かに「何か」を自分の中に入れたのだから。
「私が呪いを入れてしまったんだ」
呟いた声は、思ったよりも落ち着いていた。
本当はもっと慌ててもいいはずなのに、心のどこかが妙に静かだった。
そこで障子が開く。
「あら、起きたのね! どう、このお部屋? 素敵でしょ! ほら、あなた荷物少ないから、帝都へ買い出しに行かなきゃね!」
「お、おはようございます……。あっ、すみません! 仕事、始まってますよね?」
「はぁ〜、もうあんなことがあった後だから、しっかり休んでいなさい」
いつも通りの篝さんが部屋にやってきた。
でも今日はいつもよりも少しだけ疲れて見えた。目の下に薄く影が落ちている。
「そ、それでも」
「それでもじゃないの」
篝さんは冗談っぽい口調だったけけど、私の身体を探るように見ていた。心配と疑念、それが混ざり合っていた。
視線が、まっすぐ私の腕の痣へ落ちる。
「やっぱり残ったわね」
「これ……」
「昨夜あなたが喰った呪いの痕よ」
「私が……食べた……」
「あのね、とぼけても駄目よ。……呪い、あなたの身体の中に残っているんでしょ?」
「……はい。その、嘘ついているわけじゃないんです。私、呪いを消せると思っていたんです」
「そんな巫女がいたら、奇跡に近いわよ」
あっさり言われて、私はもう一度自分の腕を見た。
「じゃあ、昨日のあれで、全部終わったわけじゃ……あっ、朔夜様の呪いは――」
「ええ、人生はそんなに都合よくいかないわ」
篝さんの声は静かだった。年齢を感じさせる重みがあった。
「あなたが消したのは、表に噴き出していた呪いだけ。屋敷の奥にも、朔夜様の中にも、まだ残っている」
私、役に立たなかったのかな……。その事実に少しだけ落ち込んでしまった。
私はまだ何も救えていないんだ。
そう思ったのに――そのすぐ後で、違う感情も浮かんだ。
心の奥から強い気持ちが浮かんでくる。朔夜様の役に立ちたい。今度こそ、朔夜様の笑顔を見たい……。
あれ? 私、朔夜様の笑顔を見たいって思っているの?
なんだか、照れてしまって顔が赤くなってしまう。
篝さんが私の様子を見て、呆れたように息を吐いた。
「あなた、本当に変な子ね」
「え……?」
「普通はもっと怯えるのよ。というより、九鬼家の呪いなんて、逃げ出すのが普通なのにね」
そう言われて、私は少しだけ困ってしまった。
確かに怖い。
腕の痣も、身体の重さも、昨日の呪いを思い出すだけで息が苦しくなる。
それでも――
「……朔夜様はご無事ですか?」
気づいたら、そう聞いていた。
「ええ。少なくとも昨日みたいに呪いが溢れ出してはいないわ。今回の『慟哭は』今までで一番酷かったから、少し辛そうだけど、死者が誰も出なかったから安堵していらしたわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。本当に良かった。朔夜様、喜んでいらしたんだ……。
立ち上がろうとしたら、少し振らついた。篝さんが私の額にデコピンをしてきた。
「いたっ」
「あなたは自分の身体の心配をしなさいな。全く、二人して自分の身体の心配をしないんだからさ」
「は、はい……すみません……」
そう返事をしながら、私は腕の痣にそっと触れた。冷たい。
でも、昨日みたいな暴れる痛みじゃない。
まるで、まだ私の中で何かが眠っているみたいだった。
***
「じゃあ、ここ置いておきます」
「この荷物はここでいいですか?」
「あ、このコーヒー豆も澪様のお荷物です」
「梱包を解いて設置しておきますね」
その後、代わる代わる、私の部屋に訪れる屋敷の人だったり、配送員の人。沢山の荷物が私の部屋を埋め尽くした。
布団があっただけの何もない部屋が、とても素敵な部屋へと変化した。
華美過ぎず、地味すぎず、とてもセンスの良い調度品。
正直、私にはもったいなさ過ぎて落ち着かなかった。
屋敷の人に聞いたら、これは朔夜様の命令によるものだった。
『新しい巫女様の部屋に合う家具を揃えろって言われました』
家具以外にも着物や雑貨、様々なものが届き、私の午前中はそれらの整理整頓と部屋の掃除で終わってしまった。
昼の後、私は篝さんと共に屋敷の奥の部屋へ向かった。あの洋室。あんな事件があったから少し緊張する。
部屋のテーブルにはそこには、朔夜様と黒鉄さんがいた。
昨日よりも落ち着いて見える。
