白綾家の澪
夜の空気はとても澄んでいた。
もしも私が一人だったら、この空気は好きだったと思う。
張り詰めた静寂。白綾家の庭に設けられた祭壇の上で、淡い燭台の灯りが揺れている。
幾重にも重ねられた結界の内側には、白装束に身を包んだ巫女たちが円を描くように並んでいた。
私、白綾澪はその中の一人。
「――始めろ」
父である当主の声が、夜気を震わせた。
そして、巫女たちが一斉に祝詞を唱え始めた。
澄んだ声が重なり合い、見えない「力」を呼び起こすように空間が歪む。
月に一度行われる退魔の儀式。
屋敷の結界を張り替える行為でもあり、私たち巫女の霊力を測る行為でもあった。
足元に刻まれた陣が淡く光り、霊力の流れが目に見えるかのように揺らめいた。
隣に立つ姉――紫乃の足元からは、はっきりとした光が立ち上がっている。
まるで夜の中に一本の灯がともるように。
(……姉様、やっぱり、すごい)
私は、その光を横目で見ながら、心の中では焦っていた。
祝詞の言葉は間違っていない。
力の使い方も、教えられた通り。
集中もしている。
――なのに。
(……どうして私はできないの……)
私の足元には光が立ち上らない。
姉を含め、他の巫女たちの周囲には、目に見えぬ気配が確かに集まっている。
空気が重く、密度を増していくのが分かる。
自分の周りだけが、ぽっかりと空いているようだった。
じわりと、背中に冷たいものが流れる。
祝詞が後半に差し掛かり、霊力が一気に噴き上がる。
その瞬間――
私の足元に光が灯った。……でも、これは私の光じゃない。姉様が全員の光を覆い尽くすほどの力を解き放った。
そして、儀式が終わる。結界は無事に張り終え、巫女たちから安堵のため息がこぼれた。
静寂の中、巫女たちの視線が刺さる。気のせいじゃない。はっきりと、分かる。
足手まとい。そう思われているのは分かっている。
悪意の視線は一瞬で終わり、次に姉様への賛辞の視線へと変わる。
(……どうして……私はできないんだろ……)
唇を噛む。
分かっている。これが初めてじゃない。
何度も、何度も、繰り返してきた。何度も失敗した。
それでも――今日はできると思っていた。
「ご苦労。……貴様は今回も無能なままか……」
低い声が響いた。
儀式を見届けていた当主であるお父様の声だった。視線を一瞬だけ投げつけられる。
私は反射的に背筋を伸ばした。でも、もう私の方には顔を向けていない。満面の笑みを姉様に向けて――
「流石だ、紫乃。ふっ、娘がこうも優秀だといつ抜かされるかわからん」
「ありがとうございます、父様」
「あちらで夕餉の準備が出来ている。いくぞ」
周囲の空気が、ふっと緩むのが分かった。二人の足音が遠ざかる。もう見向きもされない。
ふと、姉様が振り返った。
「澪、次の儀式では足を引っ張らないで」
「……は、はい、ごめんなさい」
「謝るくらいなら修行して」
それだけ言って、再び背中を向ける姉様。わかっている、わかっているのに……できないんだ。
私は、ただ下を向いてちっぽけな自分の足元を見ていた。
「流石、紫乃様ね。これとは大違いね」
「あなた本当に巫女なの?」
「白綾の血が入ってるって……冗談よね」
「ほら、出来損ないに構っていないで、さっさと片付けるわよ」
「ええ、夕餉にしましょう」
聞こえないふりをするには近すぎる距離だった。
みんなが動くその流れの中で、私の周りだけが、ぽっかりと空いた。
誰も、近づかない。
誰も、声をかけない。
触れてはいけないものを見るみたいに、少し距離を取られる。
私は儀式の片付けをしようとしたけど――
「邪魔だからどいて」
と言われた。
片付けを終えた巫女たちは、談笑をしながら屋敷の中へと向かう。私はその輪の中に入ることができない。
