コーヒーの時間
朔夜様に袖を引かれたまま、私は屋敷の奥へと連れて行かれた。
「あ、あの……」
「……」
朔夜様が私の声に反応するように、一度立ち止まり、自分の手を見た。そして、そっと私の袖から手を離す。
「あ……」
「……勘違いするな。俺はまだお前を嫁とは認めていない」
なんだか、おかしな物言いだった。怖い顔で低い声なのに、あまり怖く感じない。さっきまでは呪いの黒い気配が満ちていたはずなのに、今はそれを感じられない。
でも、静かになったからって安心できるわけじゃない。
「温かかったです……」
「何がだ?」
「朔夜様の体温……?」
朔夜様は何も言わずに再び歩き出した。私はその背中を追う。
私は自分の手を見つめた。
こんな風に、誰かに手を引かれるなんて初めてだった。
しかも相手は、鬼の家の当主。
怖い人のはずなのに……、どうしてか、振りほどきたいとは思わなかった。
「入れ。……別に取って食おうなんてしない。少し話をしてみたいだけだ」
「はい、わかりました」
「……そんなに笑っていて何が楽しい?」
「え? わ、私、笑ってましたか?」
自分の顔を手で触る。確かに笑顔になっていたみたいだ。不思議だった。理由がわからない。朔夜様は「まあいい、入れ」といって、部屋に入っていった。
通されたのは、簡素だけど広い洋室だった。
余計な飾りはほとんどない。生活感も薄い。綺麗に整えられているのに、冷たくて、どこか息が詰まるような部屋。
なんとなく、この部屋の主の性格がそのまま出ている気がした。
朔夜様は部屋の中央にある円卓のテーブルの椅子に座った。
私はそこでようやく自分が少しだけ体調が悪いことを思い出した。でも、座ってもいいか判断がつかず、とりあえず立っていたら
「早く座れ」
短くそう言われて、私は慌てて席に座った。
背筋を伸ばす。視線を下げる。目の所在に困る。
沈黙が広がる。
でも、白綾家の沈黙とはまた違う。あちらは冷たくて刺すような静けさだったけど、いまの沈黙はそんなに嫌じゃない。
「……ここにいろ。いいか、絶対に動くな」
「は、はい」
朔夜様が軽いため息を吐いて立ち上がる。そして、ポットのお湯を沸かして、コーヒーを淹れ始めた。私は手伝いたかったけど、動くなと言われたから、どうしていいかわからずそわそわしてしまった。
ほどなくしてコーヒーの良い香りが部屋に漂う。あ、この匂いだったんだ。この部屋に入った時に感じたのは。
朔夜様はコーヒーをカップに注ぎ、一つのカップを私の前に置いた。戸惑う。
「……飲め」
「は、はい。わぁ、すごく良い匂い。……ほ、本当に飲んでいいのですか?」
「いいから、飲め」と少し語気を強めて言われた。
私は一口、コーヒーを飲む。苦さと酸味が程よく、香りがとても良い、美味しいコーヒーだった。
「美味しい……、こんなに美味しいコーヒーは初めて……」
「そうか、どうでもいい。話を始めるぞ。お前は白綾家でどんな風に過ごしていたんだ?」
私は反射的に顔を上げる。
朔夜様は私を見ていた。冷たい目だった。あれ? でも、なんだか、嬉しそうに見えるのは気のせいかな? もしかして、コーヒーが美味しいと言ったのを聞いていたのかな?
冷たさの奥にあるのは怒りじゃなかった。ううん、怒りよりも、もっと別の……確かめるような色。
「白綾家の私……」
朔夜様は私の答えを待つ。優雅にコーヒーを飲んでいた。頭の中で色々な思いが交差する。
どうしてそんなことを聞くのだろう? そんなの朔夜様には関係ないはずだ。
私はただ、白綾家から送られてきた巫女で、九鬼家にとっては厄介か便利か、そのどちらかでしかないはずなのに。
でも、黙っているわけにもいかなかった。本当のことを言うのが一番だ。嘘は嘘で塗り固められ、誠実じゃない。私は嘘が嫌いだ。
「……出来損ない、でした」
自分で言っていて、少しだけ変な気持ちになった。
だって、ずっとそう言われてきた言葉だから、今ではもう自分の名前みたいなものだった。出来損ないの方の娘って。
「術は使えません。霊力もほとんどなくて……、月の儀式でも、毎回私だけ失敗して……。だから、巫女の仕事はさせてもらえなくて、雑用ばかりしていました」
言葉はするすると出てきた。
止まらなかった。
多分、今まで誰にも聞かれたことがなかったからだと思う。
「ご飯も……、使用人の方たちと同じものを、仕事の後にいただいていました。お部屋も、雨風をしのげるだけの場所で……。でも、あの、それが普通だったので……」
そこまで言ってから、少しだけ困ってしまった。
普通、ってなんだろう。
私にとってはそれが普通だった。
でも、今こうして言葉にすると、なんだか違うような気がしてきてしまう。
「……別に、つらいとか、そういうわけじゃないんです」
慌てて付け足す。
言い訳みたいだった。
「私が出来ないからいけないんです。役に立てないから、ああいう扱いになるのは当然で……」
朔夜様がカップをコトンと置く音が部屋に響いた。なんだろう、その音がひどく胸に響いた。