でも、近づいた瞬間にわかった。あの人の中から漂う黒い気配は、完全には消えていない。
静かに身体の奥底に沈んでいるだけだ。
「おう、澪様。そこに座ってくれ」
私は視線の先の椅子に座った。篝さんも私の横に座る。
黒鉄さんは腕を組んで、こちらをじっと見ている。
「その痣、昨日の呪いで間違いねえんだな」
「……ええ、多分そうです」
「たぶん、じゃ困るんだがな」
「ちょっと、黒鉄、意地悪しないの〜」
「い、意地悪じゃない。確認は必要だろ」
その返しに少しだけ肩を縮める。
だって、本当にわからないのだ。
私は自分の力の名前も、正しい使い方も、何も知らないままここまで来てしまったのだから。
「これ見てよ。あんたも知ってるでしょ。私の実家が呪いを専売にしている家系だって」
篝さんが机の上に古びた帳面を置いた。
「昨夜のことを整理したわ。黒鉄も私も、この屋敷であんなことを見るのは初めてよ」
帳面が開かれる。古い文字が並んでいた。
「九鬼家に伝わる古い記録に、少しだけ似た記述があるの」
篝さんは指先でその一文を押さえた。
「呪いを祓わず、己が内に喰らうものあり――」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
喰らう。
昨日、私は確かにそんなことをした気がした。押し込んだ。自分の中に入れた。
だから、この痣が残っている。
「そういう体質の者を、昔は『厄喰い』と呼んだそうよ」
「厄喰い……」
口に出してみると、嫌な名前だった。でも、不思議と他人事には思えなかった。
黒鉄さんが苦い顔で私を見た。
「そんなもの、人でいられるのか?」
私もそれに頷く。
だって、呪いを食べて、穢れを抱え込む。
そんなことを繰り返して、本当に普通のままでいられるのだろうか。
私は……自分の腕を見下ろした。
ふと、コーヒーの匂いがした。朔夜様がカップを2つ手に持っていた。一つを私の前に置く。
その匂いがささくれだった心を鎮めてくれた。
「……白綾は知っていたのか」
朔夜様が初めて口を開いた。
静かなのに、その一言だけで空気が冷える。
私は少しだけ迷った。
でも、隠しても意味がない気がした。
「母様は、知っていたと思います」
三人の視線が集まる。
「子どもの頃、この力みたいなものが出た時……誰にも見せるなって言われました。姉様にも、絶対に言うなって」
篝さんが黒鉄さんの頭を叩く。
「やっぱりね……」
「おい、俺に八つ当たりするな。それにしても……ひでえな」
黒鉄さんの顔が険しくなる。
「……推論で決めつけるのは早い。……だが、俺は白綾家は好きになれん」
朔夜様の声には、怒りとも呆れともつかないものが混ざっていた。
私はその空気の中で、少しだけ居心地が悪くなった。
だって、私の話をしているはずなのに、私はまるでただの荷物みたいだから。
でも、荷物でも何でも、ここにいられるならそれでいい。
そんな風に思ってしまう自分もいた。
やがて、朔夜様がこちらを見た。
「澪は正式に九鬼家に置く。ふんっ、厄喰いだろうが、俺の前で死なずに役に立つなら構わん」
反射的に私は立ち上がった。
「あっ、初めて私の名前を呼んでくださりました! 篝さん、聞きました! 澪って呼んでくれましたよ!」
「はいはい、よかったわね〜」
「いや、それよりも違うだろ。澪様を正式に九鬼家に置くって言ってんだぞ」
「あっ……」
名前を呼ばれた嬉しさで頭が混乱していた。私、この家にいて良いんだ。
朔夜様が咳払いをして続ける。
「ただし、当主付きだ」
篝さんが小さく息を吐いた。
「当主付き巫女、ってことですね」
黒鉄さんは露骨に嫌そうな顔をした。
「危険すぎるでしょう」
「遠ざけても意味がない」
朔夜様は淡々と言う。
「白綾に戻しても別の形で使われるだけだ。なら、目の届くところに置く」
優しい言い方じゃなかった。
庇う声でもなかった。
それでも、私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
ここに、いていい。
まだ完全に受け入れられたわけじゃない。
でも、捨てられはしない。
それだけで、私には十分すぎるほど大きかった。
「……ありがとうございます」
自然と頭を下げていた。
こんな風に感謝を言うのは、久しぶりだった。
しかも、その言葉がちゃんと意味を持っているのも久しぶりだった。
朔夜様は私から視線を外した。
