慟哭
屋敷の空気が変わったのは一瞬だった。
さっきまで、ただ重いだけだった黒い気配が、意思を持ったみたいに蠢き始める。床、柱、天井、壁――屋敷のあちこちに染みついていた呪いが、目を覚ましたみたいにざわめいていた。
「……これが、『慟哭』……?」
言葉にした瞬間、あちこちの呪いがさらに蠢く。そして、徐々に呪いは黒いシミから……人形のあやかしのような姿へと変わる。
ゆらりゆらりとその場で佇む。
怒り、悔しさ、憎しみ、そんな負の感情を撒き散らしていた。
でも、なんだろう……その姿を自分に重ね合わせて悲しい、と思った。
呪いなのに。
禍々しいはずなのに。
私には、それがまるで、誰かが声にならない声で泣いているみたいに感じられた。
「……安心しろ。俺の意識がある限り、こいつらは襲ってこない」
朔夜様は立ち上がったまま、窓の外を見ていた。
篝さんも黒鉄さんも、さっきまでの柔らかさが嘘みたいに表情を引き締めている。
「篝、封印蔵の札を全部開けろ。黒鉄、お前は北側の結界を維持しろ。……今回、少し早い。篝、この女に式神弐式をつけろ。それで今夜は乗り越えられるだろう」
朔夜様の声はいつも通り、低く静かだった。
けれど、いつもよりさらに感情を削ぎ落とした声色で、それが逆に怖かった。
無言で頷く黒鉄さん。私の身体を押す篝さん。
「澪様、部屋に戻って。今すぐ」
篝さんが私の身体を押しながら、いつもでは考えられないほど強い口調でそう言った。
「でも――」
「今は説明している暇がないの。いい? 『慟哭』が始まった当主様には近づいちゃ駄目。屋敷中に呪いが溢れて、理性も抑えも効かなくなる。だから、閉じ込めて、朝まで耐える。それが九鬼家のやり方よ」
閉じ込める?
朝まで耐える?
その言葉の意味がうまく理解できなくて、私は朔夜様を見た。
朔夜様は、もうこちらを見ていなかった。
いや、正確には、もう誰も見ていないように見えた。
ただ、自分の中にあるものを必死に押さえ込んでいる。
「……早く、行け」
短い一言。
さっきと同じ冷たい声なのに、私はその中に、強い拒絶じゃなくて、切実な何かを感じ取ってしまった。
来るな。
見るな。
巻き込まれたくないなら離れろ。
そんな風に聞こえた。
「屋敷から染み出した『呪い鬼』は、九鬼家の祓い師たちで対抗できるの。でもね、朔夜様の近くに取り巻く呪いは……絶対に駄目。近づくことさえもままならないわ。ていうか、こんな風に喋っている場合じゃないわよ。早く部屋に戻って」
黒鉄さんが護符を取り出した。朔夜様の隣には大きな呪いの塊が存在していた。それが徐々に黒い虎の姿に変わる。
「黒虎……ですか……。いいでしょう。俺があなたを抑えます」
私は篝さんに押されて、扉を開けて廊下へと飛び出した。背中をバンッと強く押される。妙な力が伝わってきた。
「弐式よ。姫様を守ってくれるわよ。さあ、お行きなさい」
部屋へと戻る篝さん。廊下は騒然としていたけど、混乱はしていなかった。
屋敷の使用人たちも慣れているのか、恐怖はあっても取り乱さず、それぞれの持ち場へ散っていった。
――みんな、この光景を何度も見てきたんだ。
その事実が胸に刺さる。
九鬼家では、これが日常。
朔夜様はずっと、こういう夜を一人で耐えてきたんだ。
「そんなの……寂しいですよ」
絶対的に逃れられない宿命。呪いを背負う九鬼家の当主。まだ出会ってちょっとしか経っていない。
私は朔夜様の怖い顔しか見ていない。それでも、心に何か残る感情があった。
知りたい。それが何なのか……。
空気が裂ける。廊下の灯りが揺れ、窓がびりびりと震える。
部屋で待っていなきゃいけない。それが正しいって頭ではわかっていた。
