2-5
ブランと別れたあと、クレアは入浴の準備を始めた。
使用人に着替えの用意を頼み、浴室に足を踏み入れる。
そこは、まさに理想郷であった。磨かれた石の柱が並び、床には美しい白いタイルが敷かれている。毎日の入念な手入れのおかげで、全体的に清潔感があった。
そして何より、広い。浴槽なんて、クレアが二十人いたって、十分くつろげる。
柄にもなく、泳げそうだな、なんて思ってしまったりして。クレアは、己のはしゃぎ様を、鼻で笑った。
クレアにとって、入浴は数少ない娯楽のひとつであった。身を清め、ゆっくり湯船に浸かれば、その日の疲れはすべて吹き飛ぶ。
どこにいても息苦しさを感じるハートレインの屋敷において、浴室だけは、唯一癒される場所だったのだ。今思えば、無駄に豪華で、目に悪いと思うほど煌びやかな装飾は、クレアの好みではなかった。それに、広すぎて手入れが行き届いていないこともあった。
それと比べれば、この浴室はわずかに狭く思えるけれど、手入れが行き届く程度の、絶妙な広さであることが分かる。なんといっても、装飾がうるさすぎないところがいい。
ブランは本当にセンスがいい。まるで脳内を覗き込まれているかのように、クレアの好みのものばかりが揃えられている。
クレアが湯船に浸かると、ふわりと花の香りがした。どうやら、入浴剤が入っているようだ。
――――こんなに素敵なお風呂なら、昨日も入ればよかった……。
クレアは、昨日の自分を口惜しく思った。
昨日は、とにかく警戒していた。風呂なんて、特に危険な場所だ。なんたって、文字通り丸裸なのだ。剣の腕に自信があっても、剣がなくては意味がない。
できる限り短時間で済ませるため、体を清めたあと、すぐに出てしまった。故に、こうして湯船にゆっくり浸かるのは、これが初めてである。
「……ふぅ」
ぼーっと天井を眺めながら、クレアは息を吐く。
ブランが敵ではないことは、理解した。そして、何より自分を愛してくれていることも。
「ブラン……」
ふと、彼の名を呟いて、その顔を思い浮かべる。
彼を恐れずに見るようになってから、彼が美形であることを実感した。
真ん中で分けられた黒髪は、少し癖づいているものの、清潔感と艶があった。
すみれ色の目には、宝石めいた美しさがある。
外見で人の良し悪しを決めるわけではないが、好みくらいは存在する。特に黒髪は、クレアが好ましく思う色だった。
――――あの人が、私の旦那様……。
甘く愛を囁かれたことを思い出し、クレアの心が、とくんと跳ねる。この温かさは、きっと湯船だけのせいじゃない。
彼の瞳に見つめられると、自分のすべてを肯定されているような、穏やかな気持ちになる。
クレアは、他人と居る間、常に気を張っている。そんな彼女が警戒を解ける相手がいるとすれば、それはきっとブランだけだろう。
彼女自身、こんなにも明日が楽しみと感じる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
◇◆◇
その日、ベルモンド家に、二人の賊が迫っていた。
黒い装束を身に纏った男たちが、寝静まった屋敷を見上げている。
二人の賊は、その無防備さにほくそ笑む。
彼らの目的は、公爵家の令嬢であるクレアの身柄だった。
公爵領は、厳重な警備で守られており、強盗や誘拐など、様々な犯罪を目論む者たちは、諦めるほかなかった。
しかし、男爵家のセキュリティは、公爵家には遠く及ばない。
夢にまで見た公爵令嬢が、目と鼻の先にいる。元とはいえ、公爵という高い身分であり、なにより優れた美貌をもつ。これが高く売れないはずがない。
クレアの人生? そんなものは関係ない。これまでだって、何十人と売り捌いてきた。今回だって上手くいく。彼らには、この屋敷が巨大な宝物庫に見えていた。
――――しかし、宝物庫には、番人がつきものである。
「これはこれは……ずいぶんと非常識なお客様だ」
背後から声をかけられ、二人はとっさに振り返る。
そこには、月明かりを背負った少年の姿があった。
ブラン=ベルモンド。この屋敷の主人である彼は、ゆっくりと賊に歩み寄る。
「彼女には指一本触れさせないよ」
二人の賊は、すぐさまナイフを抜き、身構える。