真っ直ぐに私を見つめる朔夜様。目をそらしたくなるけど、受け止めなきゃ駄目ってわかった。
「当然だと思っているのか」
私は息を呑む。
怒っているようにも見える。
でも、その怒りは私に向けられているのか、自分でもよくわからなくなってしまった。
「……わかりません」
それが本音だった。わからない。私にはわからないことが多すぎるんだ。
「昔は嫌でした。でも、ずっとそうだったから……、そのうち、そういうものなんだって思うようになって……」
言いながら、自分の胸の奥が少しだけ痛む。
――ああ、私、本当は嫌だったんだ。
本当は……、肉親である実の父様に甘えたかったんだ。姉様みたいに、期待に応えたかったんだ。だから……、私は……。
今さらそんなことに気づくなんて、少しだけ情けなかった。
朔夜様はしばらく何も言わなかった。
部屋の中は、コーヒーの匂いだけが広がる。
でも、さっきの沈黙とは少しだけ違っていた。
冷たいだけじゃなくて、何かが揺れているような……そんな気配。
「……今日はもう休め」
朔夜様はそれだけ言って立ち上がった。
私は小さく頭を下げた。
「……はい」
本当は、まだ色々言いたかった。
謝りたかったし、ありがとうございましたとも言いたかったし、自分でもよくわからない気持ちが胸の中にぐるぐる渦巻いていた。
でも、今はこれ以上喋らない方がいい気がした。
部屋を出る直前、私は一度だけ振り返った。
朔夜様は窓の外を見ていた。
その横顔はやっぱり綺麗で、でも、綺麗すぎて、ひどく寂しそうに見えた。
***
翌朝、目を覚ました瞬間、昨夜のことを思い出した。
朔夜様の部屋での出来事……。白綾家での記憶――。
そして、あの朔夜様の「今日はもう休め」という言葉。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
変な感じだった。
ずっと他人に関心を向けられずに生きてきたから、少し質問されただけでこんな風になるなんて、自分でもよくわからない。
とにかく、身支度を整えて、部屋の外に出る。
九鬼家の朝は静かだった。
使用人たちはもう働いている。
廊下を歩く音、水の音、誰かが話す小さな声。
白綾家と同じように朝は始まっているのに、空気だけが全然違う。
目が違うんだ。ここは噂されていたような場所じゃない。だって、みんな目がキラキラしているんだから。
……そんなことを思ってしまった自分に、少し驚く。
廊下を進くと、すぐに視線が集まった。
「あの子が……」
「昨日、あの状態の当主様に触れたって……」
「なのに生きてるの?」
「そんなこと、ある……?」
ひそひそ声。
隠すつもりもない小さなざわめき。
でも、不思議とつらくはなかった。
白綾家で向けられていた視線とは少し違うからだと思う。
あちらは蔑みと侮蔑ばかりだったけど、こちらは警戒と困惑だった。
もちろん歓迎されているわけじゃない。
でも、意味のない悪意でもない。
私はそれに少しだけ救われた。
一日の決められた作業をしていると気が紛れる。時折、篝さんが様子を見に来てくれたり、黒鉄さんがこの屋敷のルールを教えてくれた。
なんでも、夜が危険らしい。屋敷の中なのに危険。……それはあの呪いの他に理由がないと思った。
程なくして、夕刻となり、歩いていると、前方から篝さんがやって来た。
「あ、ここにいたのね」
「は、はい。仕事がなくなってしまって……なにかすることありますか?」
「姫様は働きたがりだねぇ。じゃあ早速仕事しよう……って思ってたんだけどね、ごめんね、ちょっと一緒に来てほしいのよ」
篝さんは相変わらずきびきびしている。髪の乱れもなく、姿勢も綺麗で、見ているとなんだか背筋が伸びる。
白綾家の女中たちとは全然違う。仕事が出来る人って、こういう人のことを言うんだろうなって思った。
篝さんは私を上から下まで軽く見て、特に問題ないと判断したみたいに小さく頷いた。
「当主様がお呼びよ」
心臓がどくんと跳ねた。
「え……、わ、私を、ですか? で、でも昨日の夜にお話をして……」
「まあ、色々決めたんじゃないの? ほら、行くわよ」
私は慌てて姿勢を正した。
でも、どうして呼ばれたんだろう。
昨日のことで叱られるのかな。やっぱり出ていけって言われるのかな。それとも、何か別の理由……。
考えれば考えるほど不安になる。
篝さんはそんな私を見て、少しだけ目を細めた。
「そんなに怯えなくていいわ。……と言いたいところだけど、相手が当主様だから無理ね」
「え?」
「ふふっ、あの方は怖いわよ〜。行けば分かるわ。来なさい」
そう言って歩き出す。
私は小さく息を吸って、その背中を追いかけた。
九鬼家の廊下は長い。
歩きながら、昨日よりもずっとこの屋敷の気配が分かるような気がした。
黒いものが、家のあちこちに染みついている。
でも、それを押さえつけるように、人の気配もちゃんとある。
きっと、この家の人たちはずっとこの重さの中で生きてきたんだろう。
