九鬼家の朔夜様
(――身体……揺れている?)
ゆらゆらと、身体がどこかに運ばれている感覚があった。
身体が自分のものじゃないみたいに重くて、うまく動かない。
意識が行ったり来たりしている。なんだろう、私、いま、誰かにおんぶされている。なんだか子どもみたいだ。
「……おい、まだ息があるぞ」
「馬鹿な……当主様の呪いに直に触れたんだぞ」
「普通なら、その場で壊れるはずだ」
「篝様、わ、私たちが運びます」
なんだか、背中が温かくて気持ちいいな。このまま眠ってしまいそうに……。
(……あれ……?)
おかしいな、と、思う。
こんな風に、誰かに触れられるのは怖いはずなのに。
どうしてか、嫌じゃなかった。
「……篝、出会ってそうそう死なれても困る。休ませろ」
「はいはい、大事なお嫁さんですもんね」
「篝……」
「おお怖っ」
低い声が、すぐ近くで響いた。私の横からだ。私は女性の方におぶわれていた。
徐々に意識がはっきりと戻る。
「あ、あの……、わ、私大丈夫です! 自分で歩けます」
女性の足が止まった。彼が振り返ると、私と目があった。
沈黙――
私はゆっくりとその場に降ろされた。足をトントンして大地にしっかりと立つ。
「……存外、頑丈だな」
ぽつりと、呟く当主様の声。
「は、はい、身体だけは丈夫です。でも……あ、あの、もしかして当主の九鬼朔夜様ですか?」
「……ああ、そうだ。だが、俺はお前に帰れと言ったはずだ」
「もう、帰る家はありません……。お、お役に立ちます。私、頑張りますので……」
朔夜様は私の方を見ずにそのまま屋敷の中へと向かった。そして、ため息と共に声だけが響いた。
「面倒だな……、篝、一瞬だとしても俺が触った。こいつを休ませろ」
冷たく聞こえる言葉なのに、ここが冷たくならない。なんだか安心して、眠くなってきちゃった。
周りのざわめきが、言葉が遠く感じられる。
視界は暗く、意識は沈んでいく。
なんだろう?
最後に、誰かの声が、わずかに震えた気がした。
それを感じたまま、私は再び、意識を手放した。
***
――とても静かな場所だと、目を開けた瞬間、そう思った。
天井が見える。
見知らぬ木目。白綾家のものとは違う、落ち着いた色。
少し遅れて、自分が横になっていることに気づいた。
「……ここ……九鬼家の……」
声を出すと、少しかすれていた。なんだろう、身体が重くて力が入らない。
指先がわずかに震えている。
ゆっくりと上体を起こして、周りを見渡す。
部屋は広すぎず、狭すぎず。
余計なものが置かれていない、整った空間だった。
屋敷の中はとても静かだった。白綾家の静けさとは違う。
あれは張り詰めたものだったけど、ここは――
(……押さえつけられているみたいだ……)
呼吸が浅くなって、少し苦しくなる。鬼の家……。
頭では怖い場所だとわかっているのに、感情がそれに応えない。
なんだろう、私にとって白綾家の方が……嫌な気配がした。ここは冷たくて異常な静けさだけど、なぜか嫌な気持ちになれなかった。
その感覚に、自分で少しだけ戸惑う。
と、その時、障子がすぅっと開けられた。現れたのは、さっきの玄関先でもいた女性だった。
「……目を覚ましたのね」
落ち着いた声で私の様子を一瞥する。年の頃は三十前後だろうか。
きちんとまとめられた髪に、無駄のない所作。
鋭い視線が、まっすぐこちらを射抜く。
――この人の霊力、すごく強い。
直感でそう思った。
「あの状態の朔夜様に触れて、ちょっと体調を崩すだけ……」
「す、すみません……わ、私、失礼なことを……。もう慣れたので次は大丈夫です」
「……次は大丈夫? ……言っている意味がわからないわ。本当に無事なの? ……呪いに触れて死んだ巫女は何人もいるのよ」
「そう、なんですか……。でも、あの方は私を背負って……」
「ああ、呪いが引っ込んでいる時は大丈夫なのよ。でも、呪いが発生している時は絶対に触っちゃ駄目。――あなたはもしかしたら……」
と、その時、周囲の空気の重さが変わった。黒い、何かがこの部屋に近づいてくる。
篝さんは気がついていないのか、私の表情の変化に首をかしげていた。