『あなたは出来損ないでも白綾様なのよ。私たちとは違うわ、ははっ。来ないで頂戴』
前に言われた言葉が頭によぎる。
誰も、振り返らない。
誰も、気に留めない。
――最初から、いなかったみたいに。
私は、小さく息を吐いた。胸の奥が、じんわりと痛む。
でも、それももう慣れている。
今夜は、うまくいくかもしれないと。
そう思ってしまった自分が、少しだけ情けなかった。
***
去っていく巫女たちの後ろ姿を見ることしかできなかった。
私は白綾家の娘といっても出来損ない、霊力なしだ。扱いはほとんど使用人と変わらない。
巫女たちと一緒に炊事場で食事をするなんて……、あとで何をされるかわからない。
私は炊事場の裏口へと向かった。
「あら、澪様」
女中が気づいて、軽く頭を下げた。形だけの敬意だと分かっている。ただで食べるご飯はない。私は子どもの頃からそう言い聞かせられながら育った。
「……じゃあ、これお願いできる?」
洗い場に溜められた食器などの洗い物の山。私は腕まくりをして、洗い物の準備をする。
「はい、もちろんです」
「はぁ……まったく、あんたも不憫な子ね。他の巫女は雑務なんてしないわよ」
「いえ、いいんです。私が……出来損ないだからいけないんです」
流しに立ち、器を一つずつ洗う。
水の音だけが響く。
誰も私には話しかけてこない。嫌ってもいない。ただの労働力と思われている。
それが、少し楽だった。
しばらくして、女中が小さな盆を差し出した。私の雑務の対価だ。屋敷の使用人には父様から言い含められている。無能な私が何かを欲しがったら、対価を払わせろ、と。
もう物心ついた時からの習慣だから大丈夫。
「はい、ご苦労さまです。こちら、澪様のお食事です。こっちに座ってくださいな」
用意されていたのは、簡素な食事だった。使用人が食べるものと同じ。
温かくはないけど、ちゃんとした料理。
姉様たちとは比べるまでもないけれど――
「……ありがとうございます。いただきます」
小さく頭を下げる。
女中は少しだけ困ったように笑って、すぐに視線を外した。
私は裏口の端に座り、箸を取る。
一口、口に運ぶ。
「うん……、美味しい」
派手ではない。けれど、丁寧に作られている。
「こんなに美味しいのは、仕事したからだね。……なんだろう、美味しいのに……」
空っぽだったお腹に、じんわりと温もりが広がる。
なのに、悲しみが私の胸に広がる。
漏れ出しそうな嗚咽をこらえながら、私はご飯を噛み締めた。
知ってるんだ、辛いと思わなければ……辛くないんだ……。
***
炊事場の裏口から出ると、夜の闇がさらに深くなっていた。人間、現金なもので、お腹が満足すると見える景色も変わってくる。
さっきよりも気持ちが穏やかになった。
……それでも、胸の奥の重さは消えない。
微かな音が聞こえた。普通の人では分からない音。でも、私にはわかる。生まれつき私は、耳と目が敏感だった。
今は真っ暗だけど、夜目が利くから普通に歩ける。
物音の方へと向かう。裏手の物置の裏の方からだった。
かさり、と何かが擦れるような音が聞こえた。
「……誰かいるの?」
恐る恐る声をかけるけど、返事はなかった。でも、はっきりと人間の気配を感じる。もののけはこの結界内に入れるはずない。
私は少しだけ迷ってから、そっと近づいた。
物陰の奥に、小さな影がうずくまっていた。
――子どもだ。
使用人の子だろうか。まだ幼く、膝を抱えて座り込んでいる。
「どうしたの?」
しゃがんで視線を合わせると、びくりと肩が揺れた。
逃げようとするけれど、うまく立てないみたいだった。
そのとき、足元に赤いものが見えた。
「……怪我、してる」
足首のあたりが切れている。……お母さんに内緒で遊んでいて怪我をしたのかな? 見つかったら怒られるから隠れていたのかな?
