2-1 新婚生活
エントランスに立ち尽くすクレアを前に、俺は激しく葛藤していた。
今すぐにでも抱きしめたい。しかし、いくら夫婦になるとはいえ、いきなりそんなことをすれば、二人の間にはどんな谷よりも深い溝ができてしまう。
そっと手を引き、屋敷の中へ。
「え……?」
クレアが、屋敷の内装を見て声を漏らす。
血みどろで、凄惨な光景が待っていると予想していたのだろう。しかし、目の前に広がっているのは、清掃が行き届いた美しいエントランス。クレアが唖然としているのが見て取れる。
「どうされました?」
「いえ……いい使用人を雇っているのね」
「ええ、我が家の使用人は、皆一流です。決して、あなたに不自由はさせません」
控えていた執事が、誇らしげに一礼する。
「まずは、屋敷を案内します。さあ」
手を引いて、クレアと共に階段を上がる。
そして、クレアの部屋に案内した。
三十畳ほどの部屋で、まず目に入るのが天蓋付きのベッドだ。艶のあるシルクの天蓋と、キングサイズの大きなベッド。ぴんと張られた清潔なシーツ、そして上質な羽毛布団は、安眠を約束してくれるだろう。
その他にも、クレアの愛読書が揃えられた本棚や、大きな鏡のドレッサー、ティーテーブルにソファなど、必要最低限のものはすべて揃っている。
屋敷にあるものはすべて、クレアの好みを考えて用意したものだ。
「家具は私のほうで揃えましたが、合わないものがあれば言ってください。すぐに新しいものを取り寄せます」
「あなたが……? い、いえ、すごく気に入ったわ。特にこのベッドがすごくいい。ありがとう、ブラン様」
「いえいえ、当然のことをしたまでですよ」
俺はスマートにそう言って、爽やかな笑みを浮かべながら、内心ガッツポーズを決めた。
どれもクレアのことを考えて選んだものだったから、本当は今すぐ飛び跳ねてしまいたいくらい、嬉しかった。特に時間をかけて選んだベッドが、一番お気に召したようで何よりだ。
「ああ、それと……私を呼ぶときは、ブランで結構です。どうぞ、リラックスしてお過ごしください」
「……ええ、そうさせてもらうわ」
クレアの声が、再び棒読みに戻る。
――――やはり、警戒されているか。
少しだけ、心が痛む。しかしそれは、警戒されていることに対してではなく、クレアがそういう生き方しか知らないことに対してだった。
クレアには、公爵家の娘として育てられたプライドがある。
たとえ、その身を弄ばれようとも、決して命乞いなどせず、みっともなく喚くこともない。
散るときは、物言わぬ花のように――――。それが、クレアに根付いている教え。
故に、クレアは俺を警戒している。いつナイフを突き立てられてもいいように、俺から注意を逸らさない。
「……クレア様が不安に思うのも、無理はないです。私には黒い噂がたくさんありますから」
膝をつき、クレアの手を取る。彼女の手は、やはり少し震えていた。
それでも、言わねばならない。たとえ、今は信じてもらえなくても。
「ですが、私はいつでも、あなたの味方です」
クレアが、リンゼルに婚約破棄されたことには、理由がある。
クレアの両親や、同学年の取り巻きたちは、リンゼルが、ゲーム本編の主人公と親しい仲になることを、激しく拒否していた。王族に取り入ることができる絶好の機会を、底辺貴族ごときに横取りされるわけにはいかなかったからだ。
そこから、主人公への激しい嫌がらせが始まった。
クレアは、その事情を一切知らぬまま、王族に嫁ぐためだけに、心血を注いで努力をしていた。そんな中、嫌がらせの事実が明るみに出ると、両親や取り巻きたちは、罪を逃れるために、すべてをクレアに擦りつけた。
そして、クレアは婚約破棄をされ、悪名高い貴族のもとに、追いやられるように嫁ぐ羽目になったのだった。
これが、ゲーム本編では、〝嫉妬に狂ったクレアが、主人公を追い詰めた〟ということしか語られず、発売当初は、その残忍さから、ファンに〝冷血令嬢〟という不名誉な呼び方をされていた。
しかし、後に発売されたファンブックで、裏設定として真実が語られてからは、コアなファンからは人気を集めていた。
俺も、この事実を知ってから、ますますクレアに同情し、さらに大きな愛情を持つことになったのだった。
クレアはきっと、この事実を墓まで持っていこうとしている。
直接嫌がらせをしたわけじゃないといはいえ、彼らの行いに気づけなかった自分にも、間違いなく責任がある。彼女は、そんなふうに考える人間だから。
「……あなたは、私が嫌ではないの? 王子の婚約者を陥れようとしたのよ」
クレアは自嘲する。それは、これ以上傷つかないようにしているかのようだった。
「まさか。あなたが潔白なのは分かっていますよ」
なんでもないかのように、そう言い返した。
クレアは一瞬、はっとしたような顔をするが、すぐに俺を睨みつけた。
「あなたに、私の何が分かるの? こんな醜い女を娶ったことを、肯定したいだけの強がりにしか聞こえないわ」
クレアの目には、深い疑いの色がある。
家族に、友に裏切られ、今のクレアには、心から信じられるものなど、ひとつとして存在しない。
それでも、俺は真っ直ぐにクレアを見つめ続ける。ほんの少しでも、彼女に信じてもらえるように。
「私は、君を愛している。君が、この世に生を受けてよかったと、心の底から思えるように、私が君を幸せにしてみせる」
クレアが、息を呑む気配がした。
――――ふっ、決まったな……。
ずっと、クレアに伝えようと思っていた言葉を、ようやく伝えることができた。
達成感が、胸に満ち溢れた。
「――――馬鹿みたい」
しかし、帰ってきた言葉は、これ以上ない悪態だった。
がくっと崩れ落ちそうになるのを、懸命に堪える。
まあまあ、焦ることはない。こんな言葉ひとつで、クレアの心の傷を癒せるはずがないのだ。
地道に、ゆっくり、一歩ずつ。自分が発した言葉を、現実にしていけばいい。
「さあ、日が暮れないうちに、他の部屋の案内もしましょう」
クレアの手を取ったまま、俺は歩き出す。
「……変な人」
後ろから、そんな声が聞こえた。
心なしか、さっきよりも優しい声色だったような気がした。




