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早朝、午前五時。
俺の朝は、このときより始まる。
顔を洗い、寝衣から簡素なシャツに着替え、すぐ庭に出た。まだ外は薄暗く、冷たい風が吹いている。
訓練用の木剣を手に取り、日課の素振りをこなす。
頭の中で、回数を数えながら、ただひたすらに剣を振るう。剣が空を裂く音は、集中するにつれ、聞こえなくなっていく。鳥のさえずりや、木々の揺れる音さえも。
剣術は、貴族の嗜みである。位が高い者ほど、相応の実力が求められるのだ。
前世の記憶に目覚めてからの十二年間、一日たりとて鍛錬を欠かさなかった。
すべては、クレアを迎え入れ、幸せにするためである。
賊に襲われ、クレアを奪われるかもしれない。
自分より強い者に、クレアが目移りしてしまうかもしれない。
そう思えば思うほど、強さを追い求めた。
鍛錬を続けた結果、いつの間にか、最強と謳われるスイーテニア王国の騎士団長を凌駕する力を手にしていた。しかし、その力を行使したことは、まだ一度もない。
我が剣は、クレアのためにある。己の力を誇示するために振るつもりは、一切なかった。
極限まで集中することで、朝の短い時間であっても、十分な負荷がかかる。そのため、素振りが終わる頃には、滝のような汗をかいている。
鍛錬を切り上げ、風呂で汗を流す。
屋敷の風呂は、瀟洒なつくりをしている。屋敷を彩る調度品によく合うデザインだ。これらはすべて、俺が熟考し、選んだものである。特に風呂場は気合いをいれた。なぜなら、身を清めることが好きなクレアを喜ばせるためである。
午前七時、朝食づくり。
手際よく、二人分の朝食をつくっていく。
主食のパンに、サラダ、オニオンスープ、オムレツ。
パンとスープは、前日に仕込んでおいたものだ。
あっという間に料理が揃い、ダイニングに運ぶ。いつもの席に腰掛け、少しすると、愛しのクレアが現れた。
「お、おはようございます、クレア様」
思わず声が上ずりそうになるのを、懸命に堪えた。
美しい銀髪をさらに映えさせる、白のワンピース。昨日よりは比較的ラフな格好でありながら、彼女の魅力は損なわれるどころか、ますます増していた。
何より、愛しの人と朝食をとることができる幸福が、俺の頭を支配していた。
「目覚めはいかがでしたか? 昨日はさぞお疲れかと思いましたが……」
平静を装いながら、クレアを気遣う言葉を口にする。
そんな俺を、クレアはじーっと見つめていた。
「えっと……何か?」
「なぜ、あなたは私を様付けで呼んでいるのかしら」
ひゅっ――――と、口から息が漏れた。
まさか、そう話を切り出してくるとは。返す言葉を考えておらず、あからさまに動揺してしまう。
「そ、それはその、えーっとぉ……」
「だって、おかしいわ。私には、呼び捨てにするよう言ったのに。何か、理由でもあるの?」
クレアは、俺を観察するように、じっと見つめ続ける。
もはや、観念するほかあるまい。逡巡したのち、口を開く。
「……いや、ないよ。すまなかった、クレア。どうやら俺は、ずいぶん緊張していたようだ。これからは、敬語もなしにしよう」
緊張? なぜ? そう言いたげな顔で、クレアは首を傾げた。
「ま、まずは食事にしよう」
そう誤魔化して、俺は彼女の椅子を引いた。
食事中、ダイニングには、食器を扱う音だけが響いていた。
何度か話しかけてみたが、「ええ」とか「そう」とか、短い相鎚を返されるだけで、クレアから話題を振られることは、今のところない。
ただ、会話なんてなくても、俺の心は弾んでいた。あの愛しのクレアと食事しているだけで、踊り出したくなるくらい幸せだった。
――――それにしても、綺麗だなぁ……。
クレアの所作に、思わず見惚れる。
俺も、貴族らしいマナーは身につけているが、クレアには、マナーの域を超えた気品があった。
美しい。ああ、美しいな。語彙力が、死んでいく。
「……じろじろ見ないで。食べにくいわ」
「おっと、すまない。あまりにも所作が美しくて」
笑みを浮かべて、誤魔化した。それが気に入らなかったのか、クレアは少しむっとする。
――――本当のことなんだけどなぁ。
そう思っていると、オムレツを口に運んだクレアが、控えめに目を見開いた。
「……料理人の腕がいいのね」
「それは光栄だ。特にオムレツは得意料理でね」
「得意料理……? まるで、あなたが作ったような口ぶりね」
「ああ、俺が作ったからな」
クレアは、ぎょっとした顔で、カトラリーを落とす。
すぐさま、使用人が新しいものを持ってくる。クレアはそれを申し訳なさそうに受け取ると、軽く咳払いをした。
「……本当なの?」
「ああ、そうだけど……」
クレアが、オムレツをひとくち口に運ぶ。
様子がおかしいクレアに対して、不安な気持ちが募っていく。
俺の料理なんて食べたくなかったかもしれない。もしや、余計なことをしてしまったのだろうか。そう肩を落としていると、クレアがぽつりとつぶやく。
「――――おいしい」
「えっ⁉」
声が裏返ってしまった。
クレアが、俺の料理を美味しいと言ってくれた。もう一度言おう。愛しのクレアが、俺の料理を美味しいと言ってくれたのだ。こんな幸せなことが、他にあるだろうか。
「……変な人」
涙を流しながら、天を仰ぐ。そんな俺に、クレアは昨日と同じ言葉を口にした。
それから、またしばらく無言の時間があった。しかし、さっきと違って、そこに重たい空気はなく、ただ食事に集中しているだけだった。
「ねぇ、ブラン」
なんと、クレアが俺の名を呼んでくれた。
激しい鼓動を気合いで抑え、俺は平静を取り繕う。
「なんだい?」
「あなた、人を食べるってほんと?」★
予期せぬ質問に、思わずむせた。少し咳込んだあと、俺は苦笑いを浮かべた。
「えっと……それは、食事中じゃないと駄目な話かな?」
「……ごめんなさい、確かにここでする話ではなかったかも」
クレアが、申し訳なさそうに目を伏せる。
男として、愛おしい彼女にこんな顔をさせておくわけにはいかない。ただ、人なんて食べないと言っても、クレアはあっさり信じてくれるだろうか?
「君は、俺をどう見る?」
「……変な人」
クレアは、少し考えて、控えめな声でそう言った。
「そうきたか」
「鬼畜男爵とは、思えないほどのね。まあ、あなたが名優という可能性も残っているけど」
「俺もそうであってほしいよ。名優なら、君への愛も少しは隠せるのにね」
精一杯の決め顔で、ふっと笑ってみせる。
――――今度こそ決まった……!
これなら、ときめくこと間違いなし。クレアだって、少しは心を開いてくれるはず。
「……胡散臭いわ」
逆効果だったらしい。
「いや、その……君を愛しているのは本当だよ? 君と結ばれたい一心で、ハートレイン家に頭を下げたんだし……」
もじもじと人差し指同士を合わせながら、言い訳するように言った。
実際、男爵家が公爵家に縁談を持ちかけるなど、その場で首を刎ねられてもおかしくない話。
ゲームの流れとして、結婚が許されることは分かっていても、うっかり粗相でもしようものなら、命がいくらあっても足りないだろう。
俺は、それほどの覚悟を持って、ハートレイン家に頭を下げたのだ。
「どうかしら。私ほどの美貌を好きにできるのなら、命なんて惜しくない男も多いんじゃない?」
クレアは、己の胸元を指で撫でた。