でも、胸の奥がずっとざわざわしている。
黒い呪いの気配が、屋敷の中を流れていく。
それはさっきよりも濃く、重く、そして悲しみを帯びていた。
(……こんなの苦しいよ)
違う。私が苦しいんじゃない。
この屋敷そのものが、泣いているみたいだった。
「……私、決めたんだ。朔夜様の……笑っている姿を見てみたいんだ」
足が動いていた。反対向きだった。朔夜様のお部屋。
扉に手をかけようとしたけど、黒い呪いがびっしりとついていた。
躊躇しない。もう誰かが苦しんでいるところを見たくないから。
「どいて」
言霊に『力』が備わる。黒い扉が砕け散り――あの部屋へと戻った。
「澪様! なんで戻ってきたんですか!! ここは危険です。早く――くっ」
人形の呪いを刀で切り裂いている篝さんの声が聞こえた。
でも、止まれなかった。
広い部屋の中央、私と朔夜様がコーヒーを飲んだテーブル。そこに朔夜様がいた。
床には何重もの術式が刻まれている。
護符が何枚も貼られて、鉄の杭まで打たれていた。
まるで人を閉じ込めるための檻みたいだった。
朔夜様は肩を上下させて、呼吸は荒い。
額から汗が流れ落ちている。
黒い呪いが朔夜様の身体のあちこちから滲み出て、床の上を蛇みたいに這っていた。
護符の影響下により、黒虎が唸り声をあげて黒鉄さんを威嚇していた。黒鉄さんの額からは汗が流れ落ちていた。
苦悶の表情、私に声をかける余裕もない。わずかに感じる絶望。
それを見た瞬間、私は息を呑んだ。
黒鉄さんの術が壊された時、きっととんでもないことが起きる、と。
ああ、これが本当の呪いなんだ。
昨日見たのは、そのほんの表面だけだったんだ。
『……来るな』
頭の中で声が響いたみたいだった。全身から黒い呪いが漏れ出している朔夜様だった。
『死ぬぞ。帰れ……、人が死ぬのは、見たくない』
私はその瞬間――理解した。朔夜様の心の奥底に隠れていた優しさを――
だから、身体から力が湧き上がった。
呪いに触れると死ぬ。うん。たぶん本当にそうなんだと思う。
昨日みたいなものじゃない。今日は、屋敷全体が押しつぶされそうなほどの呪いが溢れている。
それでも――私はもう見たくない。悲しんでいる……朔夜様を。
「朔夜様、私」
声が震えていた。
怖かった。
でも、ここで引いたら、一生後悔する気がした。
「私は、白綾家でずっと何にもなれませんでした。誰の役にも立てなくて……、ただ、いらないって言われるだけで……」
自分でも、何を言っているのかわからない。
でも、言葉が止まらない。
「でも、ここに来て初めて、私でも何か出来るかもしれないって思えたんです」
黒虎が鳴きながら顔を上げた。護符が弾け飛び、結界の力が弱まる。そして、呪いが、朔夜様が動いた。
『逃げろ――俺の意識が――もう』
私は首を横に振る。
「だから……お願いです。苦しいのを、私に分けてください」
そう言った瞬間、自分でも変な言葉だと思った。
でも、本当にそう思った。
苦しみを消してあげたい、じゃない。
私が代わりに全部引き受けたい、でもない。
ただ、あなた一人だけが苦しいのは嫌だ、と。
そう思ってしまった。
黒虎の呪いが本物の生き物のように、朔夜様を守るように威嚇していた。
怖い。それでも私は一歩、前へ出た。
『……や、め、ろ……』
朔夜様の目に浮かんでいたのは怒り――じゃない。怯えだった。
私が傷つくことへの、怯え。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
朔夜様の前に立つ。
私は、手を伸ばした。黒虎の頭を撫でる。まるで動物をあやすように。黒虎の姿が小さくなった。そして、朔夜様の身体を――抱きしめた。
