表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

2-5

 ブランと別れたあと、クレアは入浴の準備を始めた。

 使用人に着替えの用意を頼み、浴室に足を踏み入れる。

 そこは、まさに理想郷であった。磨かれた石の柱が並び、床には美しい白いタイルが敷かれている。毎日の入念な手入れのおかげで、全体的に清潔感があった。

 そして何より、広い。浴槽なんて、クレアが二十人いたって、十分くつろげる。

 柄にもなく、泳げそうだな、なんて思ってしまったりして。クレアは、己のはしゃぎ様を、鼻で笑った。

 クレアにとって、入浴は数少ない娯楽のひとつであった。身を清め、ゆっくり湯船に浸かれば、その日の疲れはすべて吹き飛ぶ。

 どこにいても息苦しさを感じるハートレインの屋敷において、浴室だけは、唯一癒される場所だったのだ。今思えば、無駄に豪華で、目に悪いと思うほど煌びやかな装飾は、クレアの好みではなかった。それに、広すぎて手入れが行き届いていないこともあった。

 それと比べれば、この浴室はわずかに狭く思えるけれど、手入れが行き届く程度の、絶妙な広さであることが分かる。なんといっても、装飾がうるさすぎないところがいい。

 ブランは本当にセンスがいい。まるで脳内を覗き込まれているかのように、クレアの好みのものばかりが揃えられている。

 クレアが湯船に浸かると、ふわりと花の香りがした。どうやら、入浴剤が入っているようだ。


――――こんなに素敵なお風呂なら、昨日も入ればよかった……。


 クレアは、昨日の自分を口惜しく思った。

 昨日は、とにかく警戒していた。風呂なんて、特に危険な場所だ。なんたって、文字通り丸裸なのだ。剣の腕に自信があっても、剣がなくては意味がない。

 できる限り短時間で済ませるため、体を清めたあと、すぐに出てしまった。故に、こうして湯船にゆっくり浸かるのは、これが初めてである。


「……ふぅ」


 ぼーっと天井を眺めながら、クレアは息を吐く。

 ブランが敵ではないことは、理解した。そして、何より自分を愛してくれていることも。


「ブラン……」


 ふと、彼の名を呟いて、その顔を思い浮かべる。

 彼を恐れずに見るようになってから、彼が美形であることを実感した。

 真ん中で分けられた黒髪は、少し癖づいているものの、清潔感と艶があった。

 すみれ色の目には、宝石めいた美しさがある。

 外見で人の良し悪しを決めるわけではないが、好みくらいは存在する。特に黒髪は、クレアが好ましく思う色だった。


――――あの人が、私の旦那様……。


 甘く愛を囁かれたことを思い出し、クレアの心が、とくんと跳ねる。この温かさは、きっと湯船だけのせいじゃない。

 彼の瞳に見つめられると、自分のすべてを肯定されているような、穏やかな気持ちになる。

 クレアは、他人と居る間、常に気を張っている。そんな彼女が警戒を解ける相手がいるとすれば、それはきっとブランだけだろう。

 彼女自身、こんなにも明日が楽しみと感じる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。


◇◆◇


 その日、ベルモンド家に、二人の賊が迫っていた。

 黒い装束を身に纏った男たちが、寝静まった屋敷を見上げている。

 二人の賊は、その無防備さにほくそ笑む。

 彼らの目的は、公爵家の令嬢であるクレアの身柄だった。

 公爵領は、厳重な警備で守られており、強盗や誘拐など、様々な犯罪を目論む者たちは、諦めるほかなかった。

 しかし、男爵家のセキュリティは、公爵家には遠く及ばない。

 夢にまで見た公爵令嬢が、目と鼻の先にいる。元とはいえ、公爵という高い身分であり、なにより優れた美貌をもつ。これが高く売れないはずがない。

 クレアの人生? そんなものは関係ない。これまでだって、何十人と売り捌いてきた。今回だって上手くいく。彼らには、この屋敷が巨大な宝物庫に見えていた。


――――しかし、宝物庫には、番人がつきものである。


「これはこれは……ずいぶんと非常識なお客様だ」


 背後から声をかけられ、二人はとっさに振り返る。

 そこには、月明かりを背負った少年の姿があった。

 ブラン=ベルモンド。この屋敷の主人である彼は、ゆっくりと賊に歩み寄る。


「彼女には指一本触れさせないよ」


 二人の賊は、すぐさまナイフを抜き、身構える。