そう思った時、また胸の奥がきゅっと痛んだ。
案内されたのは、屋敷の奥にある洋室だった。昨日と同じ朔夜様の部屋。
篝さんが扉の前で足を止める。そしてノックをした。
「――入れ」
短い声。
覚悟を決めて、私は扉に手をかけて、部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中には、椅子に座っている朔夜様と、その横に立っている黒鉄さんがいた。
空気が、一瞬で重くなる。
やっぱり、この人がいる場所は違う。
屋敷全体に漂っている重さとは別格だ。黒くて、深くて、触れたら飲み込まれそうになる。
それでも、昨日のあの時ほどではなかった。いまは、多分、普通に触っても大丈夫だと思う。
「……連れてきたか」
篝さんは朔夜様に向かって敬礼をし、黒鉄さんの隣へと移動する。
朔夜様の声は低く、淡々としていた。
感情の起伏はほとんど感じられない。昨日よりもさらに機械的に感じられた。
「は、はい」
私は頭を下げる。
喉が渇いているのに、声だけはちゃんと出た。
黒鉄さんは腕を組みながら私を見ていた。厳しい目だ。主を守る人の目だと思った。
私はこういう目を知っている。
値踏みする目、警戒する目、役に立つかどうかを見る目。
「本題に入ろう――。お前は、俺の呪いに触れて無事だった。……呪いが弱かったのは理由にならんし――」
私は小さく息を呑んだ。
やっぱり、その話になるんだ。
「偶然では片付けられない。はっきり言おう。それは異常だ。俺の呪いは当主が受け持つ代々と続く鬼の呪いだ。巫女程度が軽く触っただけで三日三晩寝込んでしまうはずだ」
朔夜様の視線がまっすぐに向けられる。
「これまで、白綾から何人も巫女が来た」
その言葉の意味は重かった。
「呪いに近づいて壊れた。逃げた者もいれば、二度と立ち上がれなくなった者もいる」
私は思わず俯きそうになった。
でも、俯いたら駄目な気がして、必死に耐える。
朔夜様の声は続いた。
「……あとでもう一度、篝と一緒に自分の身体を調べろ」
話の流れはわからなくなっていた。私は朔夜様の呪いに触れても無事だった。それが、異常だと言われた。何が異常か私にはわからなかった……だから、ただ頷くことしかできない。
「……はい」
「しばらく様子を見る。仮の住まいではなく、奥の間で部屋を用意しろ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
追い出されるわけじゃない。
まだ、ここにいていいんだ……。
「……使えないと判断したら、その時は出ていってもらうぞ、死ぬよりはマシだろう」
表面上は冷たい言葉だった。
そんなのは私にとって当然。ここは白綾家とは違う。役に立つかどうかを見て判断する方が、よほど誠実だ。
「……わかりました。ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「わたし、ここにいてもいいんですね……」
絞り出すような声。言葉にしてから、自分でも驚いた。想いが凝縮されていた。
「私、役に立ちたいんです。……使い物になるまで、ここに置いてください」
部屋の中が静かになった。
顔を上げると、黒鉄さんが少し眉を動かしたのが見えた。
篝さんは何も言わなかったけど、視線がわずかに揺れた気がした。
朔夜様だけが、ずっと無表情だった。
何を考えているのか全然分からない。
でも、分からないままでも、私は言葉を引っ込めたくなかった。
やがて、朔夜様が小さく息を吐いた。
「……好きにしろ。俺は厳しいぞ」
「は、はいっ!」
心のうちに秘めた喜びが表に出てしまう。白綾家ではずっと隠していた。なのに、このひとの前だと、私は隠せないでいる。
私は九鬼家に残る――
まだ正式な居場所じゃない。仮の立場で、いつ追い出されてもおかしくない。
それでも――ここにいられる。
「本当に……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。涙なんて枯れ果ててもう出ないと思っていた。なのに、込み上げてくる嗚咽が抑えられなかった。
白綾家では、役に立たない私は最初からいらない存在だった。
でも、ここでは違う。
「……泣いているのか?」
「泣いていないです。う、嬉しいだけです……」
「……」
朔夜様は私から視線を外した。
「篝」
「はい」
「こいつに最低限のことを教えろ」
「昨日も同じこと言ってたじゃないですか。花嫁修業ですか?」
「……篝」
「すいません、冗談です! ちゃんと教えますって」
そのやり取りを聞きながら――
――背筋がゾクリとした。
屋敷のどこかで、何かが軋んだような気がした。
黒い気配が、一瞬だけ極大に濃くなる。
黒鉄さんと篝さんも遅れて空気の異変に気づいたみたいだった。
二人は朔夜様から距離を取った。
朔夜様は苦い顔をしてため息を吐いた。
「……こんな時に……『慟哭』が起こるのか……」
――呪いが動く予兆。
そう、本能が告げていた。