しばらくすると、障子が開け放たれる。
立っていたのは黒い装束を着た、髪が長い男の人――九鬼朔夜様だ。
「……まだいたのか」
感情を伴わない声だった。厳しい顔つきだった。でも、どこか作り物のようにも思える表情だった。
「早く帰れ」
有無を言わさない口調だった。朔夜様はそれ以上何も言わず、そのままこの部屋を去っていった。
残されたのは静寂と、篝さんの苦笑いした顔だった。
頭の中で朔夜様の声が残っていた。
――帰れ。
その言葉が何度も何度も繰り返される。悔しかった、悲しかった。私、もう……帰る場所なんてないのに。
役立たずの出来損ない。白綾家では忌み嫌われた娘。
ようやく、理解した。私は――この家でも必要とされていないんだ。
悲しくても……もう涙なんて出ないんだ……。
「……それでも……私は――」
そう思ったはずなのに、胸の奥がじんわりと熱を持ったまま、どうしても消えてくれなかった。
『帰れ』という言葉が頭の中に残っている。帰る場所なんて、もうどこにもない。多分、私は厄介者だと思われている。
でも――あの人は苦しそうだった。呪いに犯された身体。すごく我慢しているように私には見えた。
たった数分しか会っていない。話なんて全然したことがない。
でも、わかるんだ。あの人はずっと孤独だったんだ。一人だったんだ。
「ま、待ってください!」
言葉と共に身体が動く。確かに、役に立たないのは怖い。居場所がないのは怖い。でも……孤独で悲しんでいる人を見るのはもっと嫌なんだ。
ふらつく足のまま部屋を出て、廊下に出た瞬間、押しつぶされそうな重たい空気が全身にまとわりつく。それでも足は止まらなかった。
「ちょっとあんた、どこ行くの!」
後ろから篝さんの声が聞こえたけれど、振り返る余裕はなかった。廊下の先にいるあの人――朔夜様の背中を見つめた。
心臓の鼓動が跳ね上がった。それと同時に私は「力」が溢れ出たような気がした。
「――朔夜様!!!」
言葉は言霊に変化する。朔夜様が私の声に反応して振り向いた。
一瞬だけ驚いた表情だったけど、すぐに無表情へと変わる。朔夜様の足が止まった。
「ここにいさせてください。朔夜様のそばにいさせてください。……私を九鬼家にいさせてください」
様々な想いが交差する。感情がぐちゃぐちゃだった。それでも、私は前を見つめた。
廊下に広がる静寂。空気が重くなる。一瞬だけ朔夜様の口元が上がったような気がした。
……気のせい?
「……白綾家に戻れないなら他のところへ行く選択肢もある」
「違います、私は九鬼家がいいのです」
「……勝手にしろ。――篝、教育を頼むぞ」
私は少しだけ拍子抜けしてしまった。絶対に拒絶されると思ったのに……。安心して腰が抜けてしまった……。
朔夜様は「ふんっ」と言いながら廊下を進む。私は、白綾家でも出したことがないような大きな声で――
「……あ、ありがとうございます」
と言い、頭を下げた。こんな風に、感謝の意味を込めて頭を下げたのは……久しぶりだった。
***
「あんた、白綾の姫様なのに家事の筋がいいじゃないの」
「ひ、姫様? あ、あの家事は沢山したので……」
「……ん? 姫様なのに? ……まあいいわ、じゃあ今日はここまででいいわよ。部屋で休んでいなさい。あとで行くわ。まだ伝えきれていない屋敷のルールにあるのよ。あっ、黒鉄さ〜ん!」
私はこの家にいてもいいことになった。朔夜様に嫁入りするといっても、私はまだ朔夜様と全然話していない。
『朔夜様のお嫁さんだからといっても、この家のことを分かってもらうために、雑事をこなしてもらうます。働かざるもの食うべからずです。いいですか、白綾の姫様に耐えられますか?』
と篝さんに言われて、私は覚悟を決めた……けど、実際は拍子抜けしてしまった。家事は使用人が分担して行われ、私の仕事は白綾家の十分の一程度だった。
みんな、よく笑い、よく喋り、ここが本当に鬼の九鬼家なんてよくわからなかった。
それでも、屋敷に漂う黒い空気は常に感じられる。
「……お部屋で待つ、か。なんだか落ち着かないな……」
篝さんの背中を見送って、私は自分の部屋に戻る。