その動きは洗練されており、彼らが素人ではないことを表していた。
「今すぐ投降すれば、命までは取らない。さあ、どうする?」
「――――殺す」
片方の賊が、ブランの右側面から斬りかかる。
一切躊躇のない、不意をつくような一撃だった。しかし、ブランはそれをいともたやすくかわす。
刹那、ブランは剣を抜くと同時に、刃を走らせた。
閃光が闇を裂き、賊の首から鮮血が噴き出す。
崩れ落ちた仲間を見て、残った賊はとっさに後ろに下がる。
血の香りが周囲に広がる。賊は、本能的な恐怖を覚えた。
思いつきで、投げナイフを指で掴む。少なくとも、近づけば勝ち目がないのは自明。ならば、やつの間合いの外から隙を作る。
ブランは、憐みの視線を向けた。そして、この程度の距離で間合いから外れた気になっている、そのおめでたい脳みそを蔑んだ。
「――――〝断輪〟」
爆発的な踏み込みと共に、ブランが地を駆ける。
賊がナイフを投げる前に、月夜に煌めく刃が、その肘から先を斬り飛ばす。
ナイフを握ったままの腕が、宙を舞う。
「ぎっ――――」
賊が悲鳴を上げようとした瞬間、ブランの剣が、賊の喉を斬り裂いた。
飛び出すはずの悲鳴が途切れ、噴水のように溢れる血液と共に、ひゅーひゅーと息が漏れる。
「しー……」
ブランは、口元に指を当て、目を細める。
「君の汚い悲鳴で、愛しの妻を起こしたくない」
意識が薄れていく中、賊は最後の力を振り絞り、残った腕でナイフを突き出す。
凶刃が肉に触れる前に、ブランの刃が、賊を斬り捨てる。
賊の目から光が消え、その場に崩れ落ちた。
月明かりが、返り血を浴びたブランを照らす。時折吹く夜風が、彼の髪を優しく揺らす。
この日は、実に静かな夜だった。
◇◆◇
――――クレアは、毎晩のように夢を見ていた。
それは〝あの日〟の悪夢だった。
ここは、パーティーの会場。多くの貴族が集まっていて、王子による重大発表を、今か今かと待っていた。
そう、これはクレアとリンゼルが、正式に婚約を発表するための場だった。
クレアの目の前には、リンゼルがいる。
金髪のショートウルフカットに、切れ長の瞳。
水色の瞳は、まるで清らかな海のように透き通っていて、目元にあるほくろが、得も言われぬ色気を醸し出している。
クレアは、リンゼルの顔色を窺った。彼の表情からは、普段とは比べものにならないほどの冷たさを感じた。このときから、クレアは少しだけ、嫌な予感を抱いていた。
いよいよ、リンゼルが壇上に立つ。
このあと、クレアは婚約者として、彼の隣に並ぶ――――はずだった。
「クレア、君との婚約を破棄させてもらう」
どこまでも冷たい瞳が、クレアを射抜く。
何故? そう問うと、リンゼルの隣に、ひとりの少女が現れる。
赤茶色のストレートボブに、ターコイズブルーの瞳。
整った顔立ちではあるものの、綺麗というよりは、素朴な可愛らしさを持っている。
彼女は、アリス=エルバンスと名乗った。クレアには、見覚えがなかった。
――――どうやらクレアは、彼女にひどい嫌がらせを行ったらしい。
クレアに、そういった覚えは一切なかった。そもそも、そんな暇はなかった。
王族の妻に相応しくあるために、他者に構っている時間なんて、あるはずがなかったのだ。
何かの間違いであってほしいと、クレアは周囲を見回す。どこかに、自分を見てくれていた人がいるはずだと、助けを求めた。
しかし、そこにいたのは、顔を真っ青にした学友たちと、慌てふためく家族だった。
すべてが崩れていく。何もかもなくなり、暗闇へと落ちていく。
苦しい、怖い。懸命にもがく。しかし、掴まるものなんて何もない。
悪夢は、いつもここで終わる。自分がどん底に落ちたことを再認識して、ようやく目を覚ます。
しかし、どこからともなく伸びてきた手が、クレアを掴む。
体がぐんと浮上する感覚があって、遥か遠くに光が見えてくる。それは少しずつ、でも確実に近づいてきて、やがてクレアを包み込む。
光の奥には、彼がいた。
すみれ色の目をした彼は、優しくクレアを抱きしめる。
もう、苦しくも、怖くもなかった。
――――この日以来、クレアが同じ悪夢を見ることは、二度となかった。