 その動きは洗練されており、彼らが素人ではないことを表していた。


「今すぐ投降すれば、命までは取らない。さあ、どうする?」

「――――殺す」


 片方の賊が、ブランの右側面から斬りかかる。

 一切躊躇のない、不意をつくような一撃だった。しかし、ブランはそれをいともたやすくかわす。

 刹那、ブランは剣を抜くと同時に、刃を走らせた。

 閃光が闇を裂き、賊の首から鮮血が噴き出す。

 崩れ落ちた仲間を見て、残った賊はとっさに後ろに下がる。

 血の香りが周囲に広がる。賊は、本能的な恐怖を覚えた。

 思いつきで、投げナイフを指で掴む。少なくとも、近づけば勝ち目がないのは自明。ならば、やつの間合いの外から隙を作る。

 ブランは、憐みの視線を向けた。そして、この程度の距離で間合いから外れた気になっている、そのおめでたい脳みそを蔑んだ。


「――――〝断輪(エスカロン)〟」


 爆発的な踏み込みと共に、ブランが地を駆ける。

 賊がナイフを投げる前に、月夜に煌めく刃が、その肘から先を斬り飛ばす。

 ナイフを握ったままの腕が、宙を舞う。


「ぎっ――――」


 賊が悲鳴を上げようとした瞬間、ブランの剣が、賊の喉を斬り裂いた。

 飛び出すはずの悲鳴が途切れ、噴水のように溢れる血液と共に、ひゅーひゅーと息が漏れる。


「しー……」


 ブランは、口元に指を当て、目を細める。


「君の汚い悲鳴で、愛しの妻を起こしたくない」


 意識が薄れていく中、賊は最後の力を振り絞り、残った腕でナイフを突き出す。

 凶刃が肉に触れる前に、ブランの刃が、賊を斬り捨てる。

 賊の目から光が消え、その場に崩れ落ちた。

 月明かりが、返り血を浴びたブランを照らす。時折吹く夜風が、彼の髪を優しく揺らす。

 この日は、実に静かな夜だった。


◇◆◇


――――クレアは、毎晩のように夢を見ていた。


 それは〝あの日〟の悪夢だった。

 ここは、パーティーの会場。多くの貴族が集まっていて、王子による重大発表を、今か今かと待っていた。

 そう、これはクレアとリンゼルが、正式に婚約を発表するための場だった。

 クレアの目の前には、リンゼルがいる。

 金髪のショートウルフカットに、切れ長の瞳。

 水色の瞳は、まるで清らかな海のように透き通っていて、目元にあるほくろが、得も言われぬ色気を醸し出している。

 クレアは、リンゼルの顔色を窺った。彼の表情からは、普段とは比べものにならないほどの冷たさを感じた。このときから、クレアは少しだけ、嫌な予感を抱いていた。

 いよいよ、リンゼルが壇上に立つ。

 このあと、クレアは婚約者として、彼の隣に並ぶ――――はずだった。


「クレア、君との婚約を破棄させてもらう」


 どこまでも冷たい瞳が、クレアを射抜く。

 何故? そう問うと、リンゼルの隣に、ひとりの少女が現れる。

 赤茶色のストレートボブに、ターコイズブルーの瞳。

 整った顔立ちではあるものの、綺麗というよりは、素朴な可愛らしさを持っている。

 彼女は、アリス=エルバンスと名乗った。クレアには、見覚えがなかった。


――――どうやらクレアは、彼女にひどい嫌がらせを行ったらしい。


 クレアに、そういった覚えは一切なかった。そもそも、そんな暇はなかった。

 王族の妻に相応しくあるために、他者に構っている時間なんて、あるはずがなかったのだ。

 何かの間違いであってほしいと、クレアは周囲を見回す。どこかに、自分を見てくれていた人がいるはずだと、助けを求めた。

 しかし、そこにいたのは、顔を真っ青にした学友たちと、慌てふためく家族だった。

 すべてが崩れていく。何もかもなくなり、暗闇へと落ちていく。

 苦しい、怖い。懸命にもがく。しかし、掴まるものなんて何もない。

 悪夢は、いつもここで終わる。自分がどん底に落ちたことを再認識して、ようやく目を覚ます。

 しかし、どこからともなく伸びてきた手が、クレアを掴む。

 体がぐんと浮上する感覚があって、遥か遠くに光が見えてくる。それは少しずつ、でも確実に近づいてきて、やがてクレアを包み込む。

 光の奥には、彼がいた。

 すみれ色の目をした彼は、優しくクレアを抱きしめる。

 もう、苦しくも、怖くもなかった。


――――この日以来、クレアが同じ悪夢を見ることは、二度となかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