自分のお部屋が与えられた。大きなお部屋で清潔で壁はぼろぼろじゃなくて、隙間風が吹かない。それに、タンスや鏡だってあった。
自分の部屋……なんだか、自然と笑みがこぼれそうになる。
部屋にいると広すぎてどうしていいかわからなくて、部屋の隅で固まってしまう。
母様の櫛を鏡台に置き、今日あったことを話しながら、自分の心をまとめていた――と、その時――
背中にぞわりと虫が這ったような感覚に陥った。実際には虫が這っているわじゃない。
私の力が――この屋敷の呪いに反応しているんだ。
さっきまでは感じなかった「呪い」の気配。黒く重く、廊下を通り抜けて、私の部屋までこじ開けるように入ってくる。
(……朔夜様、呪いのせいで苦しそうだった)
どうしても落ち着かなくて、私は一人で廊下に出てしまっていた。
胸の奥がざわつく。白綾家では感じたことのない、不思議な感覚。
私は黒い気配の元へと向かって歩く。
……程なくして、廊下の奥、柱の影に、黒い気配が滲むように広がっているのが見えた。
「――あっ」
息を呑む。
人の形をした黒い呪いが渦巻いていた。朔夜様だ――
壁に手をつき、わずかに肩を上下させている。呼吸が荒い。黒いものが、朔夜様の身体の奥から滲み出るように漏れ出していた。
なんでだろう? 私、今、悲しいって思ってる。自分の身に呪いが降り掛かっているわけじゃない。他人のことなのに――
だから身体が勝手に動いていた。
朔夜様は私を認識すると、鋭い声で咎めるように――
「来るな、死ぬぞ」
と言ったけど、胸が痛くならなかった。少しだけ理解ったんだ、これは私を心配して言っているだけで、拒絶じゃないんだ。
「朔夜様……、私は、ずっと一人でした。……誰かのお役に立ちたかったんです」
目を閉じる。この九鬼家に来たのは、白綾家の謀略。でも、いま、朔夜様の横に立とうとしているのは――私の意思なんだ。
「朔夜様、私、嫌なんです。誰かが、苦しんでいる姿を見るのが……だから――」
私は朔夜様の周囲に舞う「呪い」を素手で振り払った。
黒い呪いは淡く儚く小さくなる。少し胸が苦しくなるけど、我慢できない範囲じゃない。
それに、朔夜様の中に呪いは隠れてしまった……。
「お、お身体、いかがですか?」
私は朔夜様の胸から見上げた。
「……っ、なぜお前は笑っている……。なぜ、お前は平然としていうんだ? 呪いに触ったのならば、気絶してもおかしくない」
「……あ、あの、私にもわかりません。そ、その、九鬼家の呪いって触ったら駄目だったんですか? 白綾家では……」
朔夜様は頭を抱えていた。
「篝め……、こいつを試してみたな。……まあいい。……お前、自分で何をしたか分かっているのか? 俺は自分の命を粗末にするやつは嫌いだ」
「えっと、昨日よりも大丈夫です。呪いを見たのは二回目なので、少し慣れました」
「慣れた、だと? ……白綾家……お前は一体これまで……」
朔夜様の手が、微かに震えていた。怒りか悲しみわからないけど、それこそ鬼のような形相をしていた。
と、その時、後ろから足音がバタバタと聞こえてきた。篝さんと黒鉄さんが慌ててやってきた。その手に中には護符があった。呪いを弱めようとしたのかもしれない。
「ちょ、ちょっと澪様!! あなた、ほんとに呪いに触っても無事だったの! 黒鉄も見ました?」
「ああ、にわかに信じがたいが、あの状態の当主様は近づくこともままならない。……ありえない」
私には二人の驚きが理解出来なかった。だって、そんなに特別なことはしてないと思う。呪いを――私の中に押し込んで、消そうとしただけだったのに。そうする前に、引っ込んじゃっただけ。
その時、朔夜様に着物を引っ張られた。
真剣な瞳で私を見つめている。少し恥ずかしくて私はうつむいてしまった。
「……俺の前で……自分の傷つけるな」
「あ、え、あ……、は、はい」
「あと、俺に絶対に触れるな。触れると死ぬぞ」
着物がシワになるくらし、強く握りしめられた手。怒りがこちらに伝わって来る。
意味がわからなくて、キョトンとしてしまった私を見て、朔夜様が更に低い声で私に言った。
「……来い」
私は朔夜様に袖を引かれ、廊下を歩くのであった。