心臓がドクンと跳ね上がった。
瞬間――
世界がひっくり返った。
身体の奥に、どす黒いものが流れ込んでくる。冷たいのに熱い。重いのに鋭い。
胸をかき回されるみたいに痛くて、息ができない。
「……っ!」
膝が折れそうになる。
でも、倒れたくなかった。朔夜様を強く強く抱きしめる。
ここで倒れたら、朔夜様がまた自分を責める気がしたから。
私は必死に立ったまま、その黒いものを胸の奥へ押し込んだ。
喰う――消す――押さえる――
どうやっているのか、自分でもわからない。
でも、身体が勝手にやっていた。
次の瞬間、空気が変わった。
重たかったものが、一気に薄くなる。
部屋の中を満たしていた呪いが、嘘みたいに引いていた。屋敷全体からはまだ呪いの気配を感じる。とりあえず、一旦は引いたって感じみたいだ。
それに、あの黒虎の呪いは分割された。私の中に入ってきたのと、朔夜様の身体に戻っていった。
私は、息を切らしながら朔夜様を見上げた。
朔夜様は意識を取り戻していた。
「……なぜだ」
朔夜様の声は、驚きでわずかに揺れていた。
昨日も、今日も、この人はずっと冷たくて、感情を削ぎ落としたみたいな声しか出さなかったのに。
今は違った。
明らかに、取り乱している。
「お前、何をした」
「わ、わかりません……」
私はただ、朔夜様が苦しそうだったから手を伸ばしただけ。
それだけなのに、黒いものは私の中に入って、でも今はもう、さっきほど暴れていない。
その代わり、身体が重い。
腕も、胸も、心臓の辺りも、全部ずしりと鉛を入れられたみたいに苦しかった。
そこで初めて、自分の腕に視線を落とした。
白い肌の上に、うっすらと黒い痣のようなものが浮かんでいる。
それを見た瞬間、自分でも少しだけ怖くなった。
「痣……?」
朔夜様は私のその視線の先を見て、表情を変えた。
「……っ、馬鹿か、お前は」
抑えきれない感情を必死に押し込めている声だった。そして、無意識かもしれないけど、私を抱きしめる力が強くなっていた。
「自分の犠牲にしないでくれ……」
何を言われているのか、一瞬わからなかった。
自分を犠牲に……?
うん、そうなのかもしれない。だって、こんなに苦しい。
私は少しだけ笑ってしまった。
だって、そのおかげで、朔夜様が元気になったのだから。
「でも、私……役に立てました」
そう言った瞬間、朔夜様の目が大きく揺れた。
まるで、そんな言葉を言われるとは思ってもいなかったみたいに。
その時、後ろから篝さんと黒鉄さんが駆け寄ってきた。
「当主様!」
「――っ、澪様!?」
部屋に満ちていた呪いは、嘘みたいに薄くなっている。
朔夜様はまだ立っている。
そして、その目の前には、痣を浮かべたまま無事な私がいる。
「……ありえないわよ。呪い喰い?」
「本当に……喰ったの?」
私はその意味がわからなくて、二人を見た。
喰う? 私が?
その答えを知っているのは、たぶんここにいる誰でもなかった。
ぐらり、と視界が揺れる。
あ、駄目だ。立っていられない。
そう思った瞬間、身体が傾いた。
床に倒れると思った。でも朔夜様が私を強く抱きしめる。
昨日も、今日も、この人は私を拒絶したはずなのに。
なのに今は、迷わず私を支えていた。
「……っ」
朔夜様の手が熱い。私の方を見ている。怖いくらい真っ直ぐに。
その目には、さっきまでの冷たさがなかった。
「……お前は一体……」
私は答えられなかった。
自分でも、何者なのかわからないから。
ただ、朔夜様の腕の中で、意識が少しずつ沈んでいく。
最後に見えたのは、初めて仮面が崩れた朔夜様の顔だった。なんだか、素敵なものが見れて……、とても清々しい気持ちになれて……。