子どもは私の顔色を……大人の顔色をうかがっていた。なんだか昔の私みたいに思えた。ううん、今もそうだね。
「ちょっと、見せて」
そっと手を伸ばす。一瞬だけ躊躇ったあと、その子は小さく頷いた。
(――なんだか今ならできそうな気がする)
子どもの足首を触りながら、感覚で『力』を使う。祝詞を謳う必要はない。だって、自分自身さえ発動条件がわからないから。
淡い光が傷口を一瞬で塞ぐ。子どもが驚いた顔をした。反面、私は身体が一気に重くなった。大丈夫、いつものことだもん。
「うん、これでもう大丈夫だね。早くお母さんのところに戻りなさいね」
そう言って、軽く頭を撫でた。
驚いた顔から、笑顔に変わった。私はそれが見られただけで、今日一日の疲れが吹き飛んだ気がした。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「気をつけてね。夜は危ないから」
「うん!」
子どもは何度も振り返って私に手を振った。私はその手に応えながら背中を見送った。
胸の奥がじんわりと温かい気持ちになった。
なんだか、久しぶりだなって思う。誰かに、怖がられないで見られるの。
……少しだけ救われた気がした。
私は小さく息を吐いて、再び屋敷の方へと歩き出した。
***
何もない自室へと戻る途中だった。
「――澪」
低い声で私を呼び止めたのは父様だった。
「……は、はい」
足を止めて、即座に振り返る。僅かな粗相でもあったら、私は投げ飛ばされる。
……父様は手を出してこなかった。ただ、私の顔を見ていた。出来損ないの私は、いまは亡き母様と瓜二つと言われた。
……でも愛されたことなんて一度もない。
「こちらへ来い」
父様はそれだけ言ってスタスタと廊下を歩く。
胸の奥が、わずかにざわつく。今までこんな風に呼ばれたことがなかった。
連れて行かれたのは、屋敷の奥――執務室だった。
普段、私が絶対に入ることのない場所。
畳も、調度も、空気も、すべてが違う。父様の霊力の匂いがした。
「そこに座れ」
畳の上に私は座った。緊張で背中から汗が止まらない。
父は向かいに腰を下ろし、まっすぐに私を見つめていた。
静寂がチクチクして痛かった。
「……出来損ないのお前に役目を与える」
唐突だった。私の瞳が揺れる。少しの期待と、多大な不安――
期待しても無駄だってわかってる。
「お前は九鬼家に嫁げ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……九鬼、家……?」
「そうだ。あの『鬼』の家系だ」
淡々と告げられた。実の娘に処刑宣言を告げるような気軽さで。九鬼家に入って、まともに生き残った巫女はいない、そう言われている。
あやかしを祓うためだけの呪われた家――それが九鬼家。いわく、鬼に取り憑かれた家、いわく、人間を喰っている家、いわく、巫女を飼い殺す家――
……でも――これが私の役目なら……。
私が唯一役に立てるかもしれない。
「……嫁入り……ですか」
自分の声が、少しだけ遠く感じられた。
「ああ。名目は巫女としての奉公だが……正直どうでもいい。先方はお前を所望だ。私にとって都合が良い。妻と同じ顔をした出来損ないは……もう見たくもない」
その一言で、すべて理解した。
――厄介払いだ。
「ふんっ、九鬼の当主は強い呪いを抱えている。欲に目がくらんだ巫女が何人も近づいては壊れた」
淡々とした説明。
まるで、道具の用途を語るみたいに。そして父様は立ち上がり、もうお前には用がないとばかりに――
「お前はどうなろうと構わん」
はっきりと、そう言われた。
胸の奥が、すっと冷える。痛みすら、感じないくらいに。
拒否権など、最初から存在していない。
私は今、この瞬間、生の諦めがついた。私は頭を垂れ、大きく息を吐く。
「……今までありがとうございました」
今生の別れ。それでも父様は早く出ていけと言わんばかりに苦い顔を向ける。
「出立は明日だ」
私は立ち上がった。震えそうになる足を動かし、私は部屋を出た。
父様の鼻で笑う音が背中から聞こえた。
扉を閉める。廊下を歩きながら、ふと、自分の手を見る。
さっき、あの子の傷を治した手だ。
あの子の温もりが残っている気がした。
(……私でも)
小さく、息を吐く。
(……どこかで、役に立てるのかな)
もしかしたら、鬼の家で役に立てるかもしれない。
浅はかな自分が、少しだけ悲しかった。