「礼は要らん。お前がここにいるのは必要だからだ。勘違いするな」
「……はい」
「コーヒーが冷める。冷めるとまずくなる。飲め」
冷たい言葉だった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
白綾家で向けられてきた冷たさとは違うからだと思う。
あちらは最初から切り捨てる冷たさだったけど、こちらはまだ判断の途中に置いてくれる冷たさだった。
私は泣きそうになりながらコーヒーを飲んだ。きっとこの香りはこの日の思い出とともに、何度も蘇ると思う。
だって、朔夜様が初めて名前を呼んでくれた日だから。
***
「じゃあ戻りますね。黒鉄、後で寄るからね」
篝さんが立ち上がる。私も釣られて立ち上がった。
「それじゃあ、澪様。客人じゃなくなったから、正式に教育係として私が教えますね。 ――当主付き巫女といっても、何もしなくていいわけじゃないの」
「はい」
「まず、勝手にうろつかない。夜に黒い気配が濃くなったら一人で動かない。封印蔵には近づかない。朔夜様『来るな』と言ったら、絶対に近づかない。いい?」
最後だけ、やけに強い口調だった。
私は少しだけ黙ってから、頷いた。
昨日の自分を思い出す。
たしかに、あれは言いつけを守ったとは言えない。
でも、あの時行かなかったら、私はきっと一生後悔していた。
「……はい、わかりました」
篝さんは私の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
「ちょっと〜、澪様は前科持ちだからね。昨日は言う事聞かなかったからさ」
「す、すみません……」
たぶん、本当にわかっているのか怪しいと思われたんだろう。
「うん、分かればいいの。じゃあ屋敷のみんなに改めて紹介しにいくよ。――朔夜様失礼します」
礼をして部屋を出る篝さん。私もその後を追った。
部屋と出る時、私は振り返った。
朔夜様はもう机の上の書類に目を落としていた。
さっきまで私のことを見ていた人と同じには見えないくらい、感情のない顔。
それでも――
その奥にあるものを、私は少しだけ知ってしまった気がする。
だから、簡単に怖いだけの人だとは思えなかった。
部屋を出てから、私は篝さんについて歩いた。
屋敷の廊下は昼より静かで、でも働いている人たちの足音や気配はちゃんとあった。
「おっ、正式に九鬼家にいられるのか!」
「良かったね〜」
「あんた仕事も丁寧だから嬉しいよ」
「巫女か……、本当に大丈夫?」
「当主付きは危険ではないのか?」
「やっと、これで九鬼家にも春が……」
この家は、苦しいだけの家じゃない。
苦しみの上で、みんな必死に生きている家なんだと思った。
「ふう、ちょっとだけ疲れちゃったね」
人と普通に接するのが慣れなかった。私は今まで人として扱われていなかったから。
夜、自室に戻り鏡台の前に座って、そっと袖をたくし上げる。
痣はまだ消えていない。
黒い蔦みたいな線が、腕の内側に静かに残っている。
「……厄喰い……それってなんだろう? わからない……、ううん、自分の力で知ろうとしないと駄目なんだ」
問いかけても答えは出ない。当たり前だ。自ら動いて調べなきゃいけない。
私は櫛を手に取った。母様の形見。
「母様は知っていたんですね。……なら、もしかして、母様の実家を訪ねたら……」
自分の中にあるものに名前がついたことで、少しだけ輪郭が見えた気がする。
その夜、窓の外は穏やかだった。
昨日みたいに屋敷中が軋むこともない。
けれど、ふと目を閉じた瞬間、胸の奥がざわついた。
黒いものが、まだ屋敷の奥で眠っている。
消えてなんかいない。
ただ、息を潜めているだけだ。
私は自分の腕の痣を押さえた。鈍い痛みが襲いかかる。なんだか、獣の鳴き声が聞こえてくるように思えた。
それでも――
もう、逃げたいとは思わなかった。
この屋敷には、まだ沢山知らないことがある。
朔夜様のことも、呪いのことも、そして自分のことも。
知るのは怖い。でも、知りたい。だから、行動するんだ。
そんな気持ちで目を閉じた時、私は昨日とは少しだけ違う自分になっていることに気づいた。
配達員から送られた品の一つを手に取った。コーヒー豆だ。コーヒーの香りが朔夜様を思い出させる。
なんだか、それだけでここが自分の居場所のように思えた……。
胸の奥が温かい気持ちになれた――




